Keith.
今の主は寛容で紳士的な人物だ。
躾は厳しいが、優しさを使い分ける器量がある。勇敢でありながら柔軟で、見目がよくて人間性に深みがある。
もちろん、このヴィラで貴族階級を名乗るだけの人物だ。彼に連れられサロンを歩けば、多くの人が振り返る。
ただどんな人物であれ、不和の火種を抱えない者はいない。
主人の抱える火種は嫉妬だと、キースは思っていた。
つまりは、ロビンと自分は上手くいっていない。
ロビンというのは、主人の犬で、まだヴィラに来てから日の浅い犬だ。
ダークブロンドと薄緑の瞳の彼は、遠くからでもすぐにわかる。
昼に二時間だけ、自分のセルから出られる時間がある。
体を動かすことが性に合っている自分は、よく中庭に行く。そして、彼もそうらしい。
鉢合わせては、気まずい思いをする。
気づくのはいつも自分が先だ。
というのは、彼の目立つ外見を考慮してもおかしいので、彼が先に気づいたときは無視されているのだろう。
ロビンの愛は、ひたすらに主人へと向いていた。
ありきたりな言い方ではあるが、彼の地球は主人を中心に回っている。その理論はコペルニクスよりも確かで、金星のように熱烈だ。
そんな彼だから、主人に抱きついた自分を許しはしないのだろう。
中庭でスポーツに興じ、他の犬と談笑しているロビンに話しかけるのは、とても勇気がいる。
なんて話しかけようか、発音は間違っていないか。
数分、躊躇した上で、ようやく踏ん切りがついて彼に声をかける。
「や、やあ」
なるべく無難な言葉から切り出す。
「調子はどう?」
挨拶としてはこれ以上なく無難な言葉であったし、合衆国出身の彼が自分の英語を理解できないはずも無かったが、彼は無愛想に一睨みすると、そっぽを向いて去ってしまった。
その後姿を見ながら、いつもキースは叫びたい衝動に駆られる。
あんたはどんな会話をお望みなんだ! 天気でも駄目、調子でも駄目、昨日食べたミートパイの話でもすればお気に召すのか! それとも、迷宮でご主人様に抱きついたことを、涙ながらに謝罪すれば、俺のことを視界に入れてくれるのか!
嫉妬深くも盲目的な彼に、苛立ちが募る。
それでも、見かけたら話しかけずにはいられない。
それどころか、中庭に出ると彼の姿をいつも探してしまうのだ。
それから何度か無視されて、キースは限界に達した。
調子の話どころではない。すでにロビンは、自分を視界に入れることさえ拒んでいる。
気づくと、キースはロビンに殴りかかっていた。
「いい加減にしろ!」
叫びながら、ロビンの薄い頬に拳を叩き込む。
「何をするんだ!」
一瞬唖然としたロビンが、初めてキースを見て怒鳴り返してきた。初めてだ、自分はこんなにもロビンを見てきたのに、ロビンは殴りかかってようやく、嫌悪に満ちた目で自分を見るだけだ。
らしくも無い。感情的になっている。周りの犬たちや、アクトーレスたちが見ている。処分されるかもしれない。
そうは思っても、いったん爆ぜた自制心は容易に再形成されない。
「俺が何回あんたに話しかけたと思っているんだ! 俺が無視されて、何にも感じていないとでも思っているのか! あんたは俺が軽薄で、淫乱で、ご主人様にケツを振る浅ましい犬だと思っているんだろうが、俺はあんたに無視されるたびに傷ついているんだ!」
最後のほうは、アクトーレスたちに取り押さえられながら叫んだ。随分と暴れた気もする。
だが、ロビンが自分を唖然として見ていることだけは心地よかった。
そうだ。
ようやく、俺をそのグリーンの中に入れてくれた。
アクトーレスからこっぴどく叱られ、折檻にあい、当分自分のセルでも謹慎を言い渡された。主人の意向を確認して、処分を決定するらしい。
馬鹿なことをしたとは、不思議と思わなかった。
嫉妬深いロビンに睨まれながら、それでも片思いを続けているのは自分が思っていたより辛かったらしい。
今は、告白が玉砕した時のような、清々しささえ感じる。
本当にもう、あの時のロビンと言ったら。
深夜、キースはベッドで一人寝転がりながら笑ってしまった。
どうしてあんな、美しい犬が自分などに嫉妬するのかがわからない。
ロビンは、息が詰まるほどに魅力的な犬だった。実際、自分はゲームの前から知っていたし、前の主人などは彼を入札できなかったことで家令に相当当り散らしたらしい。
今の主人に飼われていなければ、間違いなくプラチナ犬になっていただろう。
凛々しくも愛らしい顔立ち、均整の取れた身体、吸い込まれそうな緑。
主人だって、ロビンのことを本当に気に入っている。
あれはいじらしく、賢い犬だと、酔った彼は盛んにベッドで褒め称えていた。それから、自分に気づいて慌てて弁解するのだ。お前のことを愛しているよと。
少しだけやるせない気持ちになったが、それはロビンの幸せに結びつくことだ。
自分は、幸せな彼を想像しながらベッドの中で主人と過ごしていたと言うのに。
それは、とても幸福な時間だったというのに。
眠くなってきた。まぶたが重い。
うとうととした走り回る記憶の中でキースは最初の主人を思い出していた。
その時、キースは少年といっていい程に若く、身の程を知らない仔犬だった。
反抗し、主人の不興を買った。
それから、連れて行かれた先はパンテオンだった。
神像のように並ぶトルソー達。
静謐な空気と、神殿の見事な装飾。窓から入る外の光は優しく、両手両足をついて歩く自分からは青空さえ見える。
腕と脚の無い犬達を見ながら、怒り猛る主人は言う。
「お前は、腕と脚、どちらから切り落とされたい、キース」
「キース」
悲鳴とともに、キースは飛び起きた。
「ごめんなさい! やめて、やめて下さい! 許して!」
叫び、喚き、それからまぶたを開ける。
ここは、あの忌まわしい神殿ではない。
「キース!?」
暗いセルの中。誰かが叫んでいる。
キースは、声のほうに目を向けた。
ロビンだ。後ろには主人も立っている。ああ、そうだ、今の主人はあの方だ。あの方は、あの方なら、心配ない。俺の手足を切り落としたりはしない。
心臓がガンガンと鳴って、流れ落ちる汗が気持ち悪い。
ロビンが駆け寄ってくる。大丈夫かと聞かれて、大丈夫と一言だけ返した。
ロビンと主人が来たので、てっきり情事の相手だと思った。
複数でするのは好きではない。
他人に見られることも。ましてや、ロビンとだなんて!
顔を赤くしたキースだったが、どういった訳か、主人は何もしなかった。
無言のまま、部屋を出て行く。
扉が閉まると、暗いセルにキースとロビンだけが残された。
静まり返る室内。
何だこれは。自分には何が求められているのか。
謝罪すればいいのか、それとも主人が戻ってくるまでに前戯を済ませておけというのか、それともこの場で俺がロビンを押し倒していいのか。
混乱する頭で、何も言えずにいるとロビンのほうから切り出してきた。
「何の夢を見てたんだ」
「夢、ああえっと」
声が上ずる。それは先ほどの夢のショックと、今ロビンとベッドに二人きりで座っているこの状況のためだ。
「最初の、主人のことだよ」
ロビンがうつむく。
それだけで、キースは慌ててしまう。何か、自分は間違ったことを言っただろうか。
「最初の主人に、捨てられたとき、どう思った」
考えるよりも先に、答えは口から飛び出していた。
「ほっとした。俺を、トルソーにしようとした人だったから」
ロビンは息を呑んで押し黙った。
話す言葉がなくなってしまって、キースは話題を探す。
さっき殴ってしまったこと。傷はつかなかったか。調子は悪くないか。天気の話。かなり前に食べたミートパイ。怪我したら病院へ。病院。外科部長。あれは恐ろしかった。
「おれは怖い」
ロビンが、うつむいたまま呟く。
そのまま、膝を抱えてしまった。
「怖いんだ。ご主人様に捨てられるのが」
何か失敗をして、愛想を尽かされるんじゃないか。年をとって見限られるんじゃないか。他の誰かに夢中になったご主人様に、忘れられるんじゃないか。そんなことばっかり頭に浮かぶんだ。
吐露する彼の横顔は、暗くてよく見えない。
ああ、そうか。
キースは納得がいった。
嫉妬と呼ぶには切実過ぎる、犬ならば誰でも直面する問題だった。
悩む彼にアドバイスを与えたいと、茹った脳みそをひっくり返したが、必要なものは何も出てこない。どうしようもない。
ロビンの容姿なら捨てられてもすぐに次の買い手がつくだろうが、そんな事は彼にとってどれほども重要ではない。今のただ一人に捨てられる恐怖から、逃れられないでいる。
茹った脳みそをかき集める。
諦め、自分も目を背けていた問題に向かい合い、真摯に解法を探す。
そして、キースは沈黙を破ることにした。
「保証は出来ないが、それはロビンが」
そこまで言って、キースは今初めてロビンの名を口にしたことに気づいた。途端に、気恥ずかしくなる。
「君が、どれだけご主人様のことを信頼できるかの問題だろう」
それじゃあ、ロビンがご主人様を全く信頼していないみたいじゃないか。と、自分のすっかり加熱調理されてしまった脳が言ってくる。全くその通りなので、慌てて言い直した。
「いや、その、ああ、それは、別に君がご主人様に忠義がないかとか、そういう話じゃなくて」
小心者だという自覚はあるが、こんなに酷いとは思わなかった。
だが、ロビンは途切れ途切れになるキースの言葉を、笑いはしなかった。暗闇の中、真剣な目でこちらを見つめ、言葉を待っている。
つまりはこういうことだ。
「……確かめて来ればいい。ご主人様は君のことが凄く気に入っているし、ずっと飼いたいと思うかもしれない、それに君は自分が思っているよりずっと」
なんてこった。ティーンじゃあるまいし、こんな言葉を吐く羽目になるとは。
キースは、難儀な恋をした自分を呪いながら、最後の言葉を搾り出した。
「ずっと魅力的で、愛されている」
「それは……ありがとう」
「ああ……気休めにでもなったら何よりだよ。ところで、抱きついてもいいかい」
「その……ロビン、えっと、肩だけでいいから」
Alfonso.
忠告通りに、ロビンをキースの部屋に連れて行った主人が帰ってきたので、アルフォンソはキスとハグでもって迎えた。
お帰りなさい。
ふふ、今日は駄目ですよ。ご主人様は、これからロビンのところに行ってやらなきゃいけない。
そしてこう言うんです。愛しているよロビン、これからもずっとだ。たとえお前が病んでも、健やかでも、雨の日も、風の日も、老いたるときも、もうろくして、おしめの世話が必要になっても、ってね。
そのくらいじゃなきゃ、キースにかっさらわれてしまいますよ。
ほら、そろそろ行って、可愛いあの子を口説いていらっしゃいな。
ああ、でもやっぱり待って。
ベッドでゆっくりしていきませんか?
なに、明日だってロビンは逃げやしませんし、たまにはキースに花を持たせてやりましょうよ。
そして主人の首に手を回し、背中からベッドにダイブする。
おまけ・家令と医者の愉快な日常 〜そのころの二人編〜
「外科部長―――!!」
「あれ、フミウス君。こんな夜中に訪ねてきて何かあった?」
「ここはあたしの部屋です。じゃなくて! 家令への差し入れに一服盛ったでしょう!」
「バレタカ。でもフミウス君が動けるようじゃ失敗だなぁ、せっかく副作用の少ない経口神経麻酔薬ができたと思ったのに」
「あたしは食べなかったんです! 部長からだと知ってれば食器ごと焼却処理したのに!」
「っち、運のいい」
「どーするんですか、家令が全滅したらヴィラの機能が麻痺しますよ!」
「まま、落ち着いて、これでも飲んで」
「やですよ、そんな怪しいもん。シンクはそっちですよ」
「大丈夫。こっちは揮発性だから。飲まなくてもすぐに効果が」
「換気扇、換気扇! 換気扇を回せ!」
HAPPY END!!(一部やけくそのように)
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