【ヴィラ・カプリ版 野の白鳥】 後編


おれは、トリスタン様にリードを引かれていた。石畳にご主人様の靴音が響く。乳首とペニスにクリップで留められた土鈴がゆらゆらと揺れていた。カラコロという音がずっしりとした重みを忘れさせてくれない。手のひらと膝にできた豆がつぶれそうだった。尖った敷石が向こうずねに食い込んで、おれは呻いた。トリスタン様が歩みを止めてくれた。

おれは痛みをこらえてうずくまりながら、ぼんやりとトリスタン様の靴を眺めた。ヒールは完璧に水平だった。隣りを歩くアルバート様のヒールも、綺麗にまっすぐな形を保っていた。

ところが、次の週末に訪れたとき、アルバート様の靴は、外側に傾いてすり減っていた。不思議に思ったおれを更に驚かせたのは、その次の週末には、アルバート様の靴が水平に戻っていたことだった。そして、注意深く観察してみると、他のご主人様達の靴にも同じような変化が起きていた。いつも同じような靴を履いているのは、トリスタン様だけだった。

ついにおれはこらえきれなくなった。ある夜、クビクルムでトリスタン様と2人きりになったときに尋ねた。他のご兄弟たちは寝静まっていた。

「ご主人様には、何人お兄様がいらっしゃるのですか?」

「え?5人だよ。…どうしてそんなことを聞くんだ?」

「今日のアルバート様は、先週のアルバート様ではありません。チャールズ様も、他の皆さまも違う方でしょう?」

「参ったな。何を根拠にそんなことを言うんだ?」

おれは、気づいたことを話した。トリスタン様の表情が凍り付く。夜の闇にマイセンの陶器人形のようなトリスタン様の顔が白く浮かび上がった。

「エリサの勘違いだ…と言ったら納得する?」

おれは首を振った。

「仕方ないな。…きみの言う通りだ。今日来ているのは、アルバートではないよ。ベンジャミンだ。チャールズではなくてデイビッド。エドワードは、ファーディナンド。ヘンリーはジョージ。アイザックは、ジョゼフだ」

予想していた通りだったが、おれは息を飲んだ。

「ということは…」

「双子なんだ」

「ご兄弟がみんなですか!?」

「双子が多い家系でね。大昔の暗殺対抗策だったのかもしれない。双子の多い家の娘が后に選ばれ続けた結果らしい。とにかくぼくの家では、赤ん坊はたいてい双子で生まれるんだ。男の子ばかりね。公式には双子ではなく一人として報じられている。外出するときは片方だけ。今も厳格に守られている家訓だ。」

「トリスタン様…」

「ぼくはトリスタンじゃないよ」

「えぇっ?!でも、トリスタン様だけはいつも同じ方でした。靴のヒールはいつも完璧な形のままだった」

トリスタン様はくすくすと嬉しそうに笑った。

「ふふ。きみはめざといね、エリサ。そう。ぼくは、いわば末っ子のみそっかすだ。ぼくは一人で生まれたんだ。でもね。ぼくはトリスタンじゃない。もちろんイゾルデでもないけどね」

トリスタン様はウィンクして見せた。

「トリスタンはヴィラでの通称だ。本当の名前は、ケント。そうだよ、エリサ。きみの名前と同じだ」

おれは、初対面の時のざわめきを思い出した。

「どうして通称になさったのですか?他の方々は本名なのでしょう?」

「アイザックの遊び心だよ。ぼくらの参謀だ。入管検査の本人確認をごまかすには苦労していたけど」

ヴィラの入管検査は徹底しているはずだが、一卵性双生児なら見逃されてしまうのだろうか。

「このことをヴィラに言う?」

事が露見すれば、ヴィラはご主人様方を厳罰に処するだろう。おれは、トリスタン様から解放される。そして、また別の主人に売りに出される。
おれは首を横に振った。ヴィラに通報する気なら最初からそうしている。
トリスタン様の碧い眼が、安堵に笑み崩れた。それから、少し饒舌気味に故郷の風景を語って下さったのだった。



運命の日は、成犬審査の3日後だった。

尻ふりダンスは恥ずかしかったが、おかげで居心地のよい部屋に移ることができた。衛星放送にDVD。おれが住んでいたワンルームマンションより格段に豪華だ。鍵が内側から開けられさえすればだが。

ご主人様はこの週末は来られないらしい。カウンセリングに来たイアンがそうおれに告げた。おれが失望を隠しきれずにいると、散歩に出ようと言ってくれた。もう何週間も外に出してもらっていない。おれはいそいそと、犬座りをして首を垂れた。イアンはくすりと笑って、おれの髪をくしゃっと撫でた。

「おまえは成犬だ。もうリードをつけなくていいんだよ」

久しぶりに見る青空は高く澄んでいた。まだ風は冷たいが、スズカケの木の芽がほころんでいた。清々しい気分だった。たとえ裸の四つん這いであっても、鎖から解き放たれたのだ。おれは春の息吹を肺いっぱいに吸い込んだ。

「チャオ、イアン!」

長身の派手なスーツの男が、通りの向こうで真っ赤な薔薇の花束を振っていた。

「仕事中だ、レオ。邪魔をするな」

「ああ、こいつがエーモンの漆黒の駿馬バイアールか」

「なんだそれ。トリスタン様の犬のエリサだよ」

「6人も乗っけてるんだろう?フィレンツェで捕まったって?沈められたのはセーヌ川ではなくてアルノー川か。コメ・スタイ?(調子はどうだ)」

「ヴァ・ベーネ。グラーチェ、シニョーレ。ピアチェーレ。(大丈夫です。ありがとうございます、旦那様。はじめまして)」

ひゅーっと男が口笛を吹いた。彼は薔薇を一輪抜き取ると、おれの首輪にさしてくれた。

「うまいもんだ。馬鹿ブロンドよりかわいげがあるぜ」

「レオ!いいから、先に部屋に行ってろ。おれもじきに帰るから」

イアンに薔薇の花束で背を押されながら、レオは笑って手を振ってみせた。

「アリヴェデルチ(またな)、エリサ」


ドムス・レガリスの柱廊玄関から中に入ったところで、レセプションにいた日本人家令に声を掛けられた。

「イアン、あなたが犬の散歩ですか?」

「ラインハルトとウォルフが休暇でドイツに帰っている。仕方ないさ」

「リーデルは仲間とキャンプ旅行ですか。ボーイスカウトの隊長は大変ですな、デクリオン」

赤毛のレスラーのような大男が、荘厳な大理石の柱にもたれてにやにやとこちらを見ていた。イアンの表情が険しくなった。

「2人にはクリスマスからずっと忙しく働いてもらったからな。用もなく遊んでいる奴とは違うんだ」

「ドムス・レガリスで遊んだことも遊ばれたこともありませんよ。あんたと違ってね」

「あんたとは違うさ、ルキウス。おれは、でたらめな証拠に踊らされたことはないぜ」

大理石の床は、暖房した室内でも冷え冷えとしている。早く自分のセルに帰りたくなった。

「トリスタン様の犬ですね。こんにちは、エリサ。成犬審査合格、おめでとう」

「ありがとうございます。家令様。ご主人様方のおいでが待ち遠しいです」

「ええと、アルバート様、チャールズ様、エドワード様…」

「トリスタン様、アルバート様、エドワード様、ヘンリー様、チャールズ様、アイザック様です」

すらすらと言ってのけたおれに、家令が感心したように言った。

「良く覚えていますね」

家令はご主人様の名前をメモ用紙に書き付けた。

「遊ぶときの順序だな。いつもその順だ。鞭打ちは逆順だが」

「なるほどね」

「I-S-A-A-C」

家令の手元を覗き込んだイアンが、綴りを教えた。

「あ…これは?!」

イアンの眉が曇った。ルキウスの手が家令のメモをかっさらった。

「ビンゴだ、デクリオン。その犬、預からせてもらいますよ」



大理石の床が冷たいだなんて、贅沢だった。ここの床は打ちっ放しだ。地下牢には窓もない。青い空は見納めだ。

トリスタン様に不利なことは絶対に喋らない――というおれの決意はまるで役に立たなかった。取り調べに呼び出されると、すぐに注射を打たれる。気がつくと元の地下牢の床の上。自白剤らしい。何を聞かれたのか何を答えてしまったのかも分からない。赤毛のルキウスの満足そうな微笑が無気味だった。


散歩の日から一週間後に、イアンが来た。

「なぜ、黙っていた?」

「いったい何が起こっているんですか?」

「全員捕まったよ。入管検査の瞳孔チェックで虚偽の申告が露見した。本国にいた5人もミッレペダに捕獲された。虹彩は一卵性双生児でも違うからな。今まではうまく逃れていたようだが。毎回6人兄弟で訪問するパトリキだからな。係官に賄賂を贈って検査を省略させていたらしい。前から不正疑惑のある係官で、ルキウスはそいつを追っていたんだ」

「それで、トリスタン様は、ご主人様方はどうなるんですか?」

「それは、プラエトル次第だな。エリサ、おまえもだ」

「…薬殺処分ですか」

「わからん。そうなればいい方かもしれん」

万神殿の光景が目の前をちらつく。

「なぜ、黙っていた。ヴィラ・カプリを舐めすぎだ。おまえも、あの兄弟達も。虚偽の申告だけでなく、ふざけた冗談を仕込むとはな」

「トリスタン様の名前が通称ってことですか?」

「通称を名乗るのは、よくあることだ。しかし…兄弟の名前を言ってみろ」

「トリスタン、アルバート、エドワード、ヘンリー、チャールズ、アイザック」

「兄弟は上から、アルバート、チャールズ、エドワード、ヘンリー、アイザック、トリスタンだ。しかし、本当は11人。アルバート、ベンジャミン、チャールズ、デイビッド、エドワード、ファーディナンド、ジョージ、ヘンリー、アイザック、ジョゼフ、ケント。分かるか?」

イアンは、スーツから取り出した手帳に名前を書いて見せた。

「アルファベット順ですね」

「そうだ。そして、調教順に頭文字を並べると、<TAEHC I>。逆にすると<I CHEAT>…「私はズルしている」、という言葉になる」

「アイザック様の遊び心…そういうことだったのか」

「悪ふざけの代償は高いぞ。トリスタンは白い帆が掲げられたのも知らず、イゾルデに会えずに死んだ」

「お願いです!トリスタン様に会わせてください!」

「だめだ。おまえはもう…ここからは出られない」

「最後に一目だけでも!」

「無理だな」

「イアン…ならば、どうしてぼくに会いに来てくれたんですか?あなたなら、分かってくれるはずだ」

イアンは手の甲を口に当てて、じっと考えていた。その手の甲には目立つ傷跡があった。やがて立ち上がって、黙って牢を出て行った。



バシリカのクラブには賑やかなバンドの生演奏が鳴り響いていた。着飾ったパトリキたちと、豪華な装飾の首輪をつけられた裸の犬たち。音の洪水だ。ミラーボールに赤や紫やオレンジの照明。眩暈がする。
ふらついたおれの身体をイアンがリードで引っ張り上げた。薬殺処分が決定しているおれの四肢には厳重な枷が掛けられていた。立って歩くことは不可能だし、四つん這いでも数センチずつしか進めない。しかし、もとより逃げる気はなかった。イアンが最後の願いだと上に交渉して、やっとのことでプリンキピアから連れ出してくれたのだ。死ぬ前にトリスタン様を一目見るために。

ふっと照明が暗くなり、辺りのざわめきが静まった。ジャズに替わって静かに流れてきた物悲しいオーボエの調べ。おれでも知っている有名なバレエ、『白鳥の湖』の情景のメロディだった。
舞台に現れたオデットは、トリスタン様だった。白い羽根飾りのティアラが金髪に映えていた。しかし、細身とはいえ、男の身体に白いチュチュはあまりにも不格好だった。うっすらとけぶるような金髪の胸毛に、ぴったりと白い胴着が張り付いている。たどたどしく踊る足にはトウシューズを履かされていた。
オデットの背後に控える白鳥たちは、ご主人様の10人の兄弟だ。左右対称に完全なシンメトリーを構成している。トウシューズの足がふらついている。成熟した男性の大きな体にまとったチュチュは、さらに滑稽だった。
トリスタン様がよたよたとピルエットした。チュチュが舞い上がり、裸の尻と股間があらわになる。グロテスクなディルドが垣間見えた。客席から失笑と野次が飛び交った。

「ははは。回り方に勢いがないぞ、オデット」

「そんな踊りかたではジークフリートを誘惑できないぜ」


四羽の白鳥の踊りが始まった。

「アルバート様、チャールズ様、エドワード様、ヘンリー様…」

「いや、ベンジャミン、デイビッド、ファーディナンド、ジョージだ」

イアンの声が低く響いた。

「ヴィラ・カプリの不法侵入者だ」

バタンと騒々しい音がして、哄笑が湧き起こった。アイザック様…いや、ジョゼフ様か?…が躓いて、トリスタン様と共倒れになったのだ。小柄なトリスタン様の上に覆いかぶさっている。チュチュがすっかりまくれ上がって無惨な姿を曝していた。
やがて舞台の上に悪魔ロッドバルトが現れ、オデットを犯し始めた。それが合図だったかのように、客たちが次々に舞台に駈けのぼり、白鳥たちに躍りかかっていった。

「あの白鳥たちは人間には戻れない」



おれはプリンキピアの地下牢で、黙々と靴を縫っていた。手作りの靴は、フィレンツェの靴工房で見たきりだが、やるしかない。それしかおれたちが助かる道はなかった。おれの処刑は刻一刻と迫っていた。

気まぐれなプラエトルが提示してきた賭けだった。処刑の日までの1週間のあいだにおれがご主人様たち11人分の靴を縫い上げたら、おれたちは自由にしてもらえる。ただし、その間、おれはひと言もひと声も出してはいけない。賭に負けたら、一週間後の夜、ご主人様たちは、ヴィラの犬としてオークションで売り飛ばされる。おれは手足を切られてトルソーにされる。

24時間監視されてはいても、地下牢で靴を作る間、無言でいるのは難しくはない。しかし、プラエトルの賭けは甘くはなかった。おれに沈黙を破らせたパトリキには賞金が与えられることになっていた。おれは一日に何人もの相手を務めなければならなかった。パトリキたちは趣向を凝らした責めでおれの身体を弄んだ。おれは奥歯を噛みしめて耐え続けた。昼夜もなく抱かれる合間、おれは眠りを削り、ひたすら靴を縫った。

処刑の日の朝、おれは11足目の靴を懸命に縫っていた。間に合わないかもしれない。しかし奇跡が起きることだってあるはずだ。日の入り前になんとか左足を縫い上げて、右足に取りかかったとき、牢の扉が開いた。訪れたのは、賭けに挑むパトリキだった。おれは作りかけの靴をパイプベッドの下に投げ込んだ。もう間に合うわけがない。

最後の客は、帽子を目深にかぶり、濃いサングラスを掛けていた。コートを脱ごうともしない。そう珍しいことではなかったが、奇妙な男だった。いかにも気乗りしない様子で、おれに覆いかぶさって肩や背中を撫でるだけ。おれは彼の腰に手を回したとき、彼の皮膚がでこぼこにくぼんでいるのに気づいた。ひどい火傷のあとだ。

「ヴァ・ベーネ、エリサ」

サングラスの奥で澄んだ瞳が微笑んでいた。

男はすぐに帰っていった。おれは急いでベッドの下をまさぐった。やりかけの靴は見つからなかった。出てきたのは、すっかり縫い上がった靴だった。



こうして、白鳥は王子に戻った。おれは、自由の身になった。
でも、おれはトリスタン様についていくことにした。城に着いたら、骨付きステーキを食わせてもらおう。農園で作っているフランケンワインも飲ませてくれるはずだ。
鎖から解き放たれた犬、というのは、悪くはない。

おれは、エリサ。トリスタン様の犬だ。いつまでもフォーチュン・ドッグの鑑札は外さない。


―――――――――― 了 ――――――――――


〔フミウスより〕
 ぱすたさま面目躍如! 言葉遊びのおもしろさ、昔話の使い方のうまさにうなってしまいます! ウハウハの濡れ場と、最後のハラハラに夢中になって読んでしまいました。イアンもレオも活きてますね〜(笑)。ごちそうのような作品、ありがとうございます!
ご主人様、楽しんでいただけましたでしょうか。
ひと言、ご感想をいただけると鬼のようにうれしいです♪ 
(メアドはaa@aa.aaをいれておけば書かなくても大丈夫です)

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