2012年2月1日〜15日
2月1日 ライアン 〔犬・未出〕

(まあいい。リーアム以外にもかわいいやつはいる)

 おれはあえて深刻にとらえなかった。おれに抱いてもらいたがっている男の子はいくらでもいる、と思った。

 ところが、彼らの空気は微妙に変わっていた。前のような熱烈歓迎ではない。どこかとまどい気味だ。

「ごめん。前はなんか、あんたのこと知りたかったんだ」

 以前、仔犬みたいにじゃれついてきた大学生がデートを断った。

「すごくチェスが強くて、なんか神秘的で。でも、今は――わりとふつうだなっていうか」


2月2日 ライアン 〔犬・未出〕

 どうやらおれのセックスアピールはチェスにあったらしい。そしてフィルに負けたことで、その価値は下落し、さらに人気者のリーアムが離れたことでおれ株の売りが殺到しているようだ。

(ブラックマンデーだ)

 おれは茫然とした。
 中庭にひとりでいても、誰も近づいてこない。負け犬から腐臭がするとばかりに、おれのまわりには人がいなかった。

 回廊の売店からは楽しげな声が聞こえた。

「おれ豚マンがいいな」

「おれも!」

「おまえらサイフだせよ」

 リーアムがとりまきの男たちとふざけていた。
 

2月3日 ライアン 〔犬・未出〕

 フィルに勝って栄冠を取り戻すことだ。おれの価値を立て直すにはそれしかない。

 おれはフィルの手を逐一思い出し、書き起こした。さらにAI相手に研究を重ねた。

 眠れなかった。
 ヴィラも犬の身分も忘れて、チェスに打ち込んだ。

 なんでカラダに力が入らないのだろうと思ったら、飯を喰うのも忘れていたという具合だ。飯は食わなきゃいかん。頭を使うと大量に糖が消費されるのだ。

 飯を食う間も脳裏で敵の手を睨んでいる。リビングではタクがテレビをつけっぱなしにして居眠りしていた。


2月4日 ライアン 〔犬・未出〕

 PCのAI相手に目を血走らせ、懸命に研鑽する日々がつづく。
 そのまま疲れて眠り込むと、夢でも戦っている。

 夢のなかでおれはフィルを打ち負かし続けた。彼の手がすべて読めた。フィルがあきらめ、首を振る。おれは勝利の雄たけびをあげていた。

 うはははは。
 復位だ。
 王位がわが手に帰ってきた! 

 ふりむくと男の子たちがまた話しかけたそうに見ていた。リーアムがうるんだ青い目で見つめている。

『ライアン、前のこと怒ってないよね』


2月5日 ライアン 〔犬・未出〕

 「チェックメイト」

 フィルの静かな声が心臓に刺さった。
 眼前の風景が信じられなかった。負けていた。

 また、負けた。
 彼が何か言っていたが、おれは答えられなかった。立ち上がり、部屋を出ていた。

 みっともない。だが、不覚にも泣きそうだったのだ。ドムスに帰って、自室にこもると本当に涙が出てきた。

 31にもなっておかしなことだ。たかがチェスに負けたぐらいで。

 だが、おれの中身は31じゃなかった。10歳ぐらいのガキみたいにくやしくてわんわん泣いていた。


2月6日 ライアン 〔犬・未出〕

 おれはCFに行かなくなった。

 行っても面白いことは何もない。勝利もない。友だちもない。愛もない。
 日がな、テレビをみてのたのた過ごしていた。

 何も考えなかった。
 何か思えば、自分のちっぽけさがやりきれなくなる。実社会からはじきとばされ、さらに奴隷社会でさえ、なぐさみに虚名を得ることもできない。

 なんだってあんなに自信満々だったんだか、不思議なぐらいだ。おれぐらいの能力の男はいくらでもいるのだ。
 おれが落ち込んでいるとタクが声をかけた。

「今夜、スキヤキ食わない?」


2月7日 ライアン 〔犬・未出〕

 コンロの上でぐつぐつ鉄鍋が煮えていた。焼き目のあるトウフ、キノコ類、野菜と牛肉がぎっりし詰められ、隙間から汁を煮立たせている。

「肉煮えてるよ」

 タクはトウフと肉をおれの皿によそった。牛肉は甘じょっぱく、熱くてうまかった。
 その熱さが奇妙にものがなしかった。

 火が胸のなかに落ちてきて、凍ったものに触れる。それがひどく悲しい。おれは愛想もいわず、彼のスキヤキをもくもくと喰った。

 タクも何も言わない。彼はいつもとかわりなく淡々と、食事に満足していた。


2月8日 ライアン 〔犬・未出〕

 おれはその晩、ひさびさにタクの部屋を訪ねた。

 おれは少し怯えていた。ずいぶんご無沙汰だった。断られてもしかたがない。

 だが、タクは前とかわりなく、白い歯並を見せ、おれを中に入れた。抱きしめると素直に身をゆだね、愛撫にこたえた。

 彼のからだは引き締まり、温かい。おれの腕のなかで、硬い筋肉が震え、細い鳴き声をあげた。気絶するように眠り込んだ。
 おれは彼を抱きしめたまま眠った。ガキのころ、ベアを抱いて寝たように。


2月9日 ライアン 〔犬・未出〕
 
「うまいのか。それ」

 おれはタクが朝食のライスに生卵を落とすのをみて、あやぶんだ。

「サルモネラ菌とかあるぞ」

「大丈夫」

 タクはうまそうに黄色い液体を飯に混ぜ込んで食べた。

 家でぶらぶらするようになって、おれはタクの暮らしぶりに気づいた。
 こいつは朝、とっとこキッチンにおりてゆき、自分用の朝食の用意をする。飯を食い終わった後は食器を洗い、自分の部屋を掃除する。洗濯も自分でやっているようだ。


2月10日 ライアン 〔犬・未出〕

「この皿、おれが作ったんだ」

 タクがきれいに刺身のならぶ皿を差し出す。

 おれは彼の作った夕飯に相伴するようになった。食いなれないものもあったが、日本食はなかなかうまい。

「いいね」

「だろ。これは自分でもうまくいったと思う」

「おいしいよ」

「あ、刺身のこと?」

 彼との会話はどこかズレているところもあったが、平和だった。
 リーアムとの頭がフル回転するような楽しさはない。爆笑もない。

 が、安心して話せる。こいつはおれが賢かろうが、バカだろうが、気にしていない。


2月11日 ライアン 〔犬・未出〕
 
 タクは陶芸のほかに、柔道のクラスもとっている。

 おれは興味を覚えた。
 こんな平和な男でも、やはり敵を投げ飛ばして、勝利に酔ったりするのだろうか。

 おれはひさびさにCFに赴き、柔道のクラスをのぞいた。
 ちょうど乱取り稽古の時間だった。タクもでかい黒人と組み合っている。足をかけて、うまいこと引き倒した。黒人に何か言われてニコリと微笑む。
 だが、次に日本人と組むと今度は引っ張り込まれ、投げ飛ばされた。おきあがって、またニコリと笑った。


2月12日 ライアン 〔犬・未出〕

「ああ、背中痛い」

 中庭でタクは顔をしかめて、肩をそびやかした。まだ汗ののこるその額はさわやかだった。

 彼が強いのか弱いのかよくわからない。少なくともナンバーワンではない。

 ただ、彼はみんなに愛されていた。リーアムみたいなかわいいやつが、タクにふざけて組み付いてきたり、ほかの男たちも彼をかまいたがった。スポーツ飲料をもらい、タクはニコニコして彼らの悪ふざけを見ていた。

 おれはようやく彼のナゾに気づいた。


2月13日 ライアン 〔犬・未出〕

「ふたりともいい子にしていたかい」

 主人のコリンがアメリカから帰って来た。
 コリンは例によって、第一夜をタクと過ごし、二日目、おれの部屋に来た。

「仲良くやってたみたいじゃないか」

 おれはすねたふりをした。

「ならざるをえんでしょ。むこうは戦わないんだから」

「ああ」

 コリンは笑った。

「彼は誰とも戦わない。自分ひとりで完結しているんだ」

 そうなのだ。タクは戦わない。柔道で投げ合っていても、誰とも戦ってはいない。そんなことに関係なく、彼は幸せだった。


2月14日 ライアン 〔犬・未出〕

 結局、幸せであるのに勝利はいらないということなのだ。

 賢さも名声も愛情もちやほやも、何もなくても、幸せを感じることはできるということらしい。たとえば、夕飯に好きなものを喰うとか。

「おれも前は彼の魅力がよくわからなかったがね」

 コリンはやさしい目をした。

「彼といると不思議とよく眠れるんだ。赤ん坊みたいに寝ちまう。それにからだがラクなんだ。あいつは戦わない。だからおれも武装を脱いで、ガキの頃のままの間抜けなコリンでいられるのさ」


2月15日 ライアン 〔犬・未出〕

「また泣いて帰るなよ」

「涙も枯れ果てた。来い。フィルの前に肩慣らししてやる」

 おれはまたチェスのクラスに通いはじめた。

 タクのように勝敗に気分を左右されない、というわけにはいかない。
 やはり勝てば鼻の穴がひろがるし、負ければ胸のなかが灰色になる。

 だが、以前のように自分の全価値を勝負に賭けるようなことはなくなった。主人コリンの愛ある言葉のおかげだ。

「おまえはおまえで面白いさ。そのマッチョ思考、そういう喜怒哀楽が激しいところ。マンガみたいで見てて飽きん」


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