七日目
「ミスター・クリステンセン。起きてください」
目を醒ますと、主人はすでにスーツに着替えていた。おれは寝坊したのかと頭をもたげた。
「申し訳ありません――」
「ミスター・クリステンセン。緊急事態が発生しました。セッションはここで一度終了です」
おれは目を醒ました。カレンダーを数え、眉をひそめる。
「あと、一日あるはずだが」
「ヴィラから連絡が入りました。奥様がご旅行から戻られます。今日、ヒースローに到着する予定です」
妻、と聞いておれは顔をさすった。友だちと地中海のどこかへ遊びにいったはずだった。予定が十日も早い。
「ぼくの携帯は」
「こちらです」
確認してみると確かに妻から迎えに来るようにメッセージが入っていた。喧嘩でもしたのだろうか。
「でも、七日分、料金は払っているんだぜ」
「その分については契約時に申し上げた通りです。第二十七条、万やむおえず、途中でセッションを終了する際には――」
「わかった、わかったよ」
納入した金は返金されない。残りは次のセッションにまわされるだけだ。
「元どおりにしてくれた?」
「調度は元に戻っています。ただ、においが変わっている可能性がありますので、奥様には言いつくろってください。女性は敏感ですので」
彼は二、三、言い訳の仕方、シーツを洗うこと、妻に裸を見せるのは三日待つことなどをレクチャーした。
パパラッチなどトラブルが起きた時の対処の仕方を聞きながら、おれは少しぼんやりした。絶大な主人が、歯切れのいいビジネスマンに戻ってしまい、戸惑っていた。
「では、サインをお願いします」
おれは受領書とでも言うべき用紙にサインをした。
「そこのアンケートは飛ばしてください。いずれ、別の方法で伺います」
とてもせわしない。彼がおれに触れないよう距離をとっているのも少しものさびしい。
おれはガウンを着て、階下に彼を送った。ロジェが挨拶した。
「絨毯は元に戻してあります。わたしたちが持ち込んだものは、すべて持ち帰りますが、一応点検をお願いできますか」
おれはぶらりとリビングを見た。サイモンが写真を見ながら、ソファの位置を調整している。
「花はいいよ」おれは彼に声をかけた。「ぼくがたのんだことになっているし、友達とパーティーしたことにしておくから」
「わかりました」
サイモンにOKを出し、おれは玄関に戻った。ロジェはすでに車に乗っているようだった。
ルビーがビジネスライクに微笑んだ。
「ご利用ありがとうございました。ヴィラのほうへもぜひ、お越しください」
「ありがとう。楽しんだよ」
サイモンとも握手をして送り出す。おれはルビーの背に声をかけた。
「すまない。ちょっと――」
サイモンに先に行くよううながし、ルビーが戻る。
「なんでしょう。お客様」
言葉はよそよそしい。だが、ヘイゼルの目はおれの用がわかっていた。だめだよ、とわらっている。
おれはすがりつきそうになった。手に触れたい。抱きしめたい。だが、見えない壁がへだてている。
おれは絶え入るような思いでたずねた。
「ぼくは――どうだった?」
「どうだったとは?」
「ぼくは――」
「お客様。わたしの感想などどうでもいいのです。お客様に満足していただければ、わたしどもは満足です」
「きみはぼくを気に入ってくれたのか」
彼は苦笑した。
「わたしの感想などどうでもいいと言ったでしょう」
慣れているのだろう。彼は仕事だ。相手が自分の魅力に首っ丈になって、すがりつくのも慣れているのだ。
おれは目を落とし、これ以上無様なことを言わないよう口をつぐんだ。
だが、手が触れ、おれの顎を持ち上げた。ヘイゼルの目が見ていた。引き寄せられる。唇がふれると、おれは夢中でその舌を吸った。
彼はすぐにおれを押し戻し、微笑んだ。
「これは特別サービス。次のご利用の時も、わたしを指名してください」
リネン類を洗い、首のキスマークを氷で冷やすほかは特にすることもなかった。
彼らは生ゴミさえ――ジェレミーが新聞紙に落としたものさえ、持ち帰ってくれていた。
かかってきそうな家族のボイスメッセージは転送センターに送っていた。ヴィラ側が妻の帰国を知らせてくれて助かった。きっと、以前、火事場に遭遇したご主人さまたちがいたのだろう。
妻は、おれのしていたことに気づくどころではなかった。イタリアのどこだかという町でスリに合い、カードから一万ポンド引き落とされたと泣いていた。
「それくらいたいしたことない。きみが危険な目に遭わなくてよかったんだ」
「あなたが来てくれればこんなことにならなかったのよ」
「仕事だと言ったろう。今度埋め合わせするよ」
妻が帰って数日後、事務所で調査員のレポートに目を通していると、ジェレミー・スチュワートから電話がかかってきた。
『スティーブ。どうだった?』
「ああ、ジェレミー。ぼくもずっと話したかった」
あの六日間が夢だったような気がしていたのだ。
「エキサイティングだったよ。久しぶりに興奮した」
『気に入ってくれたかい』
「とても気に入った。入会させてくれてありがとう」
『きみならきっと楽しめると思ったんだ。それならよかった』
おれは吹き出した。
「軽く言ってくれるよ。あんな風だとは思わなかった。はじめは、なんかの間違いじゃないかって」
「そうこなくちゃ、面白くないだろ」
「きみはいつからあそこで遊んでいるんだ?」
『二年ぐらい前かな。バカ犬だよ』
かろやかに笑う。あの夜を思い出し、おれはひそかに頬に血をさしのぼらせた。
『主人は何人か替えたけど、あのハーレー卿が一番気に入っているんだ。適当にむごくて、適当に甘い。ぼくの好みだ』
「きみが来るなんて知らなかった。死ぬほど驚いた」
『ああ、珍しくはない。紹介者がいっしょにプレイするのは彼らの宣伝でもあるんだ。上級者編はこんなになってますよ、って意味さ』
「きみは断れないのかい?」
『いや。それはゲームの前に要望書に書いておけば問題ない。ぼくはきみのプレイを見たかったからOKしただけだ』
おれはむせそうになった。彼はクスクス笑い、
『きみに見られながら犬をやるのはたまらなく興奮するよ。――ぼくはいつもえらそうだからな』
「イヤイヤかと思った」
『まさか。ぼくは辱められるのが好きなんだ。苦痛も』
「ぼくは女装が好きとは書かなかったんだがな」
『それは彼らの判断さ。入会した時、長いアンケートがあったろ。生い立ちとか環境とか家族構成とか。
男の嗜好なんて、たいがいいくつかに分けられるんだよ。主人はその中で、客が好きそうなのをいくつか選んでくるんだ。きみが次に犬がやりたいといえば、それもやらせてくれる。赤ちゃんがいいといえば、それもある。
主人も替えていいんだぜ。あのルビーはやさしいから、そのうちものたりなくなるよ。フレデリカ・オブライエンがスタッフにいたろう』
「ああ、あの女。ひどいやつだ」
『彼女は人気の女王さまだ』
「ぼくは次は遠慮だな。犬にアレなめられてトラウマになりそうだ」
ジェレミーはカラカラ笑った。
『ぜひ、見たかった。きみかわいかったぜ。ヴィラでショーもあるんだ。きみとならレズ・ショーに出てもいいよ』
よせよ、とおれは冷や汗をぬぐった。白昼、仕事場でする話ではない。おれは咳払いした。
「――ところできみ、あんなに体に傷つけられて問題ないのか」
『べつに。死なないようにやってくれてるさ』
「ちがうよ。奥さんに――。けっこう消えないだろう?」
キスマークはすぐ消えたが、張りに吊られた時の手首の痣がまだ少し残っている。ルビーも風呂では消えるよう、湯をかけてくれていたが。
『うちは公認なんだ』
「なんだって?」
『彼女が紹介してくれたんだよ。シナジーのことは』
おれは呼吸困難に陥りかけた。おれにとってあの時間は、全女性に絶対秘密だ。
「彼女も会員なのか」
『いや、紹介者は別にいる。彼女が教えてくれたんだ。ぼくにはもともと人に言えない願望があった。彼女はぼくに昼間男でいてもらう代わり、遊びの時間を作ってもよしとしたんだ。夫がへんてこりんなカミングアウトをしたら、彼女の家の名誉も傷つくからね。まあ、ゲシュタルト・セラピーのようなものよ、だってさ』
「え?」
『もちろん紹介者からSMだって説明は受けたよ。でも、同じようなものだね。一番最初はお姫様の設定だったし。シンデレラみたいなドレス着せられて、自分の敷地の森にしばりつけられて、五人に犯された。あれは衝撃的だったな』
おれは額をおさえた。おれのファンタジーはやはり一般的らしい。
『さんざん犯っておいて、またクスリで狂わせてさ。こっちが欲しくて悶えているのに、全然触らないんだ。ずっと言葉責め。おとなになってからはじめて号泣したよ。自分でもびっくりした。今はすぐ泣くけどね。泣くと気持ちいいから』
「わかる」おれは心から言った。「ぼくも久しぶりに泣いた」
おれたちは、そのうちアフリカにあるヴィラに行こうと話して電話を切った。
シナジー・エンライトメント――共同で行う覚醒。精神療法に名を借りたヴィラ・カプリ属州ブリタニアのサービスだ。政治家や企業家、映画スター、資産にゆとりがあり、人に言えない嗜好を持った人々が、からだに溜まった澱を吐き出しにいく。
幾日かディオニュソス祭を楽しみ、すましてのっぺらぼうの日常に帰ってくるのだ。強い夫、頼もしい父親、清潔な市民として。
正しい市民のモデルが、実情にあわなくなっている。こうした調整はやむをえまい。
―― 了 ――
|