蝶たちの苦悩  ギイ様作品




蝶たちの苦悩



「ドクター!」
 パンテオンから戻り、中庭を横切ろうとした時に声をかけられた。

「えっ・・ アキオ?」
 振り返ると声の主はあの章夫だった。

「お久しぶりです」

「あぁ、でも何で?」
 俺は夢でも見てるのかと、目の前の章夫をマジマジと見る。

「パテルから春樹を返してもらう時の条件の一つに白粉彫りがあったんです。それで彫り師のじいさんを連れて」

「あぁ、そういう事か。それでハルは?日本で留守番か?」

「いえ。アフリカまで一緒に来てるんですが、さすがにここには来たくないからって空港近くのホテルで待ってます」

「アハハ・・そりゃそうだ。ここには入りたくないだろう。で、その後ハルの調子はどうだ?」

「戻ってすぐはPTSDが酷くて、夜中に何度もうなされて起きるし、しょっちゅうフラッシュバックが起きては吐いたり倒れたり・・・感情の方も突然泣き出して止まらなくなったりで、日常生活もままならない感じでしたが、この1ヶ月程ようやく落ち着いてきました」

「そうか・・やっぱり引きずってたか」

「日本に戻ったらここでの事は忘れて、2人で新たに・・なんて考えてたんですけど、実際にはそんなに甘くなくて・・春樹の心の傷は、俺の想像以上に重症でした」

「まぁ、生きてるのが辛いって自殺したぐらいだからな」

「どれだけの時間が必要なんでしょうか・・」
 そう言うと、章夫は大きくため息をついた。

「どうした?アキオの方も随分まいってるじゃないか。この1ヶ月は落ち着いてきたんだろ?」

「落ち着いたと言っても、以前の状態にはほど遠くて・・」

「もしかして、夜の生活が出来てないとか?」

「本当にそれどころではないんです。抱きしめて安心させて眠らせるので精一杯で・・ようやく寝たと思ったら何度もうなされて、泣くし叫ぶし・・見てられなくて」

「あれから3ヶ月だっけ?ハルはいいとして、アキオはセックスなしじゃキツイだろ?」

「弱ってる春樹を見てると、そんな気になれませんって」

「恋人同士のスキンシップは大事だぞ」

 その時、章夫の携帯が鳴った。
「ちょっとすいません。はい・・・・あぁ、これから戻る。そうだ春樹。今ドクターに会ったんだ。ちょっと代わるよ。お願いします」

 電話はハルからだったようで、俺は章夫に携帯を渡された。

「はぁ〜い♪ すべての人に愛されるドクターです」

『あはは・・エンリケだ』
 ハルの声は思ったより明るかった。

「どうだハル、元気だったか?」

『・・・・うん』
 返事に少し間があった。
 今章夫から話を聞いた所だったので俺は心配になった。

「どうした?声が小さいぞ。ちゃんとメシ食ってるか?」

『食べてるよ』

「それは良かった」

『エンリケ・・・』

「ん? なんだ?」

『・・・・』

 呼びかけたくせに、その後の言葉がなく、代わりに鼻水をすする音が聞こえ出した。

「ハル〜・・俺はお前に泣かれるのに弱いって言ったろ?」
 章夫が心配そうに俺を見る。

『ごめん・・エンリケ』

「どうした?」
 俺は優しくハルに問いかける。

『まだ・・辛いんだ』

「そうか。他には?」

『苦しい・・あきが居てくれるのに・・怖くて』

「まあ、普通じゃありえないような、すごい体験しちまったからな」

『うん・・』

「そんなに辛いなら、あのまま死んじまった方が良かったか?」

『ううん・・そうは思わないけど』

「それを聞いて安心した。また死にたいなんて言われたら、必死で助けた俺が報われないからな」

『エンリケ・・』

「ん?」

『どうしても抜け出せないんだ』

「そうか・・辛いな」

『あきに・・・悪くて』
 電話の向こうで落ち込むハルの声に、俺はかける言葉を探す。

「ちょっと一緒にメシでも食うか?」
 ハルにそう言うと、俺は章夫に尋ねる。

「すぐ帰っちまうのか?今晩とかならメシできる?」

「まだ2日程居るので大丈夫ですけど、ドクターはいいんですか?」

「今ちょうど重症な奴が居なくて、夜には体が空くんだ」

「じゃ、お願いします」
 章夫の返事を聞いて、電話のハルに話しかける。

「そういう事だハル。今晩メシ食おう」

『本当に!ありがとうエンリケ』

 電話を切って章夫に返すと、仕事が終わり次第こっちから連絡すると伝えて、俺は職場に戻った。




 レストランに向かう途中、ハルの調子が悪くなってホテルに戻ったと携帯に連絡が入り、俺は慌てて2人が泊まる部屋を訪ねた。

「せっかく出てきていただいたのに、すいません」
 章夫は俺を中に招き入れた。

「具合が悪くなったって、何かあったのか?」
 部屋の奥に入ると、ベットの上で膝を抱えたハルが布団に包まっていた。

「ハル・・・どうした?」

「エンリケ・・」
 ハルは俺の姿を見ると泣き出した。

「ほら泣いてちゃ、わからんだろ」
 ベットに腰掛けハルの頭を撫でる。

「どうやらヴィラの人間を見たようなんです。俺は気づかなかったんだけど、首輪をしてたって」
 ハルはギュっと目を閉じ、膝に顔を埋める。

「まぁ、ここは空港に近いし、犬を連れて出てる奴も居るからなぁ」

「すいません」
 章夫が泣いてるハルに代わって謝った。

「別にいいんだけどさ。外に出られないなら、ルームサービスでも取るか。なっ」
 章夫を促し、2人で適当にメニューを決めて注文した。

「ハル、もう泣くな。お前が泣くとみんなが辛い」
 食事が届いて、ようやくハルがベットから出てきて席についた。



「お前、ちっとも体重増えてないんじゃないか?」
 食事が始まり、少し落ち着きを取り戻したハルに言う。

「そうかな? ちゃんと食べてるよ・・ねぇ?」

「まぁ、食べられるようにはなったかな」

「そんな答えじゃ、食べてないみたいじゃないか」
 ハルは少し困って章夫に抗議する。

 2人の初々しいやり取りに俺は少しホッとした。

 ハルがちゃんと食べ終わるまで、俺は本題を避け、たわいない話にとどめる。






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