─DIRAC(Deep sea of Dirac)─
俺はこのヴィラではちょっとは名の知れた犬だ。 剣闘士犬として今でも根強いファンがいて、主人は人に羨まれ、俺もまた誇りに思う。 俺は強い、俺は最強だ────無論度の過ぎた自惚れにならぬよう、今でも研鑽は積んでいるしトレーニングは怠らない。 だけどある日、主人が連れてきた新しい犬を見て、俺は少なからず動揺した。
その犬は、ミハイルといった。
でかい。
第一印象はそれだった。 決して小さくはない俺よりも更に一回り大きく、大型犬の名にまさに相応しい。 そしてその身体も────俺と同じ、戦うための筋肉。仰々しいだけの飾りではない。 行儀もよくて、どこか威厳も品もある。 あまり血統のよろしくない、俺の劣等感を刺激するのは十分だった。 俺より大きい、俺より綺麗な、俺より──── ────比べたって仕方がない、それは分かっているのに止められない。 しかも、そんな態度を隠せるほどに俺は器用でもないのでだだ漏れだ。 奴はそんな俺からの殺気をまるで気にも留めていない。 益々憎らしい、惨めだ。
そんな、意識しすぎてミハイルの奴から目が離せなくなって数日──── 俺はふと、奴の脇腹に消えかけてはいるが傷跡があるのに気が付いた。 「どうしたんだ、これ」 奴の完璧な肉体には勿体無い────そんな風に思ったから、つい言葉に出して尋ねてしまった。 奴は俺を見て、それから傷を見て、ああ、と言った。
「大したことはない、じきに消える」 必要なこと以外話さない奴だ、それだけで済まされてしまった。心配してくれたならありがとう、とも言ったが。 刃物の傷だったし、場所的にも結構ヤバい所だった。 今平然としているのだから大丈夫だったのだろうが、…俺がロビンから、あの傷は主人を暴漢から守ってついたのだと聞いたのはそれからしばらく後だった。
あいつは自分の手柄も自慢しないのか。いささか俺は呆れた。 名誉の負傷以外の何者でもないのに、大したことないの一言で終わらせてしまった。 俺だったらきっと、鼻高々なのに。 本当に、あいつは忠犬なのだ。主人さえいれば、主人のためなら、自分のことなどどうでもいいと。 「でも、ああいうところ危ないよね」 ロビンが言った。 何が、と俺が目で問うと、 「ミハイルってさ。自分てものがないんだよ。誰かが傍にいて、その人に触れられてやっと、自分の存在が認識できるんじゃないかな。鏡に映っていないと駄目って言うか…」 一人きりだと、自分が生きていることすら曖昧になっちゃいそうだよね、と。ロビンは言った。 食事は愚か息をすることすら忘れて、死んでしまいそうだ、と。
ミハイルは主人以外に見向きもしない。ただひたすら主人を見ている。 あれは主人の目に映る自分を見て────いるのだろうか…?
俺は前とは違った意味で、奴から目が離せなくなってしまった。 奴は気付いているだろうに、何も言わず─────
…絶対こっち向かせてやる、覚悟しとけよミハイル。 お前のそのピンクの瞳(えらく珍しいピンク色だってのに今気付いたよ)に俺のことを映させてやるからな!
────一方、少し離れた芝生では、のんびり日光浴中の犬二匹。 「…エリックってば最初と目的変わってるよね、ね、フィル」 「脳みそが筋肉で出来ているから仕方ない。ところで、無理矢理出番作ってくれなくていいから」
〔 了 〕
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