「菩提樹の傍らで」
小さな村には小川があって、ほとりに自然の散歩道ができていた。 「その歌はなに?お父さん」
晴れの日と曇りの日は夕刻に、その道を通って隣家の子犬を散歩させるのが、少年と父の日課だった。 「おっ。お前もこの歌が好きなのか、F?」
父はよく少年をFと呼んだ。歌うように、ファの音で。「これはシューベルトの『冬の旅』という歌曲集の一曲だよ。『菩提樹』の歌だ」 「リンデンバウム?」 小路の傍らを飾る木々を、少年は指さした。 「そうだ。この曲はね、F、人はいつまでも故郷を忘れない、という歌だよ」
少年には父の言うことがよくわからなかった。けれども大好きな父の言葉だったので、神妙な顔で頷いた。 「よしよし。家に帰ったら『冬の旅』のレコードをかけような」 少年の頭に軽く手を置いて、父はまた最初から歌い始めた。 「<門の傍ら、泉のほとりの菩提樹の陰で…>」
『冬の旅』は陰気な曲ばかりだった。
少年はあまり楽しいと思わなかったが、『お父さんのお父さんも好きだったんだよ』と言った父の嬉しそうな顔が忘れられなくて、レコードを何度も聴いていた。
電話が鳴った。母がエプロン姿で台所から出てきた。少年は曲を止めて電話が終わるのを待った。聞くともなく母の声が耳に入った。
「え…?いえ、私は。…そうですか。…えぇ、でもどうぞ、あの人の言うとおりにして下さい」 いつもより少し乱暴に受話器を置いて、母は固い息を吐いていた。 重苦しい空気の中で、少年は息をこらして待っていた。父が帰ってくる時を。
「…行った方がいいと思うよ、僕は」 「いやよ」 その日、少年は珍しく深夜に目を覚ました。父と母が居間で話をしていた。 「行くべきだと思うけどな」 「だめよ」 昼間と同じ頑なな母の語調に、父が苦笑した。 「どうして?ハニー。僕はもう気にしてないのに」 母の声に涙が混じった。
「だって、許せないもの。許しちゃいけないと思うんだもの。私のためじゃない。あなたのためだけでもない。あの子のためよ、ファビアンのために!」 母の嗚咽。少年は突然聞こえた自分の名前に驚いて、息を詰めた。 「傷ついて欲しくないのよ、あんな人のために!」 それ以上、父は何も言わず、ただ母の肩を抱いていた。
翌日の夕刻、散歩の半ばで立ち止まり、父は少年を菩提樹の木陰に誘った。 「ちょっと話をしよう、F」 少年は昨日の盗み聞きを咎められると思って、頭を垂れた。 「アルジェリアって知ってるか」 唐突に問われ、少年は大急ぎで首を振った。 父は「そうか…」と吐息をついた。
「聞きなさい、ファビアン、いつかお前も大人になって、この壁に向き合うだろう。お父さんのお父さんはアルジェリア移民だった。お父さんにも、お前にも、ドイツ人以外の血が流れている。お父さんは、そしてお母さんも、そのことを少しも恥じてはいないけれど、そんなお父さんたちを間違っていると考える人もいるんだよ」
父の話は少年にとってわからないことばかりだった。だがそれが昨日の母と関係があるということだけは、うっすらと理解できた。
数週間後の日曜日はとても寒くて、ストーブにはその季節初めて火が入った。 母はあの日から始終ぼんやりしていて、いつも少年を不安にさせた。
菩提樹の木陰で父の話を聞いた翌日、少年は学校の図書室でアルジェリアの本を探した。 あふれる太陽と、繰り返される紛争の国。 父や、自分とは、なんの関係もないように思える話がそこにあった。
台所でグラスの割れる音がした。同時に電話が鳴り出して、母があたふたと受話器を取った。奥の部屋から父も出てきた。少年もまた、何か唯ならぬ雰囲気を感じていた。 「――」 短い電話だった。
母は「どうも」とだけ言って、静かに受話器を置いた。父が駆け寄って母を抱きしめ、その腕の中に母はくずおれた。 深い、ふかい嗚咽の声。気が強い母の涙を、少年は初めて目にした。 「わかっているよ、ハニー、わかっている。辛かったね…」 母が乳児のような声をあげながら、父のシャツを掴んだ。
「…泣く必要なんてないのよ、ないのよ!だって誰に強要されたわけでもない、私が!私が決めたんだもの!」 父は母の栗色の髪を優しく撫でて囁いた。
「ちがうよ、ハニー、泣いていいんだ。だって、彼女は、僕とFに君を与えてくれた人だから」
ますます激しくなる母の慟哭を父に任せて、少年は菩提樹に会うため家を出た。
門の傍ら、泉のほとりの菩提樹の陰で、
むかしよく夢を見た。
樹幹に愛の言葉を刻み、
いかなるときも樹とわたしは共にいた。
(リンデンバウム、僕にはまだわからないよ) ――父の言葉、母の涙、この歌の意味。 少年は木陰に座り、父と祖父の愛した曲を口ずさんだ。
今日も漆黒の闇を通って続く、わたしの旅。 闇の中で目を閉じれば、聞こえる菩提樹の唄、 “おいで友よ、おまえの安らぎはここにある”と。
寒風が帽子を奪い、顔をなぶって過ぎていっても、 うしろを振り返ることはしない。 ただ、今なお響く、遠い彼の地の菩提樹の声、 “おまえの安らぎはここにあったのに…”と。
少年は菩提樹の枝陰から灰色の空を見上げた。ハート形の葉が一枚、風に乗って名残惜しげに去っていった。 冬はもうそこに来ていた。 (了)
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