逆襲のティム  H・T様作品




逆襲のティム



                  1

 イアンがハステーティを敵に回してヴィラからの脱出を図ろうとしている──

 その知らせを聞いて、レイモンドは信じられない、という風に目を見開き、言葉を失った。傍にいたラインハルトも、そんな馬鹿な、と言いたげに顔をこわばらせている。
 だが、彼らにその知らせをもたらしたティムは、そんなふたりの反応に全く気づかず、まるで鬼の首を取ったかのように、得意げにまくし立てた。
「ホント、バカな奴ですよねえ。どんなに頑張ったって、このヴィラから逃げられるわけがないのにさ。犬なら犬らしく、おとなしくしていればいいものを、よりによって主人を殺して逃げようなんて、バカとしか言いようがないって言うか。あんな奴、さっさと捕まって、トルソーにされてしまえばいいんだ。犬のくせにいつまでもアクトーレスのつもりで、俺のことをバカにしやがって。ねえ、レイモンド。あいつの手足を切るときは、是非俺も同席させてくださいよ。あいつが手足を切り落とされて、無様に泣き叫ぶところを見てみたいし」
「黙れ、ティム」
 得意満面で唾を飛ばしているティムを、レイモンドは険しい声で遮った。
「イアンがヴィラから逃げようとしてるだって? そんな馬鹿なことある筈ないだろう」
 レイモンドの言葉に、ティムは明らかに馬鹿にしたように鼻で笑った。
「何言ってんですか、レイモンド。あいつは前にも一度逃げようとしたじゃないですか。それで足に金串でピアスを打たれたの、あんただって知ってるでしょう。あいつは学習能力のないバカ犬ですよ。逃げられっこないのはわかりきってるのに、あのバカ犬ときたら性懲りもなく」
「黙れと言ってるだろう」
 再び言葉を遮られて、ティムは鼻白んだように口をつぐんだ。不満そうに口を尖らせるティムに、レイモンドは言った。
「あの時とは状況が違うんだ。お前は知らないだろうが、ヴィラの上層部はあいつをアクトーレスに復帰させる方向で動いてる。そのことはイアンだって知ってるんだぞ。あいつが逃げなきゃならない理由は何処にもないんだ」
「そんな馬鹿な、あいつは犬殺しですよ!? 一度犬にされた奴が、アクトーレスに復帰するなんてありえない」
「それはあいつを陥れられるためにでっちあげられた冤罪だ」
「嘘だ!」
「嘘じゃない。イアンは無実だった。──そのことは俺が一番よくわかってる」
 苦々しげにレイモンドは吐き捨てた。他でもない、彼自身がイアンを陥れたでっちあげの提案者だった。パテル・ファミリアレスの知り合いだというピアソンの嘘を鵜呑みにして、有能な部下を犬に仕立てる片棒を担いだ。
 ティムはまだ納得がいかないと言わんばかりに身を乗り出した。
「でも、もしそれが本当だとしても、どっちにしろあいつはもうおしまいですよ! あいつが主人殺しの犬と一緒になって、発信機まで捨ててハスターティと派手にやりあってるのは事実なんだから。ここまで真っ向からヴィラにたてついた以上、ただで済むわけが──」
「今何て言った?」
 ティムの言葉を聞きとがめて、レイモンドは再びティムの言葉を遮った。
「え、だから、真っ向からヴィラにたてついた以上、ただで済むわけがないって」
「その前だ! 主人殺しの犬と一緒になって、と言わなかったか」
「言いましたけど」
「つまり、イアンがピアソンを殺したわけじゃないんだな?」
「ええ、まあ……たしか、レオポルドとか言う元マフィアのイタリア人ですよ、手を下したのは。でも、そんなことはもうどうでもいいじゃないですか。そいつと共謀してヴィラから逃げようとしてる以上、あいつも同罪でしょ。よくてトルソーにされるか、そうでなきゃ銃殺されるのが関の山ですよ。はっ、ざまあみろってんだ」
 もはやレイモンドはティムの言葉を聞いてはいなかった。勢いよく立ち上がって、入り口のドアに手をかける。
「レイモンド!」
 それまで黙っていたラインハルトが、出て行こうとするレイモンドの背に声をかけた。
「どうするんです? もしティムの言うとおりなら、イアンを助けることはもう──」
「まだわからんさ」
 レイモンドはドアを押し開けながら言った。
「ヴィラはイアンを復帰させる方向で動いてた。そうしなければ事態を収拾できないから──そういう話になっていたのは確かだ」
「でも、こうなった以上、ヴィラはその考えを翻すんじゃないですか」
「そうかも知れん。ったく、イアンの馬鹿め。あと数日、いや、あと一日でいいからおとなしくしていれば、晴れてアクトーレスに復帰できていたのに。よりによってラッセルと同じ轍を踏むなんて」
「それで……イアンはどうなりますか」
「わからん。──とにかく、もう一度上に掛け合ってくる。今ここでイアンを処刑したら、アクトーレスたちの動揺は収まらないのは上の連中だって承知してるはずだ。そこに賭けるしかないな」



 イアンが捕まった、と連絡が入ったのはそれからしばらくたってからだった。
 彼は再び地下牢に入れられた。恐らく数日のうちに彼は処分されるだろう。
 主人を殺した犬を逃がそうとし、ハスターティを相手に戦争まがいの大立ち回りを演じた挙句、犬は殺され、彼は囚われた。殺された犬以外は、死者こそ出なかったとは言え、彼がヴィラに与えた損害は小さくない。彼はその罪を問われ、銃殺される。さもなくばトルソーとなって万神殿に飾られる。誰もがそう信じて疑わず、そしてその運命を思って恐れ慄いた。
 そもそも彼が犬に落とされる原因となった犬殺しの罪──あれは冤罪だったのではないかと言う噂は、既にあちこちで囁かれていた。彼のあの姿は、明日の我が身ではないのか。そんな思いがアクトーレスたちの間に暗い影を落としていた。
 ラインハルトは暗澹たる思いを抱えながら、イアンに面会を求めた。追い返されることを覚悟してのことだったが、意外にもその願いは叶えられ、ラインハルトはイアンに会うことを許された。
 イアンはベッドに長々と横たわっていた。起き上がる気もないのか、彼は悠然と寝そべったまま、顔だけをこちらに向けた。
 死を目前にした男は、その運命を悲観するでもなく、ひどく静かな目をしていた。そのことが、ラインハルトを大いに戸惑わせた。
「──どうして」
 ラインハルトは尋ねた。尋ねずにはいられなかった。
「どうして、こんな……馬鹿なことを。もう少しだったのに。もう少しで、あんたはアクトーレスに復帰できる筈だったのに。それをどうしてこんな形でふいにしたんだ、どうして」
 イアンはそれには答えず、ただ微笑った。
 まるで満ち足りたかのようなその顔に、ラインハルトは更に困惑した。何故、この男はこんなにも落ち着いているのだろう。もうすぐ殺されてしまうと言うのに、どうしてこんなにも清々しい顔をしているのか。
 恋人も、自由も、人間としての尊厳も、何もかも失った男。一度はそれを取り戻しかけたと言うのに、後一歩のところで全てを無駄にした愚かな男。後悔と絶望に打ちひしがれていてもおかしくない、否、むしろそうでなければおかしい筈なのに──。
「イアン。俺にはわからない。どうしてあの犬を逃がそうとしたんだ。客を殺したののはあのイタリア人であって、あんたじゃなかったんだろう」
「……あぁ」
「犬を逃がそうとしたらどうなるか、あんたはわかっていた筈だ。ラッセルと言う前例があったんだから。それなのに──」
 ヴィラに対する敵対行為は極刑をもって裁かれる。そのことを誰よりも身に沁みて知っていた筈なのに。
 イアンは再び微笑した。
「ラインハルト、俺は後悔はしていないよ。確かに俺がしたことは馬鹿なことだっただろう。客を殺した犬を逃がそうとするなんて馬鹿げてる。自殺行為もいいところだ。でも──」
 イアンは言葉を切り、天井を見上げた。
「俺は、俺の心に従って行動した。それだけだ。ヴィラにとってはともかく、俺にとってはあれが最善の道だった。結局俺は失敗したけれど、後悔はしていないよ。むしろ、満足してさえいるんだ」
「……」
「恐らく俺は殺されるだろうな。でも、不思議と怖くはないんだ。多分ラッセルも……同じ思いだったと思う」
 イアンは再び視線をラインハルトに向けた。
「わからないって顔だな。いいさ、わからなくても。俺も、自分がこうなってみるまで、ラッセルの気持ちはわからなかった。でも──今ならわかるような気がする。
 さあ、もう行けよ。俺は残りの時間をゆっくり寛いでいるんだ。邪魔はして欲しくないな」
「……イアン」
「ああ、そうだ。レイモンドに謝っておいてくれよ。俺を復帰させる為に色々骨を折ってもらったのに、結局無駄にしちまったからな」
 ラインハルトはそれ以上何も言うべき言葉を見つけられず、ただ頷くことしか出来なかった。
 これがきっと今生の別れになるだろう。
 ラインハルトは来た時と同じく、暗澹たる思いを抱えたまま、地下牢を後にした。



 だが、イアンは処刑されなかった。あれだけの損害をヴィラに与えたにも関わらず、トルソーにされることもなく、それどころか、アクトーレスとして復帰することが正式に伝えられた。
 プラエトルが公表したところによると、イアンの起こした騒ぎは、レオポルド・フェッロに人質にとられて強制された為であり、彼の本意ではなかった。彼は抵抗し、最後には逃亡犬を殺し、ヴィラの秩序を取り戻した。その功により、彼を犬の身分から解放し、アクトーレスとして復帰することを特例として認める──と言うことだった。
 晴れて自由の身になって戻ってきた彼は、それを喜んでいるようには見えなかった。むしろ死にそこなったことを残念がっているようにさえ見えた。
 彼が復帰したことで、不安がっていたアクトーレスたちは落ち着きを取り戻したが、もはやそんなことは彼にとっては何の意味もないことだっただろう。復帰後まもなくして、彼はデクリオンに昇格したが、それさえも彼に何の感銘も与えなかった。
 彼は人としての地位を取り戻しはしたが、それよりももっと大切なものを失ってしまった。
 傍目には普通に見える。だがどこか空虚なものが、彼の中を占拠しているのは明らかだった。
 イアンは何も言わない。何も言わず、ただ与えられた業務をこなした。
 それから一年程が過ぎた頃。
 心の一部が抜け落ちたかのように空虚に過ごしていたイアンが、突然休暇を取った。
 それまで休むことを忘れたかのように日々の業務に勤しんでいた彼は、悲鳴をあげる秘書を無視して強引にスケジュールを調整し、一週間の休みを取って何処かに出かけて行った。行き先は誰も知らなかったが、恋人の墓参りに行ったんじゃないか、と人々は囁きあった。
 そんな彼を、侮蔑と憎悪の入り混じった眼差しで見つめている者がいた。
 ──ティムである。






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