白髪頭だった。
大旦那様だ。青白い痩せたからだは、あの老人のものだった。
(ジョークだ、ろ。死んでない……よね)
指で触れてみて、髪が逆立った。死体の温度だ。完全にこれは死骸だ。
胃がでんぐり返りそうになった。吐きそうだ。
(どういうことだ)
なぜ、死体が。なぜ、こんな風に詰められているんだ。
ひとを呼ぼうとした時、心臓がビクリと跳ねた。
(あの男、だれだ――?)
あの新顔の従僕。あの男はキッチンに入るな、と言った。彼はこれを知っているのだ。
あの男はだれだ。見たことがない。お仕着せもからだに合っていなかった。
血が凍る思いとはまさにこのことだ。
(えらいことだ。さっさとここを出なければ)
ぼくはあわてて床から立とうとした。ところが、足首がへなりと曲がった。起き上がれない。腰が抜けていた。
(ば、ばか。ばか、しっかりしろ)
作業台にかじりつき、必死に身を起こす。わななく足を拳で叩く。とにかく、さっさと外へ出るのだ。
出ようとした時、またひっくり返りそうになった。
靴音だ。あの男の靴音が近づいてきていた。
(どうしよう)
ぼくはふるえた。なりふりかまわず走るべきか。
だが、ぼくは意気地がなかった。悪漢から逃げたことは一度もないのだ。足が動かない。
とにかく、かばんを開けた。料理を入れた容器を調べているふりをした。
「ここで何をしてらっしゃるのです?」
従僕の声はいやに落ち着き払っていた。
顔を見ることはできなかった。目を見たら悲鳴をあげてしまいそうだ。
「やっぱり、戻ろうと思ってね」
ぼくはつとめてさりげない声をだした。「とりあえず、作ったものだけ置いていくよ。肉はこのまま焼けばいい。もうほとんど出来ているからね。これはビガラード(ソース)。キミ、これをしまっておいてくれたまえ。――れいぞうこにでも」
れいぞうこという声がひきつれた。容器に触れる指が震えている。
従僕がふらりと作業台をまわってきた。
「急にどうかなさったのですか」
彼は明るくたずね、さりげなく隣に寄ってきた。
「ええっと、この家の酒は」
ぼくはくるりと身を翻し、作業台をまわった。「ああ、ここだ。グランマルニエ。鴨は焼きあがったら、これでフランベして」
彼が反対側からまわり、進路をふさぐ。
「ご主人さまはお戻りになられるそうですよ。少しお待ちいただければ」
――うそをつけ! ご主人さまはそこじゃないか。
ぼくは歯が鳴らないように奥歯を噛みしめた。眩暈で足もとがふわふわする。床がゼラチンに変わったようだ。
「いや。どうせ、もう出来ているからオーブンで焼けば」
「そういうわけにはいきますまい」
男ははっきりと笑っていた。「せっかくプロが作ったものを、火加減で台無しにしてしまうわけにはいきませんよ」
「火加減なんてどうでも!」
つい声が甲高くなった。おそろしくて泣きそうだ。頼むからそこに立たないでくれたまえ。そばに来ないで!
男が笑いながらたずねる。
「どうなさったのですか。興奮して」
「べつに。料理のことになるとこうなのさ。ピリピリしてね」
ぼくはまた容器を調べるふりをしてくるりと戻り、「しまったな。前菜の容器がひとつない。さっきのアトリウムに置いてきたかな」
ちょっととって来よう、とぼくは戸口に向かった。
すると、男はすばやく戸口の前に立ちふさがった。
浅黒い顔にグリーンの眼がなまなましく光っていた。にやりと笑った八重歯が尖っていた。
男はもう芝居をやめていた。
だが、ぼくはまだ牙を剥かないでほしかった。かぼそい声で聞いた。
「なんで、そこに立つの」
男は舌なめずりして言ったものだ。
「おまえを食べちまうためさ」
一瞬、うさぎのように足が地を蹴った。
だが、男の爪は早かった。ぼくは途端に床に引き倒され、めちゃくちゃに殴られた。
抵抗などできなかった。身を丸めて腹を顔を守るのがせいいっぱい。頭を思い切りなぐられ、意識がぐらぐら揺れると、もう何もできず打たれるままだった。
気づくと、ぼくは手足を縛られ、男にかつがれていた。
二階へ上がっていた。ドアがあけられ、部屋の中に放り込まれる。木の床にしたたかに叩きつけられた。
「そら、友だちだ」
すぐ鼻先に裸の足があった。足指は血に濡れていた。
頭をあげ、ぼくは咽喉をヒクつかせた。
裸の男が立っていた。惨白いからだは青赤の痣が彩り、鞭傷が血の玉を噴いている。乳首にはピアスが鮮血に濡れ、光り、むごい錘が揺れていた。
「ンンッ、ンン」
グロテスクなディルドをくわえさせられ、涙と血とよだれで端正な顔は見る影もない。
だが、あの執事だった。天井からの鎖に首輪を吊られ、腰を折ることもできずにふるえていた。
「いやだー!」
ぼくはかすれた悲鳴をあげた。思わず縛られた体でころがって逃げていた。部屋の隅まで夢中で転がった。
だが、男は笑いながら追ってきた。
縛られた足で蹴ろうとするが、なんの威力もない。横抱きに持ち上げられ、かるがると運ばれる。首輪に重い鎖がつけられた。
「いやだ、やめろ! ぼくはよその家の者だ! こんなこと許されないぞ」
叫ぶ口に同じディルド型のギャグを突きこまれる。死にものぐるいで暴れるが、後の祭りだ。
首の鎖が吊られ、ぼくは執事の向かいに立たされた。
「ンンッ――ンーッ」
「暴れるなよ。鎖を短くするぜ」
男はぼくの頭の後ろに手を回すと、いきなり片手でぼくの首輪をつかみあげた。つま先が浮き、咽喉輪が押し潰されそうになる。
「ンーッ!」
足が宙を泳ぐ。咽喉がつまって世界が真っ赤になった。ぼくは目を剥いて懇願した。
「わかったか。かわいこちゃん」
男はぼくを下ろした。頭につまった血液がどっとおりて、目が眩んだ。ふさがれた口と鼻がはげしく鳴る。
「ったく――帰れっていったのに、運のねえこったなあ」
男は離れ、声をたてて笑った。
「おれに運があったってことか。最後になると運が向いてくるんだな」
彼は壁際の棚から一本鞭を取り出した。軽く馴らすように腕をふる。ビシリと重い音が木の床を打った。
「おれはな」
男は言った「おまえと同じさ。ワン公だ」
ぼくははじめてまともに男の顔を見た。いやな笑いに歪んでいたが、骨格は整っている。グリーンの眼は睫毛が長く、たしかにどこか色気があった。
「鎖を切って飛び出したのさ。じきに捕まる。捕まりゃおしまいだ。もうふたり殺してるからな。これが最後の晩餐ってわけだ。にぎやかにやろうぜ」
いきなり背中に鞭がどすんと当たった。ぼくは口をあいたまま硬直した。棒で殴られたようだった。肺まで打撃が突き抜けていく。
尻を、足を、斧のような鞭が襲った。ぼくは声さえあげられずのたうった。
目の前に執事の濡れた目がある。だが、彼はなにもできず、ただおびえて見つめるだけだった。
「いいな、おまえは」
男は笑いながら、ふくらはぎを叩きつける。跳ねかけた途端、首輪が咽喉に食い込んだ。
「かわいいスカーフして。自由に出歩いて。お姫さまみたいに大事にされてんだろう? おまえみたいなのが一番シャクに触るよ。あの変態どもよりずっとだ!」
おっと、と男は手をとめた。
「おまえを退屈させちまったな。執事さん」
彼は一度鞭を置き、なにか道具をもって近づいた。ぼくと執事の間にかがむと、執事のペニスをつかんだ。
「ンンッ」
執事の眼が恐怖に丸くなった。男は執事のペニスにリングをとりつけた。さらにぼくのペニスにもリングをつける。このふたつのリングをチェーンでつないでしまった。
「これでふたりいっぺんに楽しめるぜ」
男はまた鞭をとりに戻った。
ぼくと執事は恐れて目を見合わせた。チェーンはたがいのペニスを引っ張っている。互いに腰を突き出さないと鋭く痛んだ。
「続きだ」
と言ったと思うとびゅっと鞭が飛んだ。尻に重い打撃が走る。
「ンンーッ!」
ぼくと執事は同時に絶叫した。腰がはずんだ途端、チェーンが引っ張った。ペニスがちぎりとられそうだ。
「いいぞ。踊れ」
男はケタケタ笑いながら鞭打った。
地獄だ。
ぼくは首をふり、ディルドを噛んで泣いた。
尻の切り裂かれる痛みに呻き、ペニスの痛みに悶絶する。よろければ首が絞まる。
(だれか。助けて)
外にハスターティ兵がいた。彼らは何をしているんだ。
誰か探していた。この男を捜していたのだ。
はやく探し出してくれ。この男、死ぬ気だ。ひとを巻き添えにする気だ。
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