失墜の予兆
仔犬のリストに目を通していたナディール・ウェインは、名簿の一番最後に記された見慣れない項目にふと興味を引かれた。 「……C-00001860?」 以前来た時には無かったものである。 人間の名前が連なる名簿の中で、それは明らかに浮いていた。 「これは、犬の名前なのか?」 ナディールがたずねると、家令はなんとも微妙な笑みを浮かべ た。 「入荷したばかりの仔犬でございます」
新しく入荷した仔犬ならば、名簿の新着欄に載っているはずだ。
だがその仔犬は、まるで指名されることを恐れているかのように、名簿の一番下にひっそりと記載されていた。 「名前は?」
「まだございません。ご主人様のご指名があれば、名前が付きます」 「ふうん」
指名した者が自由に付けて良いという事だろう。ナディールはそう解釈した。 「データが無いけど?」 その言葉に、家令はまたしても曖昧な笑みを見せた。
「この仔犬については、あまり詳しくはお話できないことになっているのです。遊んでいただいてからのお楽しみということで……」
何かサプライズがあるのだろうか。ヴィラの企画は、どれも趣向を凝らしていて面白い。 ナディールは乗ることにした。
「この仔犬は、遊ぶのに危険が伴います。また、遊ばれた後にお怒りになる方もいらっしゃいます。また、一度遊んでしまえば後戻りできなくなるほど魅力をそなえた犬でもあります。ほかの犬で十分遊ばれた後、なお退屈であればお試しください。よろしいですか?」
マニュアルなのだろう。家令はそう告げると、ナディールに承諾を求めた。
ナディールは既に、二匹の成犬と一匹の仔犬の調教権を持っている。
人の形をした犬が見せる隷従は、ナディールの心をいくらか和らげてくれた。 だが、いつも完全に満たされることはないのだ。
常に心に空虚な穴を抱えるナディールにとっては、ヴィラの施す新しい趣向ならば何でも試してみる価値はあった。 「僕は、いつでも退屈だよ」 家令を見つめたナディールは、ゆがんだ微笑を浮かべた。
孤児院時代に覚えた売春は、十五歳で施設を出たナディールを大いに助けてくれた。
最初は孤児院で貯めたわずかばかりの金で、安アパートに住んでいた。
男から男へ渡り歩くうちに金が貯まり、いつしか人並みの暮らしを手に入れた。
商売をしていく中で有力なパトロンに出会えたのは、奇跡とも言える幸運だろう。
自らの出自さえわからぬ孤児院上がりの青年にとっては、普通に暮らしていれば恐らく一生会えないほどの財界の大物。
孤児院育ちで紳士のパトロンを見つけ、カレッジにまで行かせてもらった自分は、まるで「あしながおじさん」の主人公のようだと思った。
実際ナディールと彼の関係は、あしながおじさんと少女ジルーシャそのものだった。
ただ、ナディールが本物のジルーシャのように、文才で紳士の心を射止めた清廉潔白の乙女でなかっただけで。
あしながおじさんを射止めてからの人生は、時間が倍の速度で流れた気がする。
様々ないきさつを経て起業したナディールは、やがて巨額の富を築いた。
ナディールは事業で得た利益の一部を彼に還元し、対等な関係となることで、彼との性的関係に終止符を打った。
そして、パトロンの病死。病死といっても、天寿を全うしたと言える年齢だった。
病室とは思えないほど豪華な個室に収まった彼を見舞いに行ったとき、ナディールは彼からヴィラ・カプリの存在を教えられたのだ。
「可愛いナディール、お前にぴったりの遊び場がある。紹介するから、行っておいで」
労りをこめて痩せた手を握るナディールに、彼は飄々と微笑んだ。
「実は、お前をあそこに売ろうと思ったこともあったんだがのぅ」 「……はい?」
「こっちの話じゃよ。ワシの予想をとことん裏切るいい男に成長しおって……いい買い物をした」 ああ、売らんでよかった。 しみじみとした呟きを、ナディールは静かに聞いていた。
この呟きのとんでもない意味をナディールが知るのは、老人が亡くなった二ヵ月後のこととなる。
屈辱と混乱に震えながら、ナディールは老人の言葉を思い出していた。 売られはしなかった。 しかし、ナディールは自分からヴィラの罠に嵌ってしまった。
なるほど、ヴィラの犬はこうして作られるのか、と後悔と共に納得する。
失禁だけはするまいと力を入れているが、それもやがて無駄になるだろう。
主人としてたくさんの犬を調教してきたナディールには、分かっていた。 犬の抵抗が、いかに無駄なものかということを。
股間を打ちつけた鞭に耐え切れず絶叫すると、ファミリアーレスの主人達は野卑な笑いを浮かべた。 「あーあー、お漏らしだ」
プライドに支えられていた我慢の堰が切れ、ナディールは失禁していた。 声を殺して泣いていると、不意に調教が途切れた。 アクトーレスが、ナディールをつないでいた鎖を外していく。 地に足が着くと、全身の関節が鈍く傷んだ。
床に倒れ付しそうになるナディールを、浅黒くたくましい腕が抱き上げる。 主人達がナディールを洗うように指示したのだろう。
自分もそうだった。目配せや手の動きだけで、アクトーレスを手足のように使っていた。
その自分が、今やアクトーレスに抱きかかえられ、赤ん坊のように失禁に汚れた体を洗われている。 泣き叫んで狂ってしまいたかった。
このままヴィラの犬になるくらいなら、狂ってしまったほうが幸せだ。 ナディールは、思考を放棄しようとした。
だがアクトーレスは、そんなナディールを精神の限界から無理やり引きずり戻した。
「しっかりしてください。なかなか従わない貴方に、彼らは焦っています。犬の不服従がどんな事態を招くか……貴方ならご存知のはずです」
シャワーの水温に紛れて、耳元でささやかれる声は、低くナディールの脳に響いた。
アクトーレスの大きな手は、吊られたために痛む肩の関節に伸びていた。 熱めの湯がかかり、やさしく揉み解される。 普通の犬にここまでするだろうか。
ちらりと疑問に思ったが、このアクトーレスは丁寧な飼育をするのだろうと考えた。
アクトーレスにも色々いる。五年も通っていれば、質の悪いアクトーレスに当たることもあった。
この男は落ち着いていて、調教のサポート役としてとても頼りになるだろう。 自分が、主人であったならばの話だが。 そこまで考えて、ナディールははっと思い出した。
ナディールは今日の五時に、ある男とアクイラでの約束があった。 その男はナディールと同じ、ヴィラで遊ぶパトリキだ。
彼はよくナディールの体を求めてきたが、ナディールは一度も許したことはなかった。
というのは、彼がナディールを「抱きたい」と言ったからである。
ナディールは誰かに抱かれたり、調教されたりするつもりは毛頭無かった。
だが、彼は楽しい気分にさせてくれるので、時々ヴィラで会っている。
彼とはそれだけの関係だったが、ナディールが来ないことを不審に思って、探したりしないだろうか。 (ダメか……僕はよく約束を破るし) 今日は行くつもりだった。 だが、ナディールはよく彼との待ち合わせの約束を破った。 そうすることで彼が待ちぼうけしていると思うと、なぜか気分 がよかったのだ。
「休憩はおしまいです。服従のチャンスはあと僅かですよ。気をつけてください」
アクトーレスの使う慇懃な敬語が、かえってナディールの屈辱を誘った。
数時間前までの自分がパトリキであったことを、まざまざと思い出させるのだ。
再びナディールを吊そうとしている鋼のような腕は、ナディールを決して傷つけることはなかったが、抵抗を許すこともなかった。 「それから……リカルド・アーバン様のことですが」 その名前にハッとする。待ち合わせしていた男の名前だ。
「貴方はヴィラの者に、“急な仕事で帰ることになったので、行けなくなった”と、きちんと言伝をしたのです。ご心配なく」 アクトーレスが、慈悲さえ感じさせるやさしい声でささやいた 。 鎖の連結される音が、やけに大きく響く。 ナディールは、表情を変えずにいるのが精一杯だった。
たしかリカルドがドアに挟んでいったメモは、読んだ後チェストの上に放っておいたのだ。 (ルームメイドが拾ったんだ……) 捨てておけばよかった。 いや、捨てたとしても、結局無意味だっただろう。 ヴィラ・カプリとは、そういう場所なのだ。
“アクイラで五時に”
そう部屋のドアにメモを滑らせておいたが、やはりナディールは来なかった。 ヴィラのスタッフが、わざわざ直接言伝を持ってきた。
誠意ある対応は、いつも痺れるほど冷たい態度に徹するナディールにしては、とても珍しいものだった。
少しは、自分に好意を持ってくれたと期待してもいいのだろうか。 「難しい男に惚れたもんだ」 やれやれとため息をつき、リカルドは苦笑した。 それは、どこか嬉しそうな笑みだった。 とにかく、ナディールとのディナーは中止だ。
今日はリカルド好みの仔犬が入ったと、家令がしきりにオークションを勧めていたのを思い出し、そちらに向かうことにした。
バシリカの地下で行われるオークションは、フォルムや円形劇場で行われるものとは雰囲気が異なる。
地下という閉鎖空間は、どろりとした退廃的な空気を決して外へ逃がさない。窓の無いその空間には、淫靡で暗い喜びが充満していた。
リカルドは次々と競り落とされていく仔犬たちを、やや退屈しながら眺めていた。
ステージに目をぎらつかせる男たちとは違い、彼は特に新しい犬を見つけたいという欲望を持ってはいなかった。 彼の目的は、他の多くの客達とは少々違っていた。
はっきり言ってしまえば彼は、ナディールに似た犬がいればと思って参加していたのだった。
家令は、というよりもヴィラの者達は、リカルドがナディールに執心していることを知っている。リカルドがまったく隠そうとしないからだ。
リカルド好みの犬が出るというのならば、ナディールを思わせる犬が出るのだろう。 リカルドは、鋭い美貌を持つ年上の想い人を頭に浮かべた。 『さて、次に参りましょう』
澱のような欲望渦巻く空気に、不釣合いなほど明朗なアナウンスが響く。
裸に剥かれた哀れな仔犬が、また一匹ワゴンに乗せられるべく引かれて来た。
両切りの煙草を深く吸い込んだリカルドは、ステージを見た瞬間息を止めた。 吐き出すことを忘れた煙が、肺にゆっくりと行き渡る。
仔犬の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたが、見間違えるはずも無い。
『イギリス産の28歳です。少々年齢は高めですが、この肌の美しさをご覧ください。少年に勝るとも劣らぬほどの……』 アナウンスはすでに聞こえていなかった。
ナディールにいくばくか似ている犬がいれば上出来だと思ってステージを見ていた。
しかし、ワゴンに乗せられて、衆人環視の中ペニスを嬲られて震えているあれは…………。 「ナディール……!?」 呆然と呟いた声は、客達のざわめきにかき消された。
ナディール以外の何者でもないその仔犬は、まるでリカルドの知っている人物とは別人のように淫らに腰をくねらせ、先走りを滴らせながら甘い泣き声を上げている。 思わず、見とれていた。
仔犬にしては驚くべき素質を見せた彼に対し、男たちが次々と高値をつける。
『九億二千、九億二千万が出ました……!後はございませんか?』 その声に、リカルドははっと我に返った。 (誰も気づいていないのか……!?) 冷静さを取り戻したリカルドは、ちらりと会場を観察した。
中には、リカルドと同じ戸惑いを感じている冷静な客が数人いるようだった。
ぼんやりしている間に、ナディールの値段はどんどんつり上がっていく。
『十億が出ました!他にございませんか?』 (まずい……) このままではどこか知らない男の所に競り落とされてしまう。
ステージに上がっているのがナディール本人なら、なんとしても競り落とす必要がある。 事情は後から聞けば良い。 リカルドは声を張り上げた。
「十億一千!!」
たとえ他人の空似だったとしても、十億以上出して落とす価値はある。
どこからか十億二千の声があがった。
「十億三千!」
もうこれで決まりだろうと思ったところに、十億五千の声が上がった。 スタッフが、絶妙のタイミングでナディールの乳首を弾いた。
ワゴンの上で上がった甘い声に、会場は一種異様な興奮状態に陥った。
その時、ワゴンの上で喘ぐ濡れた瞳が、はっきりとリカルドを捕らえた。
その目が悲痛に見開かれるのを見て、リカルドは今度こそ彼がナディール本人であることを確信した。 (くそ……!)
「十億六千!」
叫ぶと同時に、十億五千の声をかけた客を見遣ると、まだ仕掛けてきそうな雰囲気である。 ナディールのためなら、どれだけかけても惜しくなかった。
そう思ったとき、ナディールを競り落とそうとしていた客に、そっと男が忍び寄った。 制服から見て、アクトーレスだろう。
ダークスーツを纏う浅黒い肌が、バシリカの地下と相俟って陰を思わせる。 彼は何事かを客に耳打ちすると、すべるように去って行った。
『十億六千、他にございませんか?』 アクトーレスが去った後、その男はふとリカルドを見た。
彼は持っていたウィスキーグラスを、僅かにリカルドの方に傾けるしぐさをして微笑んだ。 “譲る”という合図である。
リカルドはあっけにとられながらも、既に空になっていた自分のグラスを持ち、飲む真似をした。 そのグラスを、先程と同じように傾ける。 (どうもありがとう) あのアクトーレスは、一体何を言ったのだろうか。 何はともあれ、ナディールを落札することができたのだ。
リカルドは、一晩たっぷり事情を聞かせてもらうことを心に決めた。
「ヴィラの者に落札させないなんて」
「ミスター・ウェインも、実はミスター・アーバンを好いていらっしゃる」 「それは皆そう思ってるが……」
「いいじゃないか、あれであのお二人はうまくいったんだから」 しれっとした同僚に、イアンは心労性のため息をついた。
「まあ、百歩譲ってそれは良しとしよう。だがな、ファビアン」 「うん?」 忠告してやるのが親切だろう。
「ミスター・ウェインが、アクイラでこう漏らしていたそうだ。“犬にしてみたい男を見つけた。褐色の肌もいいものだな”」 「…………」 「気をつけろよ」 ファビアンは、整った顔に引きつった笑みを浮かべた。
付き合いの長いイアンでなければ、それはいつも通りの笑みに見えただろう。 だが、彼は明らかに動揺していた。
どうやら今回彼の調教したCナンバーは、とんでもない猛犬だったのかもしれない。
イアンは彼の未来のたくさんの可能性のうち、最悪のパターンを想像して哀れんだ。 もう痛まないはずの足の甲が、ちりりと痛んだ気がした。
―― 了 ――
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