2016年 6月16日〜30日
6月16日 イアン〔アクトーレス失墜〕

 時計を見て、気持ちが重くなった。
 いま、レオと話し合いたくはない。ウォルフに電話しようとしたが、やめた。

(……)

 ジムに入り浸った。念入りに汗をかき、サウナで時間を潰し、結局、成犬館に戻ってきた。仮眠室で毛布を一枚ひっかぶって寝た。
 少し意識をうしなったと思ったとたん、物音がした。

「イアン? いるの?」

 ラインハルトだ。

「なんだ?」

「なんだじゃないよ。アホイタリア人がうちに押しかけてきたぞ」

「……」


6月17日 イアン〔アクトーレス失墜〕

 おれは携帯電話を見て、うんざりした。ボイスメールが20件も入っていた。
 うち半分は、おれの客とアキラだ。あのバカが騒いだのだろう。
 おれは電話を仕舞った。

「ケンカ?」

「なんでもない」

 ラインハルトは言った。

「完全に熟睡してたのに、悪意に満ちたイタリア人におしかけられて迷惑なんだが」

「おれの気持ちがわかったろう」

「は?」

「なんでもない」

 おれは立ち上がった。

「悪かった。戻る」

 いいよ、と彼は手を振って出て行った。

「適当にあしらっとく。今日はここにいな」


6月18日 イアン〔アクトーレス失墜〕

 翌朝、おれがオフィスに入る前にレオが来ていた。

「飛行機を持っていって悪かったよ」

 彼は明るく言った。

「勇み足だった。でも、何も言わないで家出はよくない」

「出てくれるか?」

 おれは言った。

「ここは職場だ」

「イアン。不満があるのはいい。言えばいい。ふたりで解決しよう」

「レオ! 出ろ」

「おれは客でもある!」

「――」

 おれは睨んだ。

「ではお客様。こちらの部署には犬をご購入になってから、おいでください。生活上のご相談は護民官府か家令のご利用を」


6月19日 イアン〔アクトーレス失墜〕

 ウォルフから電話があった。
 レオは本当に護民官府に行ったらしい。

(あのアホ)

 話はしなきゃいけない。結論は出さなきゃいけない。
 いや、おおむね結論は出ている。話す勇気がないだけだ。

「あのさ」

 ラインハルトが来た。

「今日、うちに来るか。ソファ貸すけど」

「……」

 おれが黙っていると、ラインハルトは言った。

「シチリアに行きたくないのか」

「――」

 クソが。あちこちで触れ回っているらしい。

「マフィアになりたくないってこと?」

「そうじゃない」

 おれはあきらめて、彼を座らせた。


6月20日 ラインハルト〔ラインハルト〕

 イアンはしばらく言葉を選んで、迷っていた。

「おれはあいつを気に入ってる」

「――」

「楽しいやつだ。あれが家にいると、ぱっとまわりの空気が華やぐんだ。気分が明るくなる。おれ以外の人間にとってもそうだ。あいつはいい加減で、残酷な面もあるが、ボスなんだ。大きな仕事をする男だ」

 おれは止めた。

「前置きはいい。あんたはどうしたい? そんないいやつに、どんな悪いことをしたいんだ?」

 彼は目を伏せた。元気のない声で言った。

「おれは、あいつに、子どもを持ってほしい」


6月21日  ラインハルト〔ラインハルト〕

 おれは意見を差し控え、話を聞いた。

「すっと迷っていた」

 イアンは片手で顔を覆うようにつかみ、ため息をついた。

「あいつを一生ゲイでいさせるのは正しいことなのか。あいつは元々ホモセクシュアルじゃない。女といて楽しめる普通の男だ。まともな結婚をして、子孫をもつ未来があった。やつの両親もそれを願っていたはずだ。あいつの人生は充実してきているのに、そこだけ欠けたままなんだ。おれはそれがすごく、気になる」


6月22日 ラインハルト〔ラインハルト〕

 おれは言った。

「子どもを持たない家庭もあるよ」

 イアンはうなずいた。

「おれの勝手な理想なんだ。現実の親を知らない人間の勝手な思いこみ。気のいい女を嫁にして、子どもを持って、誇らしい親父になる。それが最上の幸せ」

「ナンセンス」

「わかってる」

 おれは言った。

「その勝手な思い込みは、本当に直せないのか」

「……」

「本当に、やつにガキをこさえてもらいたいのか」

 イアンは力なく言った。

「時期的に、そろそろ父親になるべきだと思ってる」

「じゃあ、その願いはもう叶ってる」


6月23日  イアン〔アクトーレス失墜〕

 おれはレオを前に座らせて聞いた。

「子どもがいるって本当か?」

 レオの目が一瞬止まった。

「な――」

「三人。男の子ふたり、女の子ひとり。母親はふたり」

「……」

「本当なんだな」

 レオはうなずき、

「落ち着け。おれの話を」

「いや、先におれの話だ。離婚しよう」

「ア、イアン。あの子たちは――」

「おまえの遺伝子を引き継いでいるんだろ。問題ない。好きなほうの母親と結婚しろ」

「イアン。おれはおまえを」

「ダメだ。おまえは父親だ。義務を果たせ。子どもには親父が必要なんだ」


6月24日 イアン〔アクトーレス失墜〕

 おれはひさびさにインスラに戻り、自分の部屋に入った。
 電気もつけず、上着だけ脱いで、ベッドに仰向いていた。

 レオはけたたましくいいわけしたが、おれはドアを閉めて出てきた。

(あいつ、おれと別れたかったのか)

 だから、離婚なんて言ってみせたのか。
 よかった。あのマンマをがっかりさせなくてすんだ。願いが叶った。

 あと、できれば、このうつろさを感じたくない。自己憐憫なんかまっぴらだ。これでよかった。


6月25日  ウォルフ〔ラインハルト〕

 イアンを飲みに誘った。

『いやだよ。ラインハルトに殴られる』

「いいから来い」

 やはり寂しかったのだろう。あまりぐずぐず言わずにバーに来た。

「荷解きは済んだのか」

「荷物なんかない。服ぐらいだ」

 彼はインスラに戻ってきた。レオはシチリアに帰った。
 おれたちはグレンリベットの12年で乾杯した。

「おれの独身復帰に」

「無理やり、やつを追い出す必要があったのか」

「――」

 イアンはウイスキーを舐め、言った。

「あるよ。おれだって、多少ハラがたつ」


6月26日 ウォルフ〔ラインハルト〕

 おれたちは黙って、グラスを重ねた。
 酔いが少しまわった時、彼はやっと言った。

「負い目がひとつなくなった」

「――」

 よかった、とつぶやいた。
 おれは彼が吐き出すのを黙って聞いた。彼はゆるんだまなざしを落とし、

「ラッセルのことを、思い出すんだ。あいつは最後まで、おれを信じなかった。小僧が気まぐれでくっつていると思って、期待してなかったな。野良猫だ。可愛いし、いとしいが、撫で終わったら、通りでさようなら。だから、野良猫は別で幸せを探すほうがいいんだ」


6月27日 ウォルフ〔ラインハルト〕

 おれはイアンに言った。

「おれたちはおまえが残ってくれて喜んでる」

「……ありがとう」

「本心だ。よかった」

 彼は苦笑した。

「ラインハルトはそうでもないんじゃないか」

「あいつを見くびるな。あいつはああ見えて大きいやつだ」

「わかってる」

 彼は言った。

「――おまえのその、ラインハルトに対する信頼はいいな」

「――」

「そういうところが好きだ」

 こいつ、また酔ってる。イアンは笑った。

「本心だ。尊敬している。悶着おこす気はないが、ちょっと言いたかったんだ」


6月28日 ウォルフ〔ラインハルト〕

 その後はあたりさわりのない話をして、帰った。
 エレベーターのなかで、彼は少しゆるい目をして黙っていた。

「じゃ」

 下りて扉が閉じる瞬間、おれはふと不安になった。

 やつの顔は無表情だった。ふらつきもせず、きちんと立っていた。
 だが、海に飲まれる難破船の甲板に立つように見えた。黒い波間に消えて行くような気がした。

 部屋に戻ろうとしたが、いやな想像がやまなかった。
 あいつの話、やけに吹っ切ってなかったか。話しすぎてなかったか。

 おれは階段を駆け上がった。


6月29日 ウォルフ〔ラインハルト〕

 イアンは部屋のドアを開けたところだった。

「どうした」

「おまえ、大丈夫なのか」

「――?」

 彼は察した。

「首でもくくるかと思った?」

「……」

 彼の眉がゆがんだ。笑い、すぐ真顔になった。硬い声で言った。

「それはないよ。じゃ、おやすみ」

 彼はおれの目も見ず、ドアを閉めた。
 おれはドアの前に立ち尽くした。こじあけたほうがいいのか。

 だが、結局、立ち去った。
 あいつが自分で決めたことだ。自分で乗り越えなければならないことだ。


6月30日 ラインハルト〔ラインハルト〕

 オフィスを訪ねると、イアンは電話中だった。

「仕事だ。切る。いやいい。もうかけるな」

 電話を切り、彼は変な顔をしておれを見た。
 おれは気づいた。

「レオ?」

「来月また来る」

「早いね」

「おれにも戻れと」

「早いね!」

「意味がわからん。子どもを引き取ったから離婚には応じるが、再婚前提だと」

「?」

「子どもが成人するまでの便法だと」

「母親は?」

「年末に別の男と再婚してた」

「ふたりとも?」

「ひとりはマフィアの嫁になる気はないんだと」

 おれは聞いた。

「あんた、どうすんの?」

 彼は笑ってしまった。

「さあ?」




今日のわんこ おわり
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