わんわん赤ずきん
「じいさんが心配だ。あの風呂好きがもうひと月もテルマエに出てこない。国に戻った様子もないし、――また何かふさぎこんでるのかもしれないな」
主人はぼくを、大旦那さまのドムスへ派遣することにした。
「明日だ。きみの料理で、元気をつけてもらいなさい」
「わかりました。ご主人様」
ぼくは神妙にお辞儀をした。
鴨の下ごしらえしながら、ついつい鼻歌が出てしまうのは仕方がない。
(ウハウハ)
大旦那さまのお宅へのお使いは大好きだ。
ぼくは犬になる前、フレンチの世界じゃちょいと名の売れた料理人だったから、時々こんな風によそのお宅へお使いにいく。
ところが大旦那さまは、料理じゃなくて、ぼくの方をお召し上がりになる。孫はのほほんと紳士協定を信じているが、じいさんは自由人なのだ。
悪くなかったな。ご老体のくせに、なかなかのテクニシャンだったから。
前回訪問の時は、キッチンの作業台で全身にクリームをぬられ、からだのすみずみまで舐められた。
すみずみまで。ケツの穴もだぜ。よがり狂ったのなんの、間違って救急スタッフが飛び込んでこなけりゃ、七回は天国に行ったはずだ。
翌日、ぼくは主人に言った。
「帰りについでに買い物をしてきます。ちょっと遅くなると思いますが」
「ああ――。そうだね」
主人は間の抜けた返事をした。「ヴィラは夜歩きしても安全だからいいよな」
ぼくはまじめな顔をつくろい、材料を持って家を出た。
(阿呆め)
送り先が安全じゃないって。
うちの主人はいいやつだ。金持ちだし、若いし、けっこうだとは思うが、いかんせん、ちょっと飽きてしまった。いつも同じ体位。同じ回数。せっかくヴィラにいるのにぜんぜん面白い工夫をしてくれない。
だから、大旦那様のようなつまみ喰いは大歓迎だ。
ナツメヤシの並木道の下を鼻歌歌いながら歩いていると、小路からふたりのハスターティ兵が現れた。
(ふむ、ふたりともハンサムじゃないか)
などと見ていると、彼らはぼくのほうに近づいた。
「わんちゃん。どこに行くんだい」
ぼくは主人の名と行き先を告げた。もちろん、飛び切りのスマイルと上目遣いをまじえて。
アラブ系の美男の兵士がニコニコしながら、
「赤いスカーフ、かわいいね。ちゃんと首輪はしているのかい」
「ありますよ」
スカーフをまくって見せると、彼はどれどれ、と、首輪に触れた。
「あ」
彼はわざとらしい声をだし、首輪をするりと抜き取った。
「おやおや首輪のない子だ。どうしようかな」
黒い目がニヤニヤ笑う。いたずら小僧だ。
「いけません。返して」
ぼくはうぶを装って、あわててみせた。アラブの若者がひょいとその手首をつかむ。
「おまえさんは逃亡犬だな。こっちに来て取り調べだ」
ふざけているが、彼の眼はあやしげに光り、唇が濡れている。
ぼくはそんな、と身をよじりつつ、ちらりと小路に眼を走らせた。
(ちょいと寄り道も悪くないな)
「サイード、いいかげんにしろ」
計器を見ていた片割れが、憮然と言った。「この子じゃない」
サイードくんは笑いながら、ぼくに首輪を嵌めた。ついでにぴしゃりとお尻をたたいて、
「さ、早くお行き。狼が出るよ」
まったくヴィラは安全な町だ。狼のお宅に行くしかない。
ところが、じいさんは家にいなかった。
玄関口に若い従僕が出てきて、
「ご主人さまは外出なさっています」
と立ちはだかる。
「そんなはずはありません。うちの主人が今日、わたしがうかがうとお伝えしたはずです」
「ご予定を変更されたのです。さきほどお出かけになられました。お帰りは遅くなるとのことです」
ぼくは納得できなかった。美男のハスターティ兵を食い損ねたのだ。じいさんまでいないなぞ、まったく納得できん!
「お帰りをお待ちします。わたしの主人の命令ですから」
「しかし――」
ぼくは不恰好なお仕着せを着た従僕にぐいと顔をよせ、
「どこにお出かけになったにしろ、ぼくが来ていると知ればすぐお戻りになるさ。さっさと主に電話するんだな。新入り」
新入りの従僕は少し、しぶ面を作ったが、あきらめてぼくを中に入れた。
すぐにキッチンに向かおうとすると、彼はまた引きとめた。
「申しわけありません。キッチンは少々――」
「なに」
「いえ――今、主人と連絡をとりますので、ここでお待ち願えませんでしょうか」
彼はぼくをアトリウムに残し、中へ消えていった。
(まったく、肉が傷むじゃないか)
新顔の従僕の気のきかなさに腹をたて、ぼくはうろうろ水盤のまわりを歩き回った。
いつもの謹厳そうなバトラーはどうしたのだろう。彼ならしたり顔ひとつせず、うやうやしく出迎えてくれるのに。それに――。
(あの好色なじいさんがぼくを待たないとはな!)
べつのいい子でも見つけたか。
それとも、――とぼくは思い当たった。
(キッチン!)
あのじじい、キッチンで誰かとエロいことをしているに違いない。
ぼくは若い従僕のたじろぎようを思い出し、それに違いないと確信した。
それなら、たしかに今、料理人に入られるとややこしいことになるわい。
ぼくは材料のかばんをとり、忍び足で部屋を出た。
(ばかにしやがって)
脅かしてやれ、とおもった。何もせずに帰れるものではない。すねて見せたら、なにか埋め合わせしてくれるかもしれぬではないか。
キッチンの場所はよく知っている。中庭の奥。ぼくは回廊を走り、キッチンの大きな扉をつかんだ。
そっとひらく。
(ほら)
だが、ひとのいる気配はなかった。整然と片づき、食べもののにおいすらしない。
(あり?)
ぼくは中に入り、作業台の下をのぞいた。ばかげたことだ。大旦那様が台の下にいる理由がない。当然、いなかった。
どうも、思惑ちがいだったようだ。
(なんだ。――とりあえず鴨とムースは仕舞っておこうか)
クーラーから肉料理の容器を出し、冷蔵庫のドアを開けた時だった。
冷蔵庫いっぱいに生白いものがつまっていた。
身のうちがぎょっと飛び跳ねた。
「ヒッ」
ぼくは尻をついた。
はだかだ。はだかの人間が一体、折り曲げられて入っていた。
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