なぜ、こんな醜い男がヴィラにとらわれてきたのかわからない。
岩のようにゴツゴツした顔。うす青い眼はやややぶにらみで、鼻は曲がっている。黙っていると花崗岩とさしてかわりない。
ボクサーによくある顔だが、喧嘩は弱い。中庭で剣闘士犬にからまれてもすごすごと逃げてばかりいる。
性技が達者なのだろうか?
そう思った主人が何度かついたが、すぐ飽きて手放した。悪くもないが醜さを補うほどのものでもないらしい。
最後に主人がついたのが5年前になる。
(そろそろ新しい主人がつかなければ、彼は薬殺される)
彼の担当アクトーレスは、なるべくそのみじめな犬のことを考えまいとした。
ヴィラでは主人に飼われたから幸せというものでもないが、薬殺はさすがに寝覚めがよくない。鉄の冷酷さをもつアクトーレスたちも担当の犬の死には無形の傷を受ける。
ヴィラにひとりの男が入ってきた。せいぜい五十すぎに見えるが七十近い。
小金を持っていた。彼はヴィラのひなびた地区にドムスを買い、そこに住んだ。
時々町に出て食事をするほか、誰とつきあうでもない。犬も飼っていなかった。
アクトーレスは偶然その男と中庭で会った。
「なぜ、犬をお飼いにならないんです?」
「べつに必要ない」
男は中庭の犬の尻に眼を細め、
「おれは年寄りだからね。料理を作ってくれる召使なら欲しいが」
アクトーレスは、それなら護民官オフィスで――と言いかけて、例の犬のことを思い出した。
「格安の犬奴隷がいるのですが、お飼いになりませんか」
老人は首を振った。
「おれはご主人様なんてタマじゃない。男の尻は好きだが、SMは苦手なんだ」
「料理が上手なんですよ、そいつは。コックとしておいていただければ」
「無駄使いだな」
コックを雇うのと犬一匹を買い取るのでは費用がケタ違いに違う。
アクトーレスはため息をついた。
「名前はなんて言うんだ?」
男は醜い犬にたずねた。
「ジョンです。ジョン・ウルフ」
醜い犬は小さい眼をまたたいた。犬は不安だった。
アクトーレスからさんざん脅されている。この主人をしくじったら薬殺だ。なにがなんでも料理の名手のふりをしなければならない。
ところが、彼はヴィラに来る前も来た後もフライパンなど握ったことがなかった。
「ジョン」
男は言った。「おれは老人で、しょっちゅうおまえを楽しませてやるわけにはいかん。欲しいのは料理人だ。それでも来るか」
「ぜひ」
せいいっぱいの愛想をふりしぼって、彼が発したのはこの一言だった。醜い犬は口下手でもあった。
その晩、ジョンの嘘ははかなく露呈した。
ソーセージは炭になり、卵はほとんどフライパンから離れなかった。トマトは生だったため変化は少なかったが、皮ですべてつながっていた。
「ジョン、おまえは――」
男はむざんな皿を前に顎をさすった。
「飯を作ったことはないんだな」
ジョンは終わった、と思った。主人は明日、また売り戻すだろう。ヴィラは自分には商品価値がないと判断して処分するだろう。
だが、彼はあがくだけの弁舌をもたなかった。
「ありません」
「わかった。来い」
男はあごでしゃくってテーブルを立った。
彼は玄関には行かなかった。キッチンに入ると、冷蔵庫から卵を出した。
「おれがやるとおりにやれよ」
男はレンジに火をつけた。
ジョンは自分の幸運にしきりと首をかしげていた。
主人は彼にいちいち料理の作り方を教えた。掃除の仕方がまずければ叱らず手本を見せ、同じようにやれるまで教えた。
この男はなんでもよく知っていた。一人で暮らすことに慣れた男だ。
ジョンを使用人として扱ったが、性奴として抱くことはなかった。
これはジョンにとって望外の幸運だった。5年前の主人は、自分の買い物に後悔したのか、彼を手ひどく扱った。無理にフィストされて脱腸してしまい、アナルセックスには懲りていた。
「WHOオススメの胃腸薬だ」
ジョンが腹をくだして臥せっていると、主人はハチミツジュースを持ってきてくれた。甘いハチミツは彼のはらわたに沁みた。
ジョンはめったに動かない頬の筋肉がゆるむのを感じた。そして、その感覚を恐れた。
みじめな死刑囚だったことを忘れるのは早い気がした。神はいつも自分にそっぽをむいてきた。何かひどい目に遭わせるために、もちあげているのかもしれない。
半年がたった。
ジョンは男の静かな生活になじんだ。男はヴィラにいながら犬遊びをするでもなく、日がな家で本を読んでいる。それか音楽を聞いている。
たまに出るのは食材を買いに行く時ぐらいだ。男は人を頼まず、自分で散歩がてら町に出て行く。
この頃にはジョンもだいぶ、男になついていた。口下手なこの犬は媚びる術をもたなかったが、胸の中ではにかみ屋の少年のように一途に慕っていた。
ヴィラに来て十年、犬にも主人にも相手にされることもなく彼は孤独だった。久々の人間のぬくみだったのである。
それにしても、
(なぜ、コックでなく、おれなんか飼ったんだろう)
と時々考える。
男遊びもせぬのにヴィラにいるのはなぜなのか。
ある日、ジョンは主人の書斎に奇妙なものを発見した。分解されていたが、ジョンにはそれがなんだかわかった。
(ああ、それでか)
ジョンはその無骨なものを見下ろしながら、理解した。
主人はある目的のためにヴィラに来たらしい。
ジョンとの暮らしはカモフラージュだった。長くはつづかない。
彼は無理に唇の端をあげようとした。とたんに岩でできたような顔が痛み、彼の顔はいっそう醜くゆがんだ。
「ミスター・シュリフトマン。少しご相談があるのですが」
その日、ドムスに来客があった。十二人もいた。ヴィラの警察組織ヤヌスの人間である。
「あなたがスナイパーライフルを隠し持っているという噂があるのですよ」
主人は苦笑した。
「単なる噂ですな」
「申し訳ありませんが、ヴィラはご存知のように武器の持ち込みを禁止しております。ドムスを調べさせていただきたいのですが。噂を消すためにも――」
かまわない、と言って、主人はダイニングへ消えた。
ジョンはあわてた。ライフルは書斎の机の中にある。十秒で見つかるだろう。
主人は詰問される。誰を殺すために送り込まれた刺客なのか。
ジョンは書斎に駆けつけた。
「入らないで」
背後からヤヌスの男が声をかける。「そこを調べたい」
ジョンは立ちふさがった。
「ここはおれの部屋だ。おれの持ち物に触るな」
ヤヌスの男は鼻息ひとつついて、ジョンの傍らを通り過ぎた。ジョンはその腕をつかんだ。
相手が抵抗する前に膝を入れる。その首を抱え込んで締め上げた。
「おい」
仲間がすぐ追ってきた。ジョンはあっけなく床に転がされ、後ろ手錠をかけられた。
「おい、出たぞ」
すぐに机からライフルの銃床が現れた。続いて銃身が。スコープさえ出てきた。ヤヌスの男たちが目を見交わす。
「L96A1スナイパーライフルだ」
ジョンはわめいた。
「おれの銃に触るな。おれがやつを殺るために仕入れたんだ。やっと部品が全部そろったのに――」
「顔はまずいが忠犬だな」
男はジョンの腹をしたたか蹴りつけた。
ジョンは体をおりまげ、苦いものを吐いた。後悔と苦痛に身が灼かれるようだった。
「うちのコックを蹴るな」
主人が書斎に現れた。「この男はわたしが身分を解放した。犬じゃない」
「シュリフトマンさん。これはなんでしょうか」
ライフルの部品を突き出すと、主人はつまらなそうにそれを眺めた。
「ライター」
「は?」
「組み立ててみろ。そこに全部ある」
ヤヌスの男たちは主人の落ち着きに妙なものを感じたのだろう。言われたとおりに部品をあわせると肝心のものがないことに気づいた。
部品には銃口がなかった。トリガーをひくと、小さな火がぽっとついただけだった。
ヤヌスの男たちは平身低頭して去った。
「ご主人様」
ジョンはなかばしまらない思いで主人を見つめた。
「何ぼやっとしている」
主人は飯にしろ、とだけ言いつけた。
それから半年後、主人は死んだ。
町に出た時に心臓発作を起こし、そのままあっさりと死んだ。
ぼう然としているジョンの下に、護民官の元からヴィラのスタッフが訪れた。
「シュリフトマンさまはこの家も含めて遺産をすべて、あなたに遺しておられます」
彼らは書類をいくつか渡した。ジョンはふぬけのようにそれを受け取り、そのままぼんやりと座っていた。
いつのまにかスタッフは帰っていた。
日が暮れかけている。ジョンは手にまだ書類を持っていたことに気づいた。
その中に封書があった。――ジョンへ、と宛名が書かれている。
――ジョンへ
最後の日々をともに過ごしてくれてありがとう。
この老人は本来なら路上で蜂の巣死体となって発見されるか、電気椅子に座ってこの世から去るはずだった。
おれは狙撃で飯を食ってきた。外の世界には敵が多い。体も弱ってきた。そういうわけでヴィラに逃げ込んで来たのだ。
べつにひとりで暮らしてもよかった。
だが、あのアクトーレスの小僧が薬殺寸前のおまえを飼ってくれと頼み込んできた。
おれは買った。
おれは数限りない人間をあやめた男だ。ひとりくらい生かすのもいいと思ったんだ。年寄りだな。
ところが、おまえはこの年寄りがくすぐったくなるくらい、一所懸命尽くしてくれた。おまえの料理はうまくはなかった。だが、いじらしかった。
この人でなしのじじいにはもったいない余生だ。神様が腹をたてるだろう。
おれに身寄りはない。おまえに全部受け取ってほしい。感謝のしるしだ。血まみれの財産など欲しくないというなら、誰かにやってしまえ。
ところで、おまえの歯はとてもきれいだよ。
テリー・シュリフトマン
ジョンは手紙を握り締めてぼろぼろと涙を落とした。
「金なんかいらない。あんたのためにうまい飯を作りたいよ」
―― 了 ――
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