犬
犬はいつも捨てられる恐怖と、寂しさと戦っている。
長く捨てられれば薬殺処分であるし、何より、最愛の主人が自分のことを嫌ってしまう事が耐えられない。
だって、あんまりじゃないか。もうロビンの中にはあの人しかいないというのに。
主人が、ロビンの背を向けて去っていく。
彼の足元には、先日手に入れたという新しい犬が付き従う。
主人と犬は楽しそうに笑いながら去っていく。
もはや、ロビンの声を嗄らした叫びにも一顧だにさえすることもない。
「ご主人様!!」
ロビンは、目を覚ました。
Robin.
その日の夢見は最悪だった。
いつものようにアクトーレスに叩き起こされるまでも無く飛び起きて、夢と現実を混同してわめき散らしてしまった。
その所為でアクトーレスに手酷く殴られてしまった(こちらは首輪がついているうえに犬の身分だ。抵抗しようがない)が、そんなことはどうでもいい。
今、ロビンの傍には主人がいる。
耳ざとい家令から騒ぎを知らされたのだろう。
厳しくも優しいロビンの主人は、彼の背をなでながら穏やかな口調で問うた。なぜ暴れたと。
「すみません、夢見が悪くて、起きたときに混乱してしまって」
気の置けない関係などというものはこの世にはなく、近づけば近づくほど、好きになるほどに明かせない秘密が増えていく。
それは、人生を捧げると誓った最愛の主であっても同じことだ。
ロビンの主は多くは尋ねなかった。
そうかと言うと、いつも通りに過ごし、仕事へと戻っていく。
その背を見ながら、ロビンは安堵するのだ。
いつまで自分と一緒にいてくれるのか。自分は今貴方の中でどのくらいの場所を占めているのか。自分を飼うのにいくらの金が必要なのか。あと何年、貴方は自分に価値を感じ、どれだけ老いれば自分の魅力はなくなるのか。いつまで、貴方は自分を大切だと思ってくれるのか。いつ捨てられるのか。
全ては自分が知ったところでどうしようもなく、また終わりは不可避であった。
ロビンは問いかけを胸にしまい、主人を不快にさせる質問をしなかった自分に安堵するのだ。
だからこそ、このゲームは重要だったというのに!
ロビンは、自分の失態を囚われの身で悔やんだ。
このプラチナ犬(何もプラチナで出来ているわけじゃない。自分と同じ血と肉で出来た犬で、ただ見目と話題性から自分に無い付加価値がついているだけだ)を手に入れるゲームのパートナーに自分が抜擢されたときは、天にも昇る気持ちだった。
無論、自分のほかに魅力的な犬を主人が手に入れるというのは複雑な気持ちであったし、ましてやその手伝いをするというのは忸怩たる思いであったが、選ばれた嬉しさは全てを上回った。
たった一人の従者にロビンを選ぶというのは、彼に対する好ましい感情の表れであり、また危険性を伴うこのゲームにあっては信頼の証であるといっても間違いはない。
ここで活躍すれば、主人はロビンのことを更に気にかけてくれるに違いない。
と、功を焦ったのが失敗だった。
普段と違う目線。異質な雰囲気の迷宮。いつもと違う、主人の服装や、危険な行動。
全てが、ロビンを不必要に高揚させていたらしい。
剣を手に入れる試練を終え、油断していたところを罠に囚われてしまった。
「シット!」
小さく舌打ちして、罠の中でもがく。
吊り上げられた先は、小さな部屋だった。
倉庫を思わせる、むき出しの鉄骨とコンクリート。照明は蛍光灯ですらなく、強い光を放つ大きなスタンドライトが立てられ、ロビンを強く無遠慮な光で照らしている。ふと、昔のスパイ映画を思い出した。あの時も、追い詰められた犯人に、警官隊のライトが強烈な光を投げかけていた。
目の眩んだロビンを、部屋に待機していたアクトーレスたちが犯人よろしく手荒に、だが慣れた手つきで縄から解放した。
抵抗は許されなかった。ファンタジックな鎧と冑を奪われ、いつものように裸一つにされて、金属の檻に放り込まれる。
アクトーレスたちはロビンを檻ごと薄暗い部屋に運搬し、その錠前に番号札をつけた。
ご主人様の健闘を祈ってろ。
その言葉と共に、アクトーレスたちは部屋から出て行った。
プライバシーを守るためか、ゲームといえどパトリキの犬には不用意な対応が出来ないのか、それとも他の理由があるのかは知らないが、ロビンの檻が運び込まれた部屋は静かだった。
ドアの隙間から漏れる光で部屋にあるのは自分の檻と、雑多な荷物(Taiwan bananaと焼印の押された木箱が積まれている。スタッフの食事だろうか?)だけだとわかる。
この遣り切れなさと憤りの入り混じった気分の時には、ありがたい。
浮かれてしまった軽率な自分と、注意力の足りない浅薄な自分と、主人を置いて一人リタイアしてしまった情けない自分への怒りが募り、ロビンは檻の中で膝を抱えた。
年甲斐もなく涙が出てくる。
「こんなおれじゃ、あの人だってすぐに愛想を尽かすさ」
自分への罵倒は、冷たい部屋で反射して、誰の耳に届くこともなくロビンの耳にだけ突き刺さった。
せめて、あの人に剣は届いただろうか。
あの剣が、自分の代わりに主人の身を守ってくれれば。
不甲斐なさを八つ当たりするように、ロビンは檻の扉を蹴飛ばした。
もちろん、そんなことで頑丈な錠前が外れるわけもない。
だが、代わりに扉の二つある金属の蝶番の一つが、鋭い音を立てて外れた。
ロビンの目は、間違いなく点になった。
扉の蝶番の一つがはずれ、もう一つの蝶番と錠前で固定された檻の扉は傾いた。
試しに扉を押してみると、そのまま傾いて、人がぎりぎり通れるくらいの隙間が開く。
ジーザス!
ロビンは、天を仰いだ。
この資金と技術と権力の溢れる超国家組織の設備がこんなに粗悪品だなんて! イタリア製だろうかと思わず確認してみるが、メーカー表記はなかった。
考えてみれば、ヴィラは現実の組織なのだ。
荘厳な石造りの迷宮の舞台裏が、こんなむき出しの設備であるように、この突貫工事のアトラクションも完全ではない。何度ものテストは行われただろうが、見逃された欠陥があってもおかしくはなかった。
出てみようか。
ふと思う。出たところで何が出来るわけでもない。
迷宮に乱入して主人のピンチを救えるわけでもないし、あの人の傍にいけるわけでもない。ふと脱走という言葉も頭に浮かんだが、最愛の主人から離れた不幸せな自分の姿しか思い浮かばなかった。
出てみよう。
外に出ることに、何一つメリットは感じなかった(それどころか、脱走として自分は罰せられるかもしれない)がロビンは扉と檻のスキマに体をくぐらせた。
いいじゃないか。これは、冒険のゲームだ! こんなもやもやした気分のまま、閉じこもっているなんて冗談じゃない。
あれこれと理由をつけて(つまりは、好奇心とか、大した理由なんてないということだ)檻を出て、そっと部屋の中を窺う。
部屋の中は、窓も照明もなかった。先ほどの部屋と同じ、大きなスタンドライト(使いまわしだろうか)はあるが、ヴィラのスタッフ見つかる危険を考えればつける気にはならない。
意味もなくバナナの箱を覗いてみる。中には、芳しいバナナが丁寧に梱包されていた。
しばらく、部屋の中をうろうろしていたが、すぐに飽きてしまった。
冒険というからには、未知の世界に旅立たなくては。
運がよければ、主人のためになる情報を拾えるかもしれない。
楽天的な性分からか、気楽に行動してしまう。これで迷宮の中では失敗したというのに。
なんとなく楽しい気分になってきた自分を、諌めるフリをして、ロビンは部屋の外を窺った。
外は、簡素な廊下だった。狭く暗く、急ごしらえという雰囲気ではあるが、不思議とパトリキにさえ似つかわしい雰囲気はある。スタッフ用の廊下にさえ気品があるとは、流石はヴィラ、といったところか。
檻は粗悪品だったけどな。
少し笑って、廊下を四足で進む。監視カメラはないようだったが、どこかに高性能小型カメラが仕込まれていてもロビンにはわからない。
いざとなればアクトーレスに放置されてしまった犬のフリをしようと心に決めて、先へ進む。ほとんどの扉は閉ざされていたが、一つ開いている扉を見つけ、中を窺った。
スタッフ用の控え室なのか、明るい室内には椅子と机、それからコーヒーメーカーと、なぜかフルーツ盛りやスパゲッティが山と積まれている。
中にいるのは、二人の人間だった。
一人はダークスーツ、一人は医者のようだ。
ダークスーツを見て、アクトーレスかと身構えたロビンだったが、わずかに開いたドアの隙間から窺う限り、知らない顔だった。もしかしたら、家令なのかもしれない。
ダークスーツの方が叫ぶ!
「邪魔しないでくださいよ! このクソ忙しいときに!」
いつもすましたヴィラのスタッフとは思えない、人間的な声でダークスーツが医者に叫ぶ。
「時代は海、大航海時代だ! 船内の密室空間! 漂流! 無人島! そしてたどり着く黄金の国ジパング!」
「あそこは金どころかボーキサイトだって満足な量は――ああ! 今あたしゃ忙しいんです! ご主人様方からチケットの矢の催促が」
ダークスーツの言葉も、医者は全く聞いていないらしい。自説を展開する。
「犬をオール漕ぎ奴隷に漕ぎ出すが、船は難破。無人島でエロ生物にさらわれる奴隷たち! 単身、犬を助け出しに行く主人の下に、神秘の、実験データ!」
「途中から趣旨が変わってます。エロ生物なんてどうやって用意するんです?」
「日本から連れてくる」
「いねーよ」
嘘だ! 日本政府は究極のエロ生物を隠匿している! ツチノコをだせ!
そうわめきたてる医者の顔を見て、ロビンは凍りついた。
彼は破天荒な言動と天才的な医療技術で恐れられる、病院の重鎮だった。
彼の元に送られる人間は、犬も主人もスタッフでさえ、あたかも宇宙人とコンタクトした被害者のように改造され、洗脳されてしまうらしい。
嘘か真かは解らないが、彼がこのヴィラの実力者だということだけは事実だ。
「落札した犬をちょっとこっちに回してよ。新薬のデータが足りなくて」
「犬一匹いくらすると思ってるんですか。諦めてください」
中から聞こえる、不穏な会話にロビンは身を縮ませた。
きっと彼らに見つかれば、主人の庇護無き今のロビンなど瞬く間に解剖されてしまうに違いない。
こっそりと、部屋から遠ざかる。
レストルーム、警備室A−4,倉庫A−1、A−2、A−3……
閉ざされている扉を数えながら廊下を進むと、突き当たりに扉が見えた。
他の扉とは違い、重厚なつくりでプレートと鏡が下がっている。かかっているプレートに書かれている文字はこうだ。ご主人様のサロン、身だしなみを整え、己の職務をわきまえよ。
檻に戻るか。
ここから先は、犬は入ってはいけない領域であるし、セキュリティもスタッフ用通路と違いしっかりしていることだろう。
今檻に戻れば、ばれないかもしれない。
だが気づいたときには、ロビンはサロンへの扉を開いていた。
自分では大胆なつもりだったが、萎縮した気持ちが出てしまったのか、何とかロビンが身を滑り込ませられる程しか開かなかった。
四つんばいで頭を入れて窺う。
中は広く開放的な空間だった。一角にはモニターが設置され、数人の人間(何人かは見たことがある。パトリキだ)がそのモニターの前で談笑している。皆モニターに注目し、目立たぬ場所に作られたスタッフルームの扉になど注目している者はいない。
ロビンは即座に監視カメラを確認し(この部屋になら必ずあるはずだが、見つからなかった)、次に身を隠せる場所を探し、駆けた。
部屋の隅の、大きな窓のカーテンの陰に体を忍び込ませる。
仕方がないじゃないか。ロビンは釈明した。
まだ、ご主人様に有利な情報も、何も手に入れてない。このままじゃ、本当に役立たずだ。
カーテンの陰は狭く、ロビンはその小さくは無い体を縮こまらせる必要があった。
背中を痛めそうだなんて思いながら、モニターのほうを窺う。
モニターに夢中の人間たちは、隠れたロビンに気づく様子もない。
モニターの中に映っているのは、見慣れた人影だった。
ご主人様!
ロビンは、危うく忍ぶ身の上を忘れて叫ぶところだった。モニターの中に映っているのは、中世の鎧に身を包んだ最愛のC3POだ。
ミノタウロスを打ち倒すべき勇者は、泥に汚れながらもその輝きを失っていなかった。いささか疲れた風貌こそあるものの、テセウスの剣を帯びたその姿はロビンの胸を誇らしさで焦がした。
時折画面の切り替わるモニターは、迷宮のプレイヤーをリアルタイムで映しているのだろう。
迷宮の中を進む主人は、見知らぬ男と連れ立っていた。
穏やかな風貌の彼は全裸で、犬なのだとわかる。背は高く、胸は厚い。
主人は城門まで進むと、やおら警備兵たちの中に突撃した。
サロンにいた人間たちが、歓声を上げる。ロビンは悲鳴を上げそうだった。
主人の無事を確認できたことだけは喜ばしかったが、その後は、全てが悲観に満ちていた。
ロビンに変わり、主人守る従者は強くしなやかだ。
兵士たちを打ち倒し、瞬く間に主人を王宮へと誘う。
彼らは寝室に隠れ、主人が従者をベッドに突き飛ばしたところで画面が切り替わった。
観客たちが無粋な配慮に不満の声をあげる中、アクトーレスたちがサロンになだれ込み、ロビンを乱暴に引っ立て拘束し、王の間へと文字通り引きずって行った。
木馬責めのロビンを餌とした罠に主人が落ちた時は、革棒が無ければ舌を噛み切ることさえしたかもしれない。
落とし穴を見つめ絶望したロビンに、ミノタウロスは苦笑していたが主人は戻ってきた。
そして、ロビンに代わるパートナーと共に戦い、ついには迷宮の王を打ち倒すに至った。
盾持ちとなった男が、主人に歓声を上げて抱きついている。
このゲーム中だけの従者である彼がそれをするのは、馴れ馴れしいとも思ったが、彼にはそれだけの功績がある。
勇者を導き、勝利に貢献した。寝室での映像を見た限り、主人も彼が大いに気に入ったのだろう。
情けなくも捕まった自分とは大違いだ。
ロビンは、このまま消え去りたいとさえ思った。
主人が、木馬からロビンを優しく下ろしてくれる。
「すみません、すみません」
その首に抱きついたまま、ロビンは謝り続けた。
主人の期待に答えられず、迷惑をかけた。
どうか見限らないで下さいと、ロビンは泣き続けた。
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