花束  ぱすた様作品




花束




  
「フミウスと同じことを言うんだな。今度、ドムス・ロサエに行くよ。いつがいい?」

「――まだ、分からない」

「分かったら連絡してくれ。おまえの都合に合わせる。――ありがとう。こんなに協力してくれるとは思わなかった」

「え?」

「まったく耳を疑ったよ。フミウスにおまえがミミズ責めの犬をやってくれると聞かされたときは」

「そ、それは――」

「あ、悪い。客が来たようだ。連絡を待っているよ。じゃあ」

「あ、ああ、またな」

 電話を切ったあと、今の会話が気にかかって反芻してしまった。なにか腑に落ちない。
 あんな震え声で話す男だったろうか。おどおどしているようにさえ聞こえた。口数も奇妙に少なかった。
 アクトーレス仲間の中でもひときわ恵まれた体躯をした彼は、張りのある声で明快に話すのが常だったはずだ。

 目の前にぬっと巨大な赤い固まりが突き出された。かぐわしい甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 見上げると、レオポルドが目を細めて笑っていた。

「なんだ、その憂い顔は?我が麗しの君に想いを届けるには、窓の下でセレナーデを歌わないとならないのかな」

 イタリア人ならではのレオポルドの声量は初対面の頃に披露してもらった。奴の歌をやめさせるために何度となく鞭を振るったものだ。

「悪かった。仕事のことを考えていたんだ。――どうしたんだ、これ?」

 真紅の薔薇の花束だった。とてつもなく大きい。まさかロビーの花瓶から抜いてきたわけではあるまい。幅広の赤と緑と金のリボンが茎を束ねていた。

「おまえにプレゼントだよ。何しろ――」

「ここの売店で買ってきたのか」

 レオポルドは、おれが仕事に行っている間、インスラ内にあるプールに泳ぎに出かけていた。
 その帰りに売店に寄って、この花束を買ってきたということか。売店から4階のおれの部屋まで、この赤い気球を抱えて上がってきたとなると、窓辺のアリア以上の破壊力があったかもしれない。
 まったく地中海男の情熱には圧倒される。上着のフラワーホールに挿した赤い薔薇も、違和感なく似合っていた。

「ありがとう。レオ。とても嬉しいよ――花瓶、あったかな」

「流しの下にあるんじゃないか」

 そう言い置いてレオポルドは、キッチンに姿を消した。まもなく、おれすら長らく存在を忘れていた古い花瓶と瓶ビール2本を抱えて戻ってきた。
 薔薇を花瓶に挿して窓際に置くと、殺風景な部屋がぱっと華やいだ。

 レオポルドはビールの蓋を開けておれに渡してから、自分の分の蓋を開けて、うまそうに飲み始めた。おれは、テーブルの上に置きっぱなしになっていた紙袋を片づけようと立ち上がった。

「まあゆっくりしろよ。帰ってきたばかりなんだろ。――なんだ、それ?」

「帰り際に家令控え室で渡されたんだよ」

「またフミウスか?」

 レオポルドが眉を上げた。

「ああ。新しい支給品を回してくれた。フミウスのサービスなんだろう」

 予算の逼迫には困ったものだが、やりくり上手のフミウスが、捻出した金で買った新しい道具をこっそり渡してくれたのだ。仕事で使う前にインスラのジムで手に馴染ませようとそのまま持ち帰ってきてしまったが、レオポルドに見せる気にはなれなくて、つい言葉を濁してしまった。

 レオポルドは、ふいっと目をそらして瓶を呷った。

「酒が飲みたいな」

「冷蔵庫にまだ何本かビールがあっただろ」

「ビールなんて水みたいなもんだ。大人の酒を出してくれよ」

「ビールしか置いてない」

「ふん。レオポルド・フェッロ・アンジェロ・レオーネさまの目は節穴じゃないぞ。――もう、調べは付いているんだぜ」

 レオポルドはにやりと笑ってキッチンに戻った。がさごそという物音が床に響いてくる。おれが紙袋を片づけるひまもなく、レオポルドはリビングに戻ってきた。

 ふん、と鼻を鳴らしながら、テーブルの上に発掘品を置いてみせた。

「バランタインの17年。おれに隠れてこんな上物を飲んでいたのか?」

「飲んでいないさ。蓋を開けていないだろ?――覚えていなかったんだ。よく見つけてきたな」

「流しの下の花瓶の陰にあった――飲んでもいいか?」

「ああ。――しかし、おまえ、泳いだ後だろ。今晩はビールにしておけよ」

 レオポルドは、ふっと息を吹きかけて埃を払うと、蓋を開けてグラスに注いだ。馥郁としたスコッチの甘い香りがリビングに漂った。

「チアーズ」

 レオポルドはグラスを掲げ、にっと唇の片端を上げて微笑んでみせた。それからグラスを軽く揺らし、金色の液体を口に含んだ。

 レオポルドは、スコッチの瓶をぼんやり眺めながら、静かに酒を呷っていた。ペースが速い。おれがビールを飲む速度とさほど変わりがない。おれは少々心配になった。

「おい、レオ――」

「誰からだ」

「え?」

「さっきの電話」

「同僚だよ。仕事の話だ」

「おまえはいつもそうやってごまかそうとする。おれが帰ってきたのを知って、慌てて切ったじゃないか。『連絡してくれ。おまえの都合に合わせる。』『客が来たようだ。連絡を待っているよ。』」

「どこまで聞いていたんだ」

「それだけさ」

 ミミズ責めの調教の話は聞こえていなかったらしい。ほっとしたおれの表情が気にくわなかったのか、レオポルドは声を荒げた。

「まだ、何かあるのか?」

「別に。ただの仕事の打ち合わせだ」

「じゃあ、なぜ電話の後で考え込んでいたんだ」

「おれにもよく分からないんだ。説明のしようがない」


 電話の向こうのふるえ気味の声。フミウスからの不思議な電話。アクイラで盛り上がるパトリキたちの興奮。――そして、先日の公開講習。

 あの時おれが想像した最悪の事態が彼に起ころうとしているのだろうか。いや、きっと考えすぎだ。ラインハルトが聞いたら笑い飛ばすだろう。

 ただの憶測に過ぎないというのに、どうやってレオポルドに説明できる?しかも、説明するには、先日のドムス・ロサエでの出来事の真相を話さなければならなくなる。
 それだけは絶対にできない。怒り狂ったレオポルドが何をしでかすか、想像するだけでぞっとする。
 おれにとっての最悪の事態は、ヴィラが本気でレオポルドを処罰することだ。


 おれの沈黙は、レオポルドの怒りの火に油を注いでしまったようだった。黒い瞳が熱を帯びて揺らめいた。

「説明できないようなことなんだな――これもそうか?スコッチの瓶に隠れていたぜ」

 レオポルドは背後のキッチンカウンターに手を伸ばした。ごとりと音を立ててテーブルに置かれたそれをみて、おれは息を飲んだ。
 碧く丸いガラスの器――灰皿だった。底や縁にまだ黒い燃えかすがこびりついている。

 おれはタバコは吸わない。

「ラッセル・ウェストのだろう?大事にしまっていたんだな。」

 レオポルドは、くしゃっと顔を歪ませると、拳でテーブルを叩いた。
 振動で、おれの紙袋から中身が転がり出た。レオポルドはいぶかしげに袋の中を覗いて、フミウスが渡した新しい道具――鞭を引っ張り出した。

「フミウスからの贈り物か――おまえが話してくれないことは沢山あるんだな」

 レオポルドは両手で鞭の柄を握り込み、左手をすっと端まで滑らせた。

「これを使ったら、話してくれるのか」

 一瞬、聞き間違えたかと思った。レオポルドの黒い瞳が、昏く鈍い光を放っていた。
 おれは意を決して立ち上がった。

「イアン?」

 不思議そうに見上げたレオポルドの前で、おれは次々に制服を脱ぎ捨てていった。ついに脱ぐものがなくなったところで、レオポルドの瞳を見つめて言った。

「おれを打ちたいんだろ。いいさ。打たしてやる。罰だろうと拷問だろうと、おまえの気の済むようにしてくれ」

 壁に向かって立ち、手を後頭部の後ろで組んだ。こうすれば、鞭の扱いに慣れていないレオポルドの手元が狂っても、急所を庇うことができる。

「打て、レオポルド」

 ほどなく鞭が唸り、おれの右肩から背中を切り裂いた。

「グ」

 よろめきそうになる身体を、ぐっと足を踏みしめて支えた。背中よりも足の古傷がぴりりと痛む。膂力のあるレオポルドの鞭は重く、おれはかろうじて声を押さえ込んだ。
 次に、返す鞭が左肩から襲いかかった。経験の浅い割には巧みな捌き方をする。
 と思っていたら、三打目はバランスを崩した。1打目の少し上を打ったあとで、鞭先がおれの右手の甲にあたった。

「ウッ!」

 皮膚が破れて、血が腕を伝うのが感じられた。肉の薄い敏感な個所だけに、ひどく痛んだ。

 おれは4打目に備えて、奥歯を噛みしめた。
 しかし、いくら待っても次の鞭の音が聞こえてこない。
 振り返ってみると、レオポルドは、指の関節が白く浮き出るほど鞭を握りしめ、大きな背を丸めて俯いていた。

「レオポルド?」

「えぐっ」

 レオポルドの頬が涙に濡れていた。くちびるをふるわせて泣きじゃくっている。
 おれは呆気にとられた。

「おい。なんで泣いているんだ。鞭で打ったのはおまえで、打たれたのはおれなんだぞ」

「ひっく――ぐ。――ごめん、イアン、おれ」

 ピアソンに命令されて数え切れないほどレオポルドを鞭で打ったが、そのたびにレオポルドは声を上げて泣いたものだった。
 おれは左手でレオの涙を拭い、キスをした。

「おれこそ悪かったよ。あの灰皿は、ラッセルのだよ。奴が来ると、流しの下から出して使っていたんだ。――ずっと忘れて、置きっぱなしになっていた」

 レオポルドの嗚咽が止まった。

「――バランタインもラッセルのだと思う。おれはあの瓶があることも知らなかったよ」

「信じられない」

 レオポルドの涙に濡れた黒い瞳がきらりと光った。

「おまえは一年半前に殺人罪で逮捕されたじゃないか。家宅捜索があったはずだ」

「家宅捜索なんて面倒なことはしていないだろ。筋弛緩剤の瓶がおれの家にあった、と言いさえすれば、事は足りたんだ」

「犬になった奴の家を、そのままにしておいたというのか」

「アクトーレスを育てるには、時間と金がかかるからな。求人広告を出しているわけじゃないし、スカウトに引っかかる奴がいなかったんだろ。とにかく、釈放されて戻ってきたとき、部屋の様子はおれが出たときと大して変わっていなかったよ」

「嘘だ」

「本当だよ」

「なあ、イアン、あのバランタインがラッセルの物だったはずがないんだ。おれはバールの亭主の息子なんだよ。
 おまえは知らないようだが、ウィスキーのラベルの隅には製造年月日が記号化されて小さく印字されているんだ。
 ラッセルが死んだのは3年半前だろう?あのバランタインが瓶詰めされた頃には、とっくに天国の門をくぐり抜けていたさ」

 おれは息を止めた。

「レオポルド、おれ――」

「本当のことを話してくれよ」

「――わかった。あれは、ゲイリー・ワイルドにもらったんだ」

「ゲイリー?」

 レオポルドが眉をひそめた。

「ハスターティ時代の上官だよ。最初に逃亡したとき、奴の所で捕まって足を串刺しにされたんだ。
 ゲイリーが、仕事に復帰した日にデクリアにやってきて、昇進祝いだと言ってあのバランタインをくれた。
 でも、おれは祝う気にはなれなくて、飲まずに流しの下にしまったんだ。

 おれの部屋が出たときのままだったのは本当だよ。
 ラッセルの灰皿は、そうだな、半年前までは時々取り出していたな。おまえは、ボートの爆発で死んでしまったと思っていたから。
 おれの手元に残ったのはあの灰皿だけだった。あれをながめては、一緒に行くはずだったタスマニアのことを考えていた。

 ――これで、全部だ。満足したか?」

「さっきの電話の説明がまだだ」

「――それは言えない」

「じゃあ、取引だ。別のことでおれを満足させてくれ」

「何が望みだ?」

「今晩、おれの犬になってくれ」





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