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一週間の休暇を終えて、自分のアパートに戻ってきたイアンは、入り口を塞ぐ形で玄関のドアにもたれかかっている人物の姿を視界に捉えて、あからさまに顔をしかめた。
「休暇は楽しかったか? デクリオンどの」
厭味ったらしく声をかけてくるのを無視して、イアンはティムを押しのけようとした。だがティムはドアに張り付くようにしてその場に陣取り、イアンが部屋に入ろうとするのを阻んだ。
イアンは密かに嘆息すると、剣呑な視線を相手に向けた。この鬱陶しい男には出来ればもう二度と関わりたくなかったのだが、相手が絡む気満々なのではどうしようもない。
「邪魔だ。どいてくれないか」
出来るだけ抑えた声でイアンは言ったが、それでどくようなティムではなかった。勿論、イアンも相手が素直にどくとは端から思ってはいなかったが。
「ずいぶんとつれないことを言うじゃないか、ええ? イアン」
ティムはにやにやと笑いながら、イアンの顎を掴んだ。イアンはあえて抵抗せず、ティムの好きにさせてやった。それに気を良くしたのか、ティムはますますにやつき、図に乗ってきた。
「一度は犬に落とされたくせに、デクリオンになって随分といい気になってるみたいだな。ご主人様に対する口の利き方も忘れたのか」
お前は俺の主人じゃないだろう、とはイアンは言わなかった。どうせこの男は、自分の聞きたい言葉しか耳に入れないのだから、無駄に口を利くのも面倒だった。だが、この男をどうにかして追っ払わないことには、部屋に入ることも出来ない。
さて、どうしてくれようか、とイアンが密かに思案していると、おもむろに顎を引き寄せられ、ティムの唇がイアンのそれに重なった。
(この野郎……)
イアンは怒るよりもむしろ呆れた。どうやらこの男は、未だにイアンを自分の犬だと勘違いしているらしい。イアンのレイプに失敗して以来、別のデクリアに転属になり、仔犬の調教からは外されて、アクトーレスとは名ばかりの雑用係になっていると聞いていたのだが、どうやら自分の立場と言うものをいまいちわかっていないのではなかろうか。
イアンが抵抗しないのをいいことに、ティムはますます調子づいた。強引にイアンの唇を割り開き、舌を捩じ込んでくる。イアンは内心で吐息をつき、ぎらりと双眸を輝かせると、瞬時に反撃に転じた。
くぐもった呻き声を上げて、ティムはイアンを突き飛ばすように飛び離れた。
「何しやがる!」
危うく舌を噛み千切られかけて、ティムは逆上した。よもや反撃されるとは思っていなかったらしく、怒りに顔を真っ赤にして、毛を逆立てている。
ぺっとイアンは血の混じった唾を吐き捨てた。おもむろに口許を拭うと、これ以上にないほど剣呑な目で相手を睨み据えて言った。
「何しやがる、だって? それはこっちの台詞だ」
自分はもはや犬ではない。アクトーレスと犬の関係だったあの時とは状況が違うと言うことを、この愚かな男は全くわかっていないらしい。ちょっと脅しをかければ、言うなりになる筈だと思い込んでいる単純な男。犬にされていたあの時、ティムに対して全く抵抗出来なかったのは、自分が最低ランクの犬であり、この男が腐ってもアクトーレスだった、ただそれだけのことだったと言うのに。
「俺はもう犬じゃないし、お前は俺の恋人でもなければ主人でもないんだ。お前にいいようにされるいわれはないな」
「イアン、てめえ、誰に向かってそんな口を利いてるんだ! デクリオンになったからって偉そうに……」
「それもこっちの台詞だな。いいか、ティム。俺はいかにもデクリオンだ。そしてお前は何だ? デクリオンでもなければオプティオでもない、仔犬の調教もさせてもらえない使いっ走りの下っ端じゃないか。そのお前が、おこがましくもこの俺に──自分よりも格上の相手に対して不埒な真似をして、ただで済むとでも思ってるのか?」
「何を偉そうに! 大体何でお前がデクリオンなんだ。おかしいじゃないか!」
「それに関しては俺も同意見だが」
イアンは肩をすくめた。
「だが、ヴィラの意志だ。逆らうわけには行かないだろう」
「散々逆らってヴィラに損害を与えておいて何を! お前なんか、トルソーにされて万神殿のオブジェになってる方がよっぽど似合いだ! 犬のくせに、誰にでも腰を振る淫売のくせに! お前なんかがデクリオンだなんて言ってでかい面してるのを見ると、吐き気がするんだよっ!」
「だったらわざわざ見に来なければいいだろう。お前と俺はもう別のデクリアなんだから、見たくなければ見なければいい。それをわざわざ見に来ておいて、吐き気がすると言われても困るんだ」
「黙れ、黙れ! 俺に口答えするな、犬のくせに! お前は俺のペットなんだ! 俺はお前のご主人様だぞ!」
(だめだ、こりゃ……)
イアンは再び嘆息した。正にお手上げである。
昔から話の通じない男だとは思っていたが、前より酷くなっているような気がする。話し合いでお帰り願えないとなれば、実力で黙らせるしかないが、どうしたものか。
イアンとティムは、体格だけなら両者の間にさほどの差はない。だが、ティムが一般的なアクトーレスの訓練しか受けていない落ちこぼれなのに対し、イアンはハスターティとしての訓練も受けているれっきとした兵士だ。そしてイアンの足にはもうあの忌々しい金串はない。その気になればティムのひとりやふたり、軽く捻って終わりに出来る。犬だった時にそれをしなかったのは、ひとえに両者の立場の違いゆえだったのだが、そんなことはティムには理解出来ないだろう。
密かにイアンは戦闘態勢に入った。だがティムはそれさえも気付かず、イアンに向かって腕を伸ばしてきた。
「わかってるんだぞ、お前、寂しいんだろう。誰でもいいから突っ込んで欲しいんだろう。だから俺が来てやったんだ。慰めてやるって言ってるんだよ。ありがたいだろ。ありがとうございます、ご主人様って言えよ。ご主人様のペニスが欲しいですって言えよ。望みどおりにしてやるからさ」
こいつは正真正銘のど阿呆だ。とイアンは内心で決め付けた。何を言っても通じないなら、もはや口を利くだけ無駄と言うものだ。言葉の通じない宇宙人と話しているのと同じだ。
ティムはイアンの肩を掴んで引き寄せた。下肢に片手を伸ばしながら、イアンの耳に唇を寄せてくる。
「お前、恋人の墓参りに行って来たんだって? 馬鹿だな。死人は抱いちゃくれないんだぜ。お前を満足させてやれるのは生身の人間、つまりこの俺だ。ご主人様だ。そうだろう、イアン」
イアンが休暇を取って旅行に行ったのは、墓参りの為だと思い込むのはティムの勝手だ。実際は、生きて再会したレオポルドとタスマニアでよろしくやってきたのだが、そんなことをわざわざ教えてやるのも馬鹿馬鹿しい。
潮時だな、とイアンは思った。こいつの戯言に付き合うのもいい加減うんざりだった。
「久しぶりにたっぷり可愛がってやるよ。うれしいだろう、イアン──ぎゃっ!?」
悦に入っていたティムの声が、けったいな悲鳴に変わった。下肢に伸ばされていた手をイアンが掴み、それを力任せに捩じり上げたからだった。
そのままティムの身体を反転させ、叩きつけるように壁に押し付ける。ありえない方向に腕を捻られて、ティムがくぐもった悲鳴を上げた。ティムの腕の骨が軋む音がする。このまま力を入れ続ければ、確実にこの男の腕は折れるだろう。
ティムはこの状況が信じられないのか、零れ落ちそうなほど目を見開いて、肩越しにイアンを見つめた。その顔が苦痛と憎悪にに歪んでいる。
イアンは冷ややかにその目を見返した。
「いい加減にしてもらいたいな」
「イ、アン……っ! お前、こ、こんなことして……」
「ただで済むと思うな、とでも? 何度も言うが、それはこっちの台詞だ。俺はデクリオンで、おまえは平以下。どちらの立場が上なのか、それすらも理解出来ないんなら、お前は犬以下のろくでなしだ。目上の人間に対する口の利き方や接し方ってものを、一度犬に教えてもらうんだな」
そう言いながら、イアンはティムの股間に手を伸ばした。その中心にあるものを無造作に掴み、握りつぶす勢いで力を込めた。
聞くに堪えない絶叫がティムの唇から迸ったが、イアンは構わなかった。力を緩めずに締め上げながら、悶絶しているティムの耳元に唇を寄せた。
「二度と俺の前に姿を現さないと誓うなら離してやる。だが、いいか、今度もしまた俺の前にその面を見せてみろ。お前のこれを役立たずにしてやるからな」
凄みのきいた低い声で、本物の殺気さえ滲ませながら、イアンは更に力を込めた。こういう手合いは、口で言うより、身体に直接教えてやった方が手っ取り早い。仔犬の調教と同じだ。下手に歯向かえば痛い目に遭うということを徹底的に叩き込んでやればいい。
「ティム。返答は? 二度と俺には関わらないと誓うか、否か?」
しかしティムは答えない。見れば、腕と股間のあまりの激痛に声も出ないらしい。仕方がないので、少しばかり力を緩めてやると、ティムは憎々しげに吐き捨てた。
「この……クソ犬……がっ!」
「よくわかった。役立たずにされたいと。そう言うことだな」
そう言って、イアンは再び力を込めた。再びティムがくぐもった悲鳴を上げてもがく。だが、容赦するつもりはなかった。この男は、こちらが少しでも甘い顔を見せればすぐにつけあがるのだ。二度と妙な気を起こさないように、徹底的に叩き潰しておく必要があった。
「──そこまで」
不意に背後からかかった声に、イアンは振り返った。ウエリテス兵だ。騒ぎを聞きつけて、同じアパートの住人の誰かが通報したと見える。
「それ以上やると、傷害罪でしょっぴくことになりますよ、デクリオンどの」
イアンは鼻白んだ。
「こいつの方が先に絡んできたんだ。正当防衛だよ」
「気持ちはわかりますがね、玉を潰すのはさすがに過剰防衛ですよ。さあ、後は我々が処理しますから、そいつをこちらに引き渡してもらえませんかね」
イアンはちらりとティムを見遣った。ティムは激痛の為にぴくぴく痙攣し、気絶寸前になっている。
「……まあ、いいだろう。ついでにこいつの上にいるデクリオンに言っておいてくれないか。二度とこいつが俺の前に現れないようにきっちり監督してくれってな。今度また同じことがあったら、俺は今度こそこいつを再起不能にするからな」
「わかりました、そのように伝えておきますよ」
ウエリテス兵は苦笑して請け負った。激痛から立ち直れずにいるティムを乱暴に引き起こし、引きずるようにしてその場から引き立てていった。
イアンはひとつ吐息をつくと、玄関の鍵を取り出した。
それ以来、ティムはぱったり姿を見せなくなった。イアンの脅しが効いたのか、あるいは彼の上司がこちらの要望どおりにきっちり監督してくれているのかはわからないが、あの鬱陶しい男に関わらずにいられるのはめでたいことである。
レオポルドは時々アンジェロ・レオーネの名でヴィラに訪れては、イアンのアパートにやってくるようになった。レオポルドは死んだことになっているとは言え、彼の顔を知っている人間は数多くいる。もし気付かれたらと、イアンは心配することしきりだが、レオポルドは全然頓着していない。
イアンの為にコーヒーを入れてやりながら、レオポルドは笑う。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって。言ったろ、シチリアの王、アンジェロ・レオーネとヴィラは業務提携を結んだんだ。今の俺はヴィラの大事な同盟者なんだぜ。それに、ヴィラの会員になるには、徹底的な身辺調査と身体検査をされるってことを忘れてないか? ちょっと調べれば、アンジェロ・レオーネとレオポルド・フェッロが同一人物だってことはすぐにわかる。俺のこの身体の傷跡を見ただけでも充分過ぎるくらいだ。それでも俺は逮捕されることも消されることもなく、こうしてアンジェロ・レオーネとして出入りを許されてる。ってことは、ヴィラは俺をレオポルドとして処分する気はないってことさ」
「……つくづくお前って奴は図太い男だよ」
「お褒めに与り、光栄の至り」
くすくす笑いながら、レオポルドはコーヒーカップを寄越してきた。一口飲んで、イアンは目を瞠った。
「……うまい」
「だろう? これが本当のコーヒーというものだ。おわかりかね、デクリオンどの」
そう言いながら、レオポルドはイアンの隣に腰掛け、肩を抱いて唇を寄せてきた。
「ばか、零れる」
レオポルドの顔を押し戻すと、その手を掴まれた。もう片方の手がコーヒーカップを奪い取り、テーブルに置く。そしてそのままレオポルドはイアンをソファに押し倒した。
「ったく、さっき散々やったばっかりだろうが」
「いいじゃないか、どうせ誰も見てないんだし」
「そう言う問題じゃない」
「まあ、そう言うなって。お前だっていやじゃないんだろ?」
悪戯っぽくレオポルドが笑う。この男はまるで子供のように屈託がない。抵抗するのも馬鹿馬鹿しくて、イアンは小さく吐息をついた。
「……好きにしろよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
イアンに新しい恋人が出来たらしい、という噂が囁かれるようになるのは、それからしばらく後のことである。
〜fin〜
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