─DIRAC(Deep sea of Dirac)─ act2.phil
私はヴィラでは少々トウの立った犬と言われている。
大きなお世話だ、人間、動物、誰でも何でも歳はとるのだ、…とあるクラゲの仲間は若返るそうだが(羨ましい)
ある日主人が連れてきた大きな犬は、私より一つ歳が下だった。
一つしか違わないなら彼とて十分トウが立っていると言えるだろうに、何故か彼の場合は神々しいだの威厳があるだの…いや別に羨んでなどいない、実際その通りだから文句もない。 ないぞ?ないと言うに。
主人は彼を番犬にすると言った。確かに彼はヴィラの外では要人警護の職にあったそうで、番をするには適切だろう。しかし。
「…なんだよ番犬なら俺がいるじゃないか、ご主人様は俺じゃ不満か」 エリックは機嫌を損ねている。
剣闘士犬として10戦を勝ち抜いた、勇者たる彼は私やロビンを歯牙にもかけず、アルフォンソやキースのことも「あいつらのはチャンバラごっこだ」と放っていたが、こと自分と同じ実戦派となると気になるようだ。
しかしミハイルの方はこれがまた、エリックが私達に取る態度のごとく彼のことをまるで視界に入れないので、彼の歯軋りは激しくなるばかり。…奥歯が傷むぞ。
愛想がいいとはいえないが極端に悪いわけでもなく、単に必要なこと以外を話そうとしない物静かなタイプのようだ。その点は私と趣味が合う。 喧しいのは嫌いだ、とくにあのプラチナ犬──────
「ミっハイっルちゃーーーーーーー、ふんぎゃあーーーーーーーーー!!」
ジャンピングハグと言わんばかりにミハイルに飛び掛ったと思ったアルフォンソが、倍以上の勢いで投げ返されてきた。どんがら。ホコリが立つ… 私はつい苦情を言った。
「ミハイル。こんな大きなものを投げないでくれ、君ならサブミッションもいけるだろう」 「密着したくない」 …なるほど、納得。
酷い言われようをしながらもへらへらと笑っているアルフォンソは、誰がこようと「私が一番」の態度を崩さない。ミハイルを前にしてもいささかも動じないのがさすがプラチナ犬と言うべきか?
実に幸せなやつだ、まあ、むっつり押し黙って殺気を撒き散らす奴よりマシかもしれないが。
そんなむっつりとミハイルを、主人が庭で戦わせたいと言い出した。
攻めのエリック、守りのミハイル、確かに面白いカードであるが。
ここは闘技場ではないので双方素手、裸のでかい男がくんずほぐれつ…暑苦しそうだな。
当然皆が見物に出てくるが、何故かここに限ってミハイルとエリックが息のあったところを見せた。
─────アルフォンソを簀巻きにし、観客席から「お帰りはあちら」とばかりにポイ捨て。
揃って「彼がいると落ち着かない」、と言う。確かに彼の、犯されそうな舐めんばかりの視線が間近にあるといかにこの二人でも戦いにくいのだろう。
差別だ、虐待だ、ずるい、見せろ、とわめくアルフォンソをミハイルがぐるぐる巻きにして────…ぐるぐる?
「ちょっとミハイルーっ、何亀甲縛りにしてるんだよ、いつ覚えたのそれっっ」 「物は試しに見よう見真似で」
ロビンの悲鳴が響く中、アルフォンソに見事な甲羅模様を描いた彼。見よう見真似と言いながら、その出来栄えは立派な縄氏だ。その才能をもっと他のところに────
いや回しているのだったな、彼の能力はあらゆる面で完璧で、余りをこちらに持ってきただけだ。なんとまあ。
結局キースがわめく奴の面倒を見ている、何かにつけて気の毒な犬だ。 「いいんだよ、私はアルフォンソのオマケなんだから」 …よくないと思うのだが。
庭での闘犬試合はなかなか伯仲した。
武器もなし、裸なので衣服など掴むところもなし、脚のさばきや腕の振り上げ、一分の隙も見逃すまいと二人ともが全神経を集中している。 最初は歓声を上げていたロビンも、今は手に汗握って真剣だ。
意外にも先に動くのはミハイルだった、彼は守勢と反撃が主な戦いかと思っていたが、10戦を戦い抜いた剣闘士を相手に一歩も引かない。
…後でエリックが、あれは主人を楽しませるためだから、と言っていた。
成程映画のように達人同士がにらみ合ったまま膠着状態、では見ている方がつまらないから、彼は少しの間も止まることをしなかったのか。つくづく主人思いの優秀な犬だ。
大きな男同士が真剣に、激しく動き回ってぶつかり、離れ、おかげで脚の間がどうにもぶらぶら────いかん、見ているところが違うか?アルフォンソのことを言えなくなってしまう。
結局勝負はつかず主人が分けた。 戦いに高揚したのか二人の股間は半ば硬くなっていて。
主人は褒美か労いか、二人を寝室に伴っていった。…まだ日は高いのだが。まあそんなことはこのヴィラでは関係ないか。
拳で語り合った故か、はたまた他の原因か、ミハイルはいつもと変わらないがエリックは少し変わった。
ぎらぎらした殺気は徐々に引っ込んで、代わりに今度はミハイルをじーっと、じーっと、じーっと見ている。…それはストーカーだぞ?
時々はミハイルに近寄って、ぼそぼそと何か話をしているようだ。
それがまた片思いの男の子に勇気を振り絞って「おはよう」と挨拶する少女、などという黄金パターンを思い起こさせ、やれやれ、と私は溜息を付く。何故こうも極端なのだ。脳味噌筋肉はこれだから。
「あいつ可愛くねー」
例によってミハイルに話しかけ、玉砕してすごすご戻ってきたエリック。 ぶつくさ文句を言っているが、貴様の目は節穴か。
ミハイルは必要なこと以外を話さない。…話さないが、その僅かな言葉を発する間、お前の方を見るようになったのに気付かないのか。
貴様がミハイルの瞳が珍しいピンク色だと、今頃になって気付いたのはどうしてだ?
あのミハイルが、主人以外の者を見て話すようになっただけでも喜べ馬鹿者。
畜生だのあの野郎だの雑言ばかりをずらずら並べ、聞かされるロビンもはいはいと軽くあしらっている。まったくこの脳筋犬は。 しかも自分の気持ちに気付いていない。
周りが皆、ミハイル本人ですら気付いているだろうことを気付いてないとは、なんという鈍感。 「あーっ、面白くねーっっ」
庭に向かって吼える彼が煩いことこの上ない。私達は面白いがな、お前のその鈍感ぶりが。一体いつ気付くことやら。
私はまた嘆息し、さりげなくエリックを庭へと閉め出し読みかけの本を開く。
エリックよ、恋煩いは勝手だが、私の静かな時間の邪魔はするなよ?
END
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