プロローグ

 目を開けても、何も映らない。
 一点の光もない。指を動かしても、なにも触れない。足の下に大地がない。
 
 無音の闇のなかに、あなたはひとり浮いていた。
 皮膚の境界すら感じられない。魂となって虚空に吸い込まれ、また深淵に飲み込まれていくようだ。

 ふと、小さな振動を感じた。
 くぐもった単調な音声が遠くで聞こえる。秒読みをしている。

『55……正常……50……脳波……45……体温異常ナシ……培養液排出』

 合成音声のようだ。にわかに振動音が大きくなり、目の前に小さな光が灯った。あなたは目をしばたいた。

『すべて正常です。プログラム完了。カプセルオープン』

 不意に天がひらき、新しい空気が落ちてきた。
 暗い天井がある。周囲も暗く、計器らしい光がちらちらと光っている。

「ゆっくり起きなさい」

 人声が意外に近くにいた。
 白衣を着た男が見下ろしている。支えられて起き上がり、あなたは自分が全裸であることに気づいた。

「よし。きみは完璧だ」

 白衣の男はあなたのからだを見つめた。見知らぬ男だ。頭から、足先までしげしげと見ている。
 少々その視線が長すぎる。あなたが身じろぎすると、

「おお」

 彼は思い出した。

「状況がわからないだろうね。じつは、きみは大怪我をしていた。戦闘で負傷したんだよ。救出されたんだ」

 戦闘、と言った。
 あなたは彼を見返した。

「きみは兵隊なんだ」

 彼は言った。

「とても優秀な兵隊だった。ある特殊任務についていた。だが、その作戦は失敗し、激戦となった。きみの部隊は全滅した。きみだけがかろうじて救出されたのだ。だが、きみも死にかけていた」

 彼はあなたの座る金属のタンクに手をふれ、

「からだの半分がガス壊疽をおこして、腐り落ちていてね。われわれはこのきみを培養カプセルに入れ、組織を再生させなければならなかった」

 あなたはつい自分の裸の腹を見た。腹は男らしく筋肉で割れている。

「からだのほうは完璧に回復した。本来なら、これからゆっくり時間をかけてリハビリしなければならないところだ。きみの記憶を回復させなければならない。きみは今、なにも覚えていない。そうだろう?」

 男がのぞきこむ。
 あなたは少しぼんやりした。

 真っ暗なタンクの中にいたせいか、現実感がひどく希薄だ。たしかに自分は兵隊で、戦闘に参加したような気もしてくる。

「きみはいま、戦闘員として白紙の状態だ。本来なら、新兵訓練からやりなおさなければならないところだ。だが、軍はそれを待つつもりはない。今すぐきみをミッションに参加させろというんだ」

 男は気の毒そうに言った。

「すまない。きみをまた戦地に放り出さなければならない」

 その時、部屋の一角が四角く開いた。

「外科部長!」

 光とともに背の高い人物があわただしく入ってくる。

「やつはもう支度は? ――おい、まだそんな格好か」

「少佐、彼はまだ――」

 入ってきた男はあなたを見て憤慨したように怒鳴った。

「ウティス! さっさと装備をつけろ。あと5分で小隊は出発だ」

 あなたは白衣の男を見た。
 外科部長は、

「ウティス(誰でもない)というのが、きみのTACネームだ」

 と言った。


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