「相手は何人いましたか」
「……わかりません」
「若い男たちでしたか」
「……いや。わからないです」
「黒人でしたか。白人でしたか」
「……わかりません」
「訛りはどんな」
「……わかりません」
「わからない? それぐらいはわかるでしょう」
スコットランドヤードの若い刑事は、いやな顔をした。
わたしは捜査に非協力的だった。犯人のことはよく覚えていない、目隠しされてよくわからなかった、といった。
サットンのことは言わなかった。公でことを構えようとすれば、サットンはヴィラの力を使うだろう。わたしがミッレペダに暗殺される可能性もあった。
だからといって、裏にまわって復讐する気にもなれない。復讐には膨大なエネルギーがいるが、いまはタンクがカラだった。
わたしには一滴のエネルギーも残っていなかった。
「あそこがどこか知ってますか」
若い刑事が憮然と言った。
「ゲイの恋人たちの溜まり場です。けっこうカナリーワーフのえらいさんたちも来るみたいですよ。あなたみたいな。――マクスウェルさん。あなたは自分であそこへ行ったんじゃないですか」
わたしは答えなかった。
唐突にドアが開き、フィンの大柄がぬっと病室に入ってきた。彼はだまって椅子を引き、刑事のとなりに座った。
「あなたは?」
「レスリーの友だちだ。かまわん。続けてくれ」
不気味な大男の登場に、刑事は軽口が言えなくなった。いくつか似た質問をくりかえし、すぐに退散した。
「よけいなことをしなくていい」
わたしはフィンをたしなめた。「どうせ上から言われてすぐ来なくなる」
「おれはなんにもしてないぜ」
フィンは持ってきた紙包みをベッドの上に置いた。「喰う? まだあったかいよ」
わたしは答えず、毛布のなかに戻った。
入院してから、わたしはひとを病室に入れなかった。突然の休暇に会社が悲鳴をあげていたが、なんの指示も出さず、完全に締め出した。
ただ、ひたすら寝ていた。
実際、からだはボロボロだった。腸と肛門は縫わねばならず、傷から流れ出た毒素で炎症が起きていた。無理にこじあけられた股関節もおかしなことになっている。
フィンに病院にかつぎこまれて二日、わたしは昏睡状態だった。
意識を取り戻しても、まだ眠かった。
エネルギーゲージはEに近い。からだだけでなく、すべてにおいて生活していく力が枯渇してしまっていた。
なにも判断できない。からだも生活も糸が切れたようにばらけてしまい、収拾がつかなかった。ただ寝て、へたばっていた。
だが、フィンはわたしの都合に頓着せず、家族のような顔をして病室に出入りした。
「なんで来るんだ」
わたしは迷惑した。「休みたいんだ。来ないでくれ」
「また、ギャングが来るかもしれねえ」
フィンは勝手に自分の持ってきたパンを食べた。「おれが見張っててやるから、安心して寝ろ」
「いらん。うっとおしい」
「目をつぶってりゃいいだろうが。はい、おやすみ」
持ってきた新聞を広げ、背を向ける。頑固に居座り、わたしの言うことはまったく聞かない。
夜明け近くなると、こっそりと音をたてぬように帰っていく。
彼は若く、ひたむきだった。なんの見返りも期待せず、ただ心配して、そこにいた。
すなおな人間に触れると、わたしはたじろいでしまう。
退院しても、わたしは自宅療養と称して、しばらく出社しなかった。
家のなかでごろごろしていた。
新聞を見ると、フランスのペンギン・テレコムが敵対的買収を仕掛けられていた。
買い手は中国のキャリアだった。主要株主にダラス・グループ関係の銀行が入っている。
彼らはアフリカ戦を各個撃破に変えたのだ。
ペンギンが食われたら、次はアルテミスだろう。方法がないことはないが、わたしには立ち上がる力がなかった。
フィンは家へもやってきた。夕方、仕事がひけると売れ残りのパンと夕食の材料を持って、たずねてくる。
夕食をつくり、いっしょに食事して、すぐに帰った。
なにをしてくれ、とも言わない。
わたしはたまりかね、ついに癇癪を起こした。
「いったいなんだと言うんだ。誰を見張っているんだ。ぼくか? ぼくが自殺するとでも思ってるのか」
「いや、あんたは死なねえだろ」
フィンはパンをスープにひたして言った。「よく寝てるし、飯も食うし」
「じゃあ、なんなんだ。毎日毎日、家政婦じゃあるまいし。あのな、心配することは何もないんだ。ギャングはもう来ない。来てもいいんだ。脅されたことはこれまでもあるし、そんなことかまってられないんだ。ぼくが仕事を休んでいるのは考えたいことがあるからだ。顔の傷が消えたら、すぐ復帰する。ぼくのことは気にするな。放っておいてくれ」
フィンはひそりとつぶやいた。
――チョコレートを全部おくれ。全部くれないなら、ひとかけらもいらないってこと。
それを聞き、わたしはぎくりとした。素手で心臓に触られた気がした。
「帰れ。もう来るな」
ばんとテーブルを叩いた拍子に袖がグラスにあたった。ビールグラスが床に落ちて派手にくだけ散った。
「ヒステリー」
フィンは唸り、床に落ちたガラスの破片を拾った。
彼の大きな背を見下ろし、わたしはにわかにやりきれなくなった。席をたち、ダイニングから出た。
(なんだって、あんな小僧に腹がたつんだ)
居間のバーからウイスキーをつかみとり、グラスに注ぐ。酒を飲み下すと、わたしは疲れ、ソファに沈み込んだ。
腹がたつ理由はわかっていた。わたしはおびえているのだ。フィンになじむのがこわいのだ。
「じゃあ、おれ帰るよ」
フィンが顔をのぞかせた。「明日からは来ないから。具合がよくなったら、電話くれよ」
「フィン。来いよ」
わたしは嘆息し、彼を呼んだ。「悪かった。来てくれ」
フィンはわたしの隣に腰をおろした。
なんと切り出そう。
(――犬と呼べたらラクだった)
つい埒もないことをおもった。主人でもいい。こういう面倒がないから、ヴィラは繁盛しているのだ。
フィンは沈黙に飽きて、人差し指を伸ばしてきた。わたしの頬の傷をなぞり、顎をくすぐった。
わたしはその指をつかみとり、言った。
「こういうの、慣れてないんだ」
「なに」
「何もしないこと」
フィンはまぶしそうに見つめた。
わたしは言った。
「セックスしないで、飯を作ってもらって、いっしょに食って、なんか居心地が悪い。どうしていいかわからない」
口にすると、いやな気分になった。みじめな黴くさい感情が胸に広がる。
「フィン。きみはもう」
わたしは言った。
「ぼくにかまうな」
なぜか顎がこわばった。
「もっと、若くて、かわいい子を探したほうがいい。きみはたくましいし、ハンサムだ。とてもセクシーな男の子だ。ソーホーのパブに行けば、すぐに恋人はみつかる」
早口だった。なぜかあわてていた。
「誠実ないい子はいっぱいいる。きみを心から愛してくれる。女性だっていい。きみはまだ若いんだから、決めつけることはない。結婚して、家庭をもって、父親になればいい。それはもちろん、きみの勝手だが――。とにかく、もう」
わたしは口をとざした。
もうダメだった。のどがかたく締まって動かない。
わたしは口を覆った。
「もう、来るな――」
フィンは手をのばし、わたしの眼鏡をはずした。あたたかい手で頬に触れ、持ち上げる。
わたしは無様な泣き顔をさらした。
「ぼくは、――ぼくは欠陥品だ」
フィンはぼんやりとわたしを見ていた。青い目は愚かな仔犬のように無邪気だった。
太い指が涙をぬぐう。彼はわたしを引き寄せ、かるがると厚い胸に抱き取った。
わたしは爪をたててしがみついた。
野蛮人のあたたかい胸だ。ほのかにパンのにおいがした。
レスリー、と彼は言った。
「ぜんぶ、あげる」
フィンはつぶやくように言った。
「おれの持っているチョコレートをぜんぶあげる」
全部だ、と言った。
頬の傷はだいぶ剥がれ、目立たなくなって来た。
わたしは復帰に向け、活動をはじめた。あいかわらず家にいたが、電話の応対で忙しい。
アメリカでオルセンが苦戦していた。一部の銀行が融資をひきあげ、株価が動揺している。
やはり、ガードナーはへそを曲げたらしい。
「きみの思うとおりにやれ」
フィンにもらったパンをオーブンに放り込みながら、わたしは電話でオルセンを励ました。
「北米はきみのものだ。自由に戦え。存分にやって、ぶち壊れてもかまわんよ。――あは。知ってる。彼らの機嫌を損ねたんだ。こっちのことは心配するな。やつらにもうそれほど力はない。わたしも手は打ってるさ」
わたしはあらたなプランを練っていた。家に篭り、要人に連絡をとり、ひとつひとつ駒を進めていた。
フィンは通ってこなくなった。時々、階下の受付に残り物のパンを届け、帰ってしまう。パンの袋の中にはあいかわらずメッセージがあった。
――冬枯れの季節がきても、かまどの中は暖かい。だからパンはみんなごきげんだ。
正直、彼の詩才をどう評価したものかわからない。意味もよくわからなかった。だが、パンを食べた後、わたしはそのカードを小机のなかに律儀に納めていた。
電話がつながった。
「アロー。CEOのムシュー・ピアフと話したい。わたしはアルテミスのマクスウェルだ」
「マクスウェルCEO。フランスのペンギン・テレコム社と合併するというのは本当ですか」
「吸収ですか。経営陣はどちらが残るのですか」
「この合併にはどんな意味があるのですか」
わたしは完全に現場に戻った。
復帰してすぐ臨時株主総会を開き、長年ライバルだったペンギン・テレコムとの対等合併を発表した。
休みの間、わたしはこの合併話をフランス側に申し入れていた。
フランス側はカーディフSATのこともあり、なかなかわたしを信用しなかったが、中国に乗っ取られるという危機のさなかだった。
取締役を同数選出し、わたしが非常勤会長職に退くという条件で、ようやく応じた。
新会社が誕生すれば、世界で三番目に大きい携帯キャリアとなる。うるさいハゲタカがたかってきても、多少は耐えられるはずだ。
記者は遠慮がなかった。
「アルテミスはこれまで貪欲といっていいほど敵を吸収してきましたよね。なぜ、今回は対等合併という道を選ばれたのでしょう」
「ペンギンを買収するだけのお金がなかったからです」
「カーディフ売却の時はずいぶん親米的でしたが、今度はEUびいきに心変わりされたのですか」
「イギリス人はどちらかに振れ過ぎるわけにはいかないんですよ。かたっぽにやきもち焼かせている状態が一番都合がいいんです。次の方、どうぞ」
「マクスウェルCEO。前線をペンギン・テレコムのピアフCEOにまかせ、ご自身は非常勤会長職に引き下がるということですが、どういうお気持ちでしょう」
なんと答えよう。
にわかに頬に血がさしのぼるのを感じる。わたしは花嫁のようにはにかんで微笑った。
「ワクワクしています。これでやっと、前からずっと欲しかった市場を開拓できます」
スタッフが指で腕時計を示した。
記者たちはまだ聞きたがったが、わたしは挨拶して席を立った。
かまってなどいられない。今日はフィンの家に招待されているのだ。
アイルランド料理を作ってくれるという。鴨料理だったか、羊の煮込みだったか、とにかく彼のふるさとの田舎料理だ。
花を買っていくべきだろう。それともワインがいいだろうか。それともギネス?
あ、それよりなにより、シャワーを浴びておかなければ。
―― 了 ――
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