bluest
双丘がダンスを踊っていた。
正確に言うと、リズミカルな音楽にあわせて、陽光の中、裸の男の尻が目の前で振られていた。
腰をひねり、腕をあげ、ステップを踏む。細身の身体についた筋肉が美しい。地中海の夏の陽射しを浴び、汗がダイアモンドのように光る。
「アンリ」
私は先ほどから忍耐強く続けている呼びかけを再度試みた。
青年は、一度大きく伸びをすると、しぶしぶ音楽を停止し、振り向くと毒づいた。
メルド(くそ)!フィス・ド・ピュタン(淫売の息子)!
「邪魔するなよ、フレッド」
光の降り注ぐサンルームで、神秘的なスミレ色の瞳が私を見る。
アンリの後ろには白いテラスとプール、そしてその先のビーチまでが見渡せた。
青い海、最も青い、青の中の青。地中海の青、ブルーエスト。
人は私の瞳と同じ色だと言う。
ガラス張りのサンルームの窓は開け放してあり、心地良い風が入ってくる。
いったい何時間続けるつもりなのだ、と呆れて言うと、アンリは馬鹿にしたように答えた。
「有酸素運動なんだから、一定時間続けないと意味ないだろ」
君もした方が良いと思うけどね、とアンリは続けた。
私はため息をついた。
静かな楽園の島で、いったいぜんたいどうして頭が痛くなるような騒がしい音楽を鳴り響かせて、路上の若者のように踊らないといけないのだろう。運動なら他にいくらでもあるじゃないか。
アンリにそのことを告げると、彼は屈伸運動をしながら、前々から思っていたのだけど、と言った。
「君っておやじくさいよね!」
私はつん、と横を向いた。
アンリは確かに私よりも年下だが、私に言わせると彼の精神年齢は年よりずっと幼いのだ。比較されても困る。
「君みたいにだらだら過ごしてると、すぐに腹が出て、醜い中年男になっちまうんだから」
アンリは大股で私の側までやってくるとー長身のアンリにとってはほんの数歩にすぎないー傍らに座り、飲みかけのワインを奪った。
かすかに汗の匂いがして、私はセクシーな気分になったが、アンリはそうでもないらしい。スミレ色の瞳が私の身体を上から下までじろじろ見たが、性的なものは感じられなかった。
もちろん、私も素裸だ。アンリには負けるが、充分な背丈と均整のとれた体格は、今でも充分鑑賞にたえるはずだ。
‥少々変わった装飾はされているが。
「でも、まったくしてないってこともないよね。アメリカ人ってさ、朝はハイドパークを走って、仕事の合間にはジムに行かないといけないんだろ」
ヨーロッパ人の高慢はアンリにも適用されるらしい。
多くのヨーロッパ人にとって、アメリカ人の身体はポテトチップスとガムでできているし、頭にはドルがつまっている。乗馬の代わりに自ら公園を走り、海辺のバカンスではなく、ジョギングとウォーキングで日焼けする。アメリカ人のーこの場合ニューヨーカーのエグゼクティブのものだがー常識は彼らの揶揄の対象だ。
私は公園を走る趣味はないし、ジムにも最近は行ってない、と告げ、小さな声で、ジムには行けないし、と続けた。
不自然な沈黙が流れ、アンリは、私の醜く膨れ上がってピアスを通された乳首や、いくつもの傷や痣、鞭打たれ、強く吸われ、噛みつかれ、蝋をたらされた痕跡の残る肌を見ていた。
私を飾る装飾は、ある種の人間にはたまらなく魅力的だが、普通の人間にとっては目をそらし、唾棄すべきものだろう。
アンリの複雑そうな表情を見て、私は慌てて言った。
「その代わり家の中にトレーニングの道具は揃っているから、問題はない」
けれども、アンリはそれには答えず、立ち上がった。
彼の苦痛を感じ、私は俯いた。
こうして二人だけで「外」にいる時の私たちは、よく普通の恋人どうしのように振舞った。
けれども、それは幻想にすぎない。そして、アンリはそのことをよくわかっている。わかっていながらも、青年はつかのまの夢を見る。
腹が減ったな、何か作ろう、とアンリは私を見ることなく言った。
私は心底驚いて彼を見た。
「食事を作れるの?」
アンリは振り向くと、片眉をあげた。そうすると嫌味で傲慢で気取ったフランス人そのものだ。
おや、どうやら、アメリカ人の高慢も私に適用されるらしい。
「君の荷物が妙に多いから、何を持ってきたんだろうと思ってたよ」
アンリが魔法のように作り上げた魚介のパスタをつつきながら私は言った。てっきり、私で遊ぶためのいかがわしい道具だと思っていたことは内緒だ。
アンリは、多種多様な食材はもとより、食器からナイフ、鍋、レードル、ピーラー、マッシャー、ターナー、泡だて器まで持ち込んでいた。
今まで食事はどうしてたのさ、とアンリはこれだけは充実しているワインセラーから取ってきた年代ものの逸品を、テーブルワインのようにぐびぐび飲んだ。
「そうだな。食事の度に空輸で運んで来させたこともあったし、たいがいシェフや給仕と一緒に来ていたから」
「金持ちめ」
アンリ・ジョゼフ・エマニュエル・パスカール・ロワン・ド・ロワーヌは、爵位こそ持っていなかったが、由緒ある貴族の血を引き、シャトーを先祖から受け継いでいた。けれども、裕福というわけではない。
パリでアンリは驚くほど質素な生活をしていた。当時のアンリはすでに両親を亡くし、音楽学校へは私の財団の出した奨学金で通っていたから当然だったが、それ以前から贅沢な暮らしはしていなかったようだ。
「貴族っていうのはね、君も知っているように、自分で働いて生計を立てちゃいけないんだ。領地を持って、そこから収入を得るか、貴族に許された職業、すなわち、高位の軍人か政治家の職を得るかしかない。そうではない貴族は全部没落貴族ってわけ。さしずめ僕なんか没落中の没落貴族だね!」
アンリは笑って言った。両親の遺産が思ったよりずっと少なかったことや、シャトーの維持が苦しいことを、当時のアンリは私に告げてはいなかった。
もしあの頃すでに、私がアンリの苦しい事情を知っていたら、何かが違っただろうか?
パトロンとしてではなく、友人として訪ねていった下町のアパルトマンは古く、階段やドアはぎしぎしと鳴った。それでも防音設備だけは整っていて、他にも多くの音楽家の卵たちが暮らしていた。
隣の部屋にいた女子学生とアンリは、どちらかの部屋でよく食事をしていたものだ。
食事と言っても、真ん中に切れ目を入れたバゲットにバターを塗り、安物のハムとチーズとちぎったレタスを挟んだだけの簡素なものだった。
小さなテーブルに、ワインが置かれていることは稀だった。ガス入りのミネラルウォーターを飲みながら、彼らは飽くことなく音楽の話をしていた。
彼女はいつもほとんど化粧をしていなかった。手入れが行き届いているとは言い難い、けれどもしなやかで美しい金髪を無造作にまとめ、黒い細身のパンツとシャツ、足元はいつもスニーカーだった。冬はその上にダウンジャケットを羽織っていた。パリの女学生たちはみな同じようにシンプルで、それでも充分に美しい。
アンリが彼女に、彼女がアンリに友人以上の好意を持っていたのは明らかだった。
けれども、彼女と恋人同士になることもなく、別れの言葉を言う間もなく、アンリは私の腕の中に堕ちて来た。
そう思うと私の心は痛んだが、当のアンリは、私がそんな感傷に浸っているとは思いもせず、おそらく彼の年収程度は軽くするだろうワインを次から次へと空にしていた。少々もったいない飲み方だったが、アンリにはよく似合う。
アンリは私が思っているよりずっと強く逞しい。当然だ、彼も私のご主人様なのだから。
「シェフや給仕もどうせ乱痴気騒ぎの仲間なんだろ」
ほんのり赤く染まった顔で私を睨み、アンリは言った。ご主人様の心は私の後悔とは別のところで引っかかりがあったようだった。
私は暫しの間考えた。
この島では奴隷や犬遊びはしたことがない。人里離れた場所で、友人知人、彼らの恋人やセックスフレンドたちとじゃれあうのは、私たちにとっては特別珍しいことではない。
金持ち相手のデリバリーが専門のシェフや給仕は、ほとんどが自分の仕事にのみ忠実だった。たまに遊びに加わる輩もいなくはなかったが。
「この島では僕は品行方正だったから」
アンリは疑わしそうに私を見た。
「プロの料理とは違うからね。口に合わない?」
アンリは、私が先ほどからほとんど料理を口にしていないことに気づいたらしかった。
そんなことはない、美味しいよ、と私は言った。
それは本当だった。プロの繊細な味ではないけれど、普通の生活の中で食べられていただろう料理は、どれも美味しかった。
問題は料理の味ではない。私の腹具合だ。
先週、私はヴィラのパトリキに与えられた。その男は初めて見る顔だったが、大人しそうな見かけを裏切って、浣腸好きだった。
私は繰り返し温水や牛乳や薄めた酢を入れられ、締めることも適わずただ垂れ流し、その刺激と苦痛に気が狂ったように泣き叫んだ。傷ついたアヌスに鋭い突起がいくつもついた男の腕ほどもある巨大なディルドを入れられ、私は失神した。
次に目覚めた時、私のアヌスはすでに感覚をなくしており、ディルドを引き抜かれてもただぽっかりと口を開けているだけだった。
男は、真っ赤に熟して大輪の花を咲かせた入り口を堪能した後、肛門鏡を入れ、爛れた中をうっとりと見ていた。
腹痛は私にとっては親しいものだ。
様々なものを押し込められる腸は常に傷つき、幾度にも渡る強制的な排泄により、身体が持つ抵抗力を奪われた内臓はよく悲鳴をあげたが、数日で私のまだ若く健康な身体は元に戻った。
しかし、今回の責めはいつもより私にひどい爪痕を残した。アヌスの傷は軽いものだったが、奥深いところは傷ついていたのだろう、酷使された腸内の細菌たちはうまく働いてくれなくなった。いつまでもじくじくと下腹が痛み、嘔気と胃痛が続いた。
お腹が痛いんだ、と私は俯いて小声で言った。ぽつりぽつりと先週のはしたない行為も説明した。
アンリは大きくため息をつくと、私を抱き寄せ、しばらく君では遊べないな、と呟いた。
「まったく君はどうしようもない淫乱だね。僕がどれだけ苦労して長いバカンスを取ったと思ってるのさ」
ドムス・ロサエの人気のマギステルであるアンリは、鼻を鳴らした。
美しく優雅で、残酷で優しい。その上、場合によってはピアノだって弾いてくれる。私が被虐の客なら、きっと何度でもアンリを指名しただろう。
「一週間は休憩だ。消化の良いものを僕が作ってあげるよ。そうだな、腸内細菌を整えるサプリを摂ろう」
「ごめん」
南の島で、一ヶ月のバカンスを過ごす若い恋人たちがーあるいは恋人に似たものたちが、一週間もセクシャルな接触をしないなんてあり得るだろうか?
アンリは優しい。傷ついた私を無理に責めることはない。たとえそれを私が望んでいたとしても。フェラチオくらいは許してくれるだろうか?
謝ることはない、と声がした。
「君が僕に入れればいい」
それくらいはできるだろ、僕のものを受け入れるより楽じゃないか。
アンリはなんでもないことのように続けた。
私が驚いて彼を見ると、スミレ色の瞳が私を捉えた。
「打ちたいなら打てばいい。主人になりたいならなればいい。なんでもしてやるよ」
私はアンリに飛びついた。
私たちは抱き合い、転げまわった。私の傷ついた内臓がちくちく痛んだが、構わなかった。私たちは初めて恋人を持ったティーンエイジャーのように力任せの愛撫を施しあった。
アンリの身体は私を柔らかく包み、高みへと追い上げ、私は幻想の翼をはためかせ太陽へと近づき、燃えあがる熱に溶けて落ちた。切ない声が私を昂ぶらせ、何度も精を注いだ。
月明かりの差し込むリビングで、太陽の下のプールサイドで、夕闇のせまるビーチで、私たちは昼も夜もなく愛し合った。アンリのしなやかな肢体を拘束し、ベルトで鞭打って私の足元に這わせた。
けれども、アンリは私が彼をどれほど責め、搾りつくした後でも先に起き、私をたたき起こして三度の食事とサプリと薬を与えた。私の身体は少しずつ癒された。
2週間後のある夜、さんざんアンリとじゃれあった後で私は惰眠をむさぼっていた。
ふと、目が覚めた。月明かりが室内を照らしていた。
ピアノの音がした。
私はこの別荘にもアンリのためにグランドピアノを置いた。
細心の注意を払って、ピアノのために一定の温度や湿度を保った部屋を作った。島の設備のメンテナンスと同時に調律を行った。今も完璧に整えられているはずだ。
けれども、この島へ来てアンリは一度もピアノに触ろうとはしなかった。私は少し失望し、それでも、はしたなくアンリにピアノをねだることはしなかった。
しかし、今、触れられることのなかった鍵盤は自分を打つ指に歓喜の声をあげ、喜びの歌を奏でている。
ベートーベン、ピアノソナタ第14番、作品27−2。月光の名で知られる曲だ。
第一楽章、幻想的なアダージョ。三連符の分散和音が淡々と続き、高音の主題旋律が静かに進む。ゆったりとした調べは私を幻想の世界に誘う。先人の作り上げた芸術に、アンリの色が重なる。
アンリの豊かな感情を私は感じ、私の中の淫蕩な血がざわめいた。ああ、と私は呻いた。不意に音が止んだ。
ぴたぴた、と大理石の床を叩く音がして、長身が青い光の中、姿を現した。
月の女神のように神々しく美しい青年の体が私の目の前にさらされた。
「フレッド」
バスローブを羽織っただけのアンリのスミレ色の目を私は見た。
冷たい支配者の目だった。
「腹痛は治ったか」
私は休憩時間が終わったのを知った。私はつかの間の立場から転落し、残酷な主人に仕えなくてはならなかった。
「青取之于藍。而青于藍」
なに、とアンリは言った。私は、中国の格言です、と丁寧に答えた。
「なんて意味だ」
「弟子が師匠を上回ることです」
アンリの責めを初めて受けた時、私は不思議な感覚に囚われた。アンリが主人の立場に立った時、誰を手本にしたのかを私はよく知っていた。
アンリは面白そうな表情になった。
「ご期待に沿えるようがんばるさ」
私は何度目かの失神から覚醒した。
奴隷の高い知能や豊かな教養は、主人の残酷さをよりいっそうに引き出すことに私は気づいていた。そして、予想通りにアンリは私をひどく責めた。
乳首のピアスを吊り上げ、引きちぎられる恐怖に慄く私に容赦なく鞭を見舞った。
しばらく使われていなかったアヌスを無理に押し開き、血が滴るさまを見て笑い、熱い蝋を傷口にたらして楽しんだ。
意識を失った私に、冷水を浴びせかけるか、電撃棒かタバコの火をペニスに押し付けて覚醒させた。
しかし、今回の覚醒は様子が違った。
私は痛みで目覚めたわけではなかった。目の前でにやにや笑う若い主人の姿もなかった。
身体を締め付ける苦痛と、身動きひとつできない恐怖が私を襲った。私は何かできつく縛り上げられているようだった。
不意に照明がつけられた。
眼前には大きな鏡があった。私は驚いて身をよじり、苦痛と思わぬ快感に呻いた。
私は赤い縄で縛られていた。
縄は私の身体の上で亀の甲羅のような模様を描いており、ペニスはきつく戒められ達することができないよう工夫されていた。亀頭はむき出しにされ、カリの部分はゆるく締め上げられており、先端は少しの刺激にも反応し、空気の流れにさえ感じた。
また、ごつごつとしたこぶが、ちょうどアヌスにあたるように配置されていた。不自由な体を動かす度にアヌスが刺激され、私は喘いだ。
「実に美しい」
後ろから豊かな声がした。胸が高鳴り、頬が紅潮する。
名前を呼ぼうとして、ひっきりなしに悲鳴を上げ続けた喉が、うまく働かないことに気づいた。私のようやくあげた掠れた哀願に、声の主は笑った。
その黒い瞳を見たくて身をよじったが、再びアヌスを刺激しただけだった。
「きれいだろ?今じゃ世界中に縄師はいるけど、やっぱり本場の縄師に限るよね」
アンリの浮き浮きした声が響く。
「アキラに教えてもらったんですか?」
「いや、アキラに頼んで日本から縄師に来てもらったのさ。その人に直々に教えてもらったの。他のマギステル達も教えてもらいたがって大変だったよ」
「この縄も日本製?」
「そうだよ。これも本場に限るね。肌は傷つけないし、丈夫だし。摩擦熱も発生しない。優れものだよ」
主人たちの楽しそうな会話は続いた。私はただ黙って会話が終わるのを待つしかなかった。
なんといってもモデルが良いからね、とアンリは乱暴に私の髪をつかむとぐい、と上に向かせた。首にまわされていた縄が圧迫し、私はかすれた声をあげた。
「弟子が師匠を上回っただろ?」
アンリは人の悪い笑みを浮かべて私を見下ろしていた。確かにそうだ。私には縄を扱うことなどできはしないから。
苦痛は延々と続いた。
ファビアンが手にした鞭は金属球をつないだものだ。それのもたらす苦痛を恐れて私は泣き、小便を漏らした。悪くすれば筋肉を傷つけ、二度と消えない傷と障害を残すそれは、時折プラエトルが私に使った。
奴隷を傷つけすぎず鞭打つには、それ相応の打ち手の技量が必要とされる。プラエトルはいつも完璧に鞭をふるった。そして、もちろん、ファビアンも。
粗相をしたことで私はよりいっそう責められることになった。漏らさないよう尿道には栓をされ、アンリは付け焼刃とは思えないほどの芸術的な手際の良さで、縛り方を微妙に修正した。そして、私はよりいっそう苦痛をもたらす格好で固定された。
ファビアンは小さな棘のついた鞭を手に取り、重点的にペニスを責めた。
ほんのわずかな動きにも縄は反応し、首を強く締め付け、私はガチョウのように醜く鳴いた。
いつのまにか打ち手はアンリになっていた。そしてまたファビアンに戻り、二人は交互に私を責め苛んだ。
助けて、助けて。お許しくださいませ、お許しを。
どんな哀願も主人には届くことはなかったが、私の言葉を彼らは楽しんでいたから、黙り込むことは許されなかった。
意識を失う寸前に乱暴に覚醒させられ、私は朦朧としながらも、うわごとのように哀願を続け、主人の言葉に従った。
ふわりと自分が宙に浮くような心地がした。そして、例えようのないほどの幸福感。
エンドモルフィンだ。脳内から供給される麻薬。苦痛の果てに訪れる陶酔。
ふと死を思う。けれども、理性が死を否定する。私の主人たちは私の生を愛しているのだから。
けれども苦痛の果てにある究極の快楽を、私は確かに知っていた。
快楽の果てを私は手に入れることはない。その代わり、主人たちは私をその間際まで連れて行き、そして連れ戻す。
日常の小さな死を私は甘受し、そして喜びの涙を流す。
柔らかいものが私を包んでいた。
目を開くと、月光の降り注ぐサンルームで、私は毛布に包まれて眠っていた。フロアには厚いラグーが置かれ、私の傷ついた背を優しく受け止めた。
「気がつかれましたか」
黒い目が私を見ていた。衣服は身につけていない。手にはコップが握られていた。
アンリは、とうまく動かない喉に閉口しながら、咳き込みながら尋ねると、ファビアンは微笑んだ。
「お城に帰りました。たまには訪ねてやらないと、臍を曲げるからと言っていましたよ」
アンリにとってお城はただの建造物ではないらしい。彼女は、と呼んでいるところからしても、女性として扱っているようだ。
アンリが執着し、私がその執着を利用した彼の城は、約束どおり私の財団が管理していたが、所有者はアンリの名前になっている。彼が犬であった時期もそうだった。私は、アンリが解放された時にそのことを告げた。
あの時のアンリの顔は見ものだった。
くすくすと思い出し笑いをする私に、ファビアンは困ったように微笑んだ。
「そんなあなたを見ていると、時々あのフランス小僧を殺してやりたくなりますよ」
私は慌てて笑いを引っ込めた。軽い口調とは裏腹にファビアンの目は笑っていなかった。
「遅くなってしまったお詫びをしないと、と思っていましたが、必要なかったようでしたね。あの坊やと随分楽しんだらしい。相変わらず、あなたのふるう鞭の跡は芸術品のようだ」
答えることはできなかった。私とアンリの時間は、他者に告げるようなものではない。その相手が例え私の唯一の神であっても。
ファビアンは神妙な顔をして黙った私を見て、目を細めた。
何か楽しい事を思いついたようだった。そして、ほとんどの場合、それは私にとって苦痛をもたらすものでしかない。私は主人に悟られぬよう小さくため息をついた。
「そういえば、遅参の理由を申し上げてはいませんでしたね。エーミールに呼ばれまして、寄り道をしていたのですよ」
ファビアンの背に残る一筋の跡に、私は気がついていた。しかし、私は見て見ぬふりをした。ファビアンの中にある昏い欲望もまた、表にさらけだすものではない。
ちくりと胸の奥が痛んだが、そのことにも気づかぬふりでやり過ごした。私の知らない恋人の姿を切なく思う。
エーミール・ダーヴィド・ヨーゼフ・クーニベルト・グスタフ・ディートリント・ドミニク・マルティン・アウグスブルク・シュナイザー・バートリ伯爵はいくつもの爵位と称号と領地を持つ、ヨーロッパ有数の貴族だった。
東洋の血を感じさせるエキゾチックな美貌、艶やかな黒髪と、黒と見紛う深い緑の目を持つ彼は、ヴィラの高位の主人であり、かつての友人であり、今では私の飼い主の一人だ。
プラエトルの犬だった間、私をもっとも惨く弄んだ人間の一人であった彼は、解放された私の元へ最初にファビアンが連れてきたヴィラの主人だった。
伯爵の仕掛ける遊戯は残酷で繊細な芸術だった。私は快楽と苦痛の果ての世界に幾度となく連れ去られ失神した。私の持つ主人の中でも最も私が恐れ、同時に待ち望む相手だった。
そして彼は、過去にファビアンとなんらかの関わりを持っていたらしい。
どのような関係だったかを私は知らない。もっとも、私はファビアンの事を驚くほど知らなかった。彼は過去を語りたがらず、私も追及はしない。
彼らの間にある特別な何かに気づいたのはいつのことだったろう。
美貌の伯爵とファビアンの見交わす目、ちょっとした仕草にそれは表れていた。愛情のようでもあったし、憎しみのようでもあった。
私が気づいたことに彼らもすぐに気づいたようだった。けれども二人は共に沈黙を護り、私も問いを封じられた。
随分と昔のことですよ、と一度だけファビアンは漏らしたことがある。それ以上決して語ろうとはしなかった。
私にわかることは、彼らの深い絆と、ファビアンの身に、エーミールとの逢瀬の後に増える傷だけだった。
私は恋人であり奴隷だった。私の問いはどの身分であっても封じられた。そして、今でもそのことは私の中に小さな棘として残っている。
私の葛藤に何も気づかぬ振りで、ファビアンは笑いながら側にあったケースを引き寄せた。
「伯爵から面白いものをもらってきました。アンリが戻るまで、遊びましょう」
ケースは、フィッシングの時に使うクーラーボックスのように見えた。ぽちゃん、と水音がして、私は嫌な予感に胃がきりりと痛むのを感じた。
蓋が開けられ、私は中のものを見て絶叫した。
ぬめった黒く長細い身体をくねらせて水の中で蠢くその生き物は、ケースを埋めつくすほど詰め込まれていた。
バスタブの中で私は半分失神していた。
身体の奥でびくびくと異物がくねり、私のペニスはびくりと震えて精をもらしたが、私はすでに快楽を感じることはなかった。
おぞましさに吐き気がこみ上げたが、もう吐くものは残っていなかったから、小さくえずいただけだった。
冷たい手が私の額に当てられた。
「熱がありますね」
私は答えることもできず、ただ涙を流していた。
「私が恐ろしいですか?アンリは恐ろしいですか?伯爵は?そうそう、先日の肛門好きのパトリキは?」
主人の満面の笑みが私を追い詰め、恐怖にかられて身をよじると、再び身体の中で生きた異物が暴れ、私は叫んでいた。まだ声が出るとは驚きだ。
ファビアンは私の叫びを無視して話し続けていた。意味は半分もわからない。
「あなたは私たちがあなたの主人で、ご自分が私たちに仕えていると思っているのでしょう。それは違いますよ。私たちがみなあなたに仕えているのです。あなたの快楽に奉仕し、あなたの被虐を満足させるためにね」
閉じようとした口を無理やりこじ開けられ、ぬるぬるとしたものが押し込まれた。
噛みなさい、と命じられ、私は従った。
生臭い味が口いっぱいに広がり、私はとうとう失神した。意識が薄れ、闇に飲み込まれる寸前に見たファビアンの顔は慈愛に満ち、美しかった。
おやすみなさいませ、ご主人様。
ファビアンの言葉はすでに私には届かなかった。
目覚めた時には、アンリも帰ってきているだろう。お城の拷問部屋から発掘した新しい道具を持ってきているかもしれないし、ファビアンの遊び道具をアンリも使いたがるだろう。
私たちのバカンスは、まだ始まったばかりだ。
fin
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