独裁者 第18話


 熱い。息をするのもつらい。

 わたしは地獄の夢を見ていた。
 あたりは火の海だった。明るい炎が林のようにそびえたち、天を焦がしている。

 わたしは一本の鎖に足から吊られ、炎の間にぶら下がっていた。
 皮膚が焼け爛れていた。組織が煮え、溶け、骨が黒い炭に変わる。黒い小さな炭となって、さびしく炎の間に揺れていた。

 はるか下では二匹の悪魔が愛し合っていた。牡山羊の頭とゆたかな女の乳房、雄々しいペニスを突き上げた悪魔が、互いのからだを擦り合わせ、快楽の唸り声をあげた。

 シロウ、シロウ、と悪魔が歓喜にあえぐ。
 彼らの声には不快な音がまとわりついていた。うめき、夢中になってむさぼりあう彼らの影で、ひっそりと耳障りな音が響いている。

 悪魔たちが去ってもその音はしつこく続いた。
 不快な音だ。不安をかきたてられる。
 わたしは音から逃れようともがいた。音は耳のなかに絶えず流し込まれた。脳を蟻がつたうように這いのぼっている。

(いったいなんの音だ)

 虫の羽音のようなこまかな震え。機械のような――。

(機械? 電話だ!)

 わたしはぎょっとして目を醒ました。
 たちまちむせる。顔を熱気が覆っていた。目の前は真っ赤だった。明るい炎が壁となって取り囲んでいた。

 ――まだ夢を見ているのだろうか。

 頭をもたげようとした瞬間、何かが爆ぜ、炎が噴きあがった。
 ボートが猛火に包まれていた。

 わたしはおどろき、あたりを見回した。
 床にはビールボトルや鎖が散らばり、わたしは裸だった。

(そうだった――)

 敵はすでにいなかった。わたしはあたふたと身を起こした。立とうとした途端、腰がくだけた。膝がうまく動かない。
 足を見ようとした瞬間、上からなにか落ちてきた。

「ひっ」

 頭の上に炎の壁が倒れかかっていた。焼け落ちたダンボールが床に落ちて砕けた。火の粉が噴き上がり、皮膚の上に散る。その熱さにたじろいだ。

(出なければ)

 わたしは死にものぐるいで這い、散らばっていた服をつかんだ。転がるようにして壁へ向かう。

 鉄の扉は焼けて熱かった。わたしは懸命にそれを押し開けた。股関節に力が入らず、重い扉が動かない。煙が咽喉にからみ、酸素が入ってこなかった。

「だれか。開けてくれ」

 わたしはせき込み、叫んだ。だが、風が鳴るような音がしたに過ぎない。

 背中でぼんとにぶい破裂音がした。
 ふりむくとダンボールが火の塊となって飛び上がっていた。火の塊が生きもののように飛び、べつのダンボールの山からまた、ぼんと炎の玉が飛び上がった。
 魔が飛び交うようだった。

(だ、だれか――)

 わたしは畏れ、必死に叫んだ。




 遠くに消防車のサイレンが聞こえる。
 わたしはふりかえり、夜明けの空に黒煙を噴き上げる倉庫を見た。ようやく火事が発見され、騒ぎがはじまっていた。

 わたしは破れたワイシャツをひっかけ、テムズ川の川沿いをよたよた歩いた。

 右足はくらげのようだった。歩くほどにズボンのなかに何かぬるいものがつたった。裸足の足は血まみれだった。

 痛みはない。まだ昂ぶりがおさまらず、痛みは感覚の外に押しやられていた。

 高笑いしたいほど昂ぶっていた。

(ざまあみろ)

 わたしは生きのびた。神もこの悪党を滅ぼすことができなかった。
 サットンは薬の量を間違えた。獲物を縛っておかなかった。扉に鍵もかけておかなかった。

(事故に見せかけるためか)

 わたしは嗤った。ツメが甘いんだ。バカめ。

 ひざが何度もくだけそうになる。そのたびに歯を食いしばって、身をたてなおした。足から血がつたい、よくわからないものがつたった。尻からずっと何かが流れていた。

 血と汚物で道を汚し、酔っ払いのようによたつきながら、わたしは妙に高揚していた。
 生きていたことがおかしかった。冗談のようだ。あれだけ殺意を浴びても、死なないということがあるだろうか。まるで不死の魔物になったようだ。
 わたしは空に向かい、かすれ声をあげて哄笑した。

(つぎはおまえの番だ。サットン)

 わたしもプロを雇おう。あの黄色いペットともども酸の風呂につけてやろう。

 ようやく、それよりタクシーを探すべきだと思いついた。

(どこだ)

 わたしは顔をあげ、少しぼんやりした。
 いつのまにか、街中を歩いていた。見たような通りだ。角を曲がった時、見おぼえのあるパン屋が見えた。

 わたしは面食らい、立ち止まった。
 パン屋の前に、白いコック服を着た大男が立っていた。
 フィン、だ。

 フィンはわたしに気づかなかった。腕を抱えこんで、少し首をかしげ、じっと何かに聞き入っていた。
 わたしは眼をすがめた。

 彼は携帯電話をかけていた。小さい頭をかたむけ、一心に電話に聞き入っている。その指先に銀色のものが光っていた。

(あ)

 眼鏡、だ。
 わたしの眼鏡だった。わたしは唇をひらき、大男を見つめた。

 ふいに耳のなかに虫の羽音のような音が聞こえた。
 猛火のなかで小さな羽音が震えていた。火のなかでささやくように、ゆさぶるように、羽音がくりかえしくりかえし鳴っていた。

 ――きみか。

 わたしはふぬけ、その場に突っ立った。
 うるさく電話を鳴らしていたのはこの男か。

 妙な酔いが醒めていく。からだがにわかに冷え、痛みだした。
 わたしは彼に、もういいよ、と言おうとした。
 だが、胸がすじばったように痛み、声が出ない。咽喉にセメントが詰まっているようだ。
 わたしは顔をゆがめた。

 通りの向かいに愚かな大男が立っていた。仕事も忘れ、警察に連絡することも思いつかず、ただおろおろと電話がつながるのを待っていた。

(ばかめ)

 からかおうとしたが、唇が動かない。鼻の奥から水がつたってくる。

 ――いやだな。

 えらい目に遭って気が昂ぶっているのだ。
 わたしは洟をすすった。だが、心臓がザクロのように割れ、熱い血があふれ出ていた。汲めどもつきぬ泉のように血は流れ、ちぎれた筋肉に沁みた。

 にわかに生傷が赤く灼けだした。関節がぬけ、筋肉が痙攣を起こしていた。
 からだを支えていた細い柱がとけてしまっていた。身がぐらぐらと揺れ、大地にのめりそうだった。

 ――だめだ。倒れる。

 咽喉から細く苦しい叫びがほとばしった。小動物の鳴き声のように細い、悲痛な悲鳴だった。

「レスリー!」

 フィンが飛び上がり、叫んだ。「あんた――」

 わたしは立てなくなった。汚れた両手を幼児のように差し伸ばし、そのまま昏倒した。



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