ディオニュシア祭 第17話

  七日目


「ミスター・クリステンセン。起きてください」

 目を醒ますと、主人はすでにスーツに着替えていた。おれは寝坊したのかと頭をもたげた。

「申し訳ありません――」

「ミスター・クリステンセン。緊急事態が発生しました。セッションはここで一度終了です」

 おれは目を醒ました。カレンダーを数え、眉をひそめる。

「あと、一日あるはずだが」

「ヴィラから連絡が入りました。奥様がご旅行から戻られます。今日、ヒースローに到着する予定です」

 妻、と聞いておれは顔をさすった。友だちと地中海のどこかへ遊びにいったはずだった。予定が十日も早い。

「ぼくの携帯は」

「こちらです」

 確認してみると確かに妻から迎えに来るようにメッセージが入っていた。喧嘩でもしたのだろうか。

「でも、七日分、料金は払っているんだぜ」

「その分については契約時に申し上げた通りです。第二十七条、万やむおえず、途中でセッションを終了する際には――」

「わかった、わかったよ」

 納入した金は返金されない。残りは次のセッションにまわされるだけだ。

「元どおりにしてくれた?」

「調度は元に戻っています。ただ、においが変わっている可能性がありますので、奥様には言いつくろってください。女性は敏感ですので」

 彼は二、三、言い訳の仕方、シーツを洗うこと、妻に裸を見せるのは三日待つことなどをレクチャーした。

 パパラッチなどトラブルが起きた時の対処の仕方を聞きながら、おれは少しぼんやりした。絶大な主人が、歯切れのいいビジネスマンに戻ってしまい、戸惑っていた。

「では、サインをお願いします」

 おれは受領書とでも言うべき用紙にサインをした。

「そこのアンケートは飛ばしてください。いずれ、別の方法で伺います」

 とてもせわしない。彼がおれに触れないよう距離をとっているのも少しものさびしい。

 おれはガウンを着て、階下に彼を送った。ロジェが挨拶した。

「絨毯は元に戻してあります。わたしたちが持ち込んだものは、すべて持ち帰りますが、一応点検をお願いできますか」

 おれはぶらりとリビングを見た。サイモンが写真を見ながら、ソファの位置を調整している。

「花はいいよ」おれは彼に声をかけた。「ぼくがたのんだことになっているし、友達とパーティーしたことにしておくから」

「わかりました」

 サイモンにOKを出し、おれは玄関に戻った。ロジェはすでに車に乗っているようだった。

 ルビーがビジネスライクに微笑んだ。

「ご利用ありがとうございました。ヴィラのほうへもぜひ、お越しください」

「ありがとう。楽しんだよ」

 サイモンとも握手をして送り出す。おれはルビーの背に声をかけた。

「すまない。ちょっと――」

 サイモンに先に行くよううながし、ルビーが戻る。

「なんでしょう。お客様」

 言葉はよそよそしい。だが、ヘイゼルの目はおれの用がわかっていた。だめだよ、とわらっている。

 おれはすがりつきそうになった。手に触れたい。抱きしめたい。だが、見えない壁がへだてている。

 おれは絶え入るような思いでたずねた。

「ぼくは――どうだった?」

「どうだったとは?」

「ぼくは――」

「お客様。わたしの感想などどうでもいいのです。お客様に満足していただければ、わたしどもは満足です」

「きみはぼくを気に入ってくれたのか」

 彼は苦笑した。

「わたしの感想などどうでもいいと言ったでしょう」

 慣れているのだろう。彼は仕事だ。相手が自分の魅力に首っ丈になって、すがりつくのも慣れているのだ。
 おれは目を落とし、これ以上無様なことを言わないよう口をつぐんだ。

 だが、手が触れ、おれの顎を持ち上げた。ヘイゼルの目が見ていた。引き寄せられる。唇がふれると、おれは夢中でその舌を吸った。
 彼はすぐにおれを押し戻し、微笑んだ。

「これは特別サービス。次のご利用の時も、わたしを指名してください」




 リネン類を洗い、首のキスマークを氷で冷やすほかは特にすることもなかった。

 彼らは生ゴミさえ――ジェレミーが新聞紙に落としたものさえ、持ち帰ってくれていた。

 かかってきそうな家族のボイスメッセージは転送センターに送っていた。ヴィラ側が妻の帰国を知らせてくれて助かった。きっと、以前、火事場に遭遇したご主人さまたちがいたのだろう。

 妻は、おれのしていたことに気づくどころではなかった。イタリアのどこだかという町でスリに合い、カードから一万ポンド引き落とされたと泣いていた。

「それくらいたいしたことない。きみが危険な目に遭わなくてよかったんだ」

「あなたが来てくれればこんなことにならなかったのよ」

「仕事だと言ったろう。今度埋め合わせするよ」

 妻が帰って数日後、事務所で調査員のレポートに目を通していると、ジェレミー・スチュワートから電話がかかってきた。

『スティーブ。どうだった?』

「ああ、ジェレミー。ぼくもずっと話したかった」

 あの六日間が夢だったような気がしていたのだ。

「エキサイティングだったよ。久しぶりに興奮した」

『気に入ってくれたかい』

「とても気に入った。入会させてくれてありがとう」

『きみならきっと楽しめると思ったんだ。それならよかった』

 おれは吹き出した。

「軽く言ってくれるよ。あんな風だとは思わなかった。はじめは、なんかの間違いじゃないかって」

「そうこなくちゃ、面白くないだろ」

「きみはいつからあそこで遊んでいるんだ?」

『二年ぐらい前かな。バカ犬だよ』

 かろやかに笑う。あの夜を思い出し、おれはひそかに頬に血をさしのぼらせた。

『主人は何人か替えたけど、あのハーレー卿が一番気に入っているんだ。適当にむごくて、適当に甘い。ぼくの好みだ』

「きみが来るなんて知らなかった。死ぬほど驚いた」

『ああ、珍しくはない。紹介者がいっしょにプレイするのは彼らの宣伝でもあるんだ。上級者編はこんなになってますよ、って意味さ』

「きみは断れないのかい?」

『いや。それはゲームの前に要望書に書いておけば問題ない。ぼくはきみのプレイを見たかったからOKしただけだ』

 おれはむせそうになった。彼はクスクス笑い、

『きみに見られながら犬をやるのはたまらなく興奮するよ。――ぼくはいつもえらそうだからな』

「イヤイヤかと思った」

『まさか。ぼくは辱められるのが好きなんだ。苦痛も』

「ぼくは女装が好きとは書かなかったんだがな」

『それは彼らの判断さ。入会した時、長いアンケートがあったろ。生い立ちとか環境とか家族構成とか。

男の嗜好なんて、たいがいいくつかに分けられるんだよ。主人はその中で、客が好きそうなのをいくつか選んでくるんだ。きみが次に犬がやりたいといえば、それもやらせてくれる。赤ちゃんがいいといえば、それもある。

 主人も替えていいんだぜ。あのルビーはやさしいから、そのうちものたりなくなるよ。フレデリカ・オブライエンがスタッフにいたろう』

「ああ、あの女。ひどいやつだ」

『彼女は人気の女王さまだ』

「ぼくは次は遠慮だな。犬にアレなめられてトラウマになりそうだ」

 ジェレミーはカラカラ笑った。

『ぜひ、見たかった。きみかわいかったぜ。ヴィラでショーもあるんだ。きみとならレズ・ショーに出てもいいよ』

 よせよ、とおれは冷や汗をぬぐった。白昼、仕事場でする話ではない。おれは咳払いした。

「――ところできみ、あんなに体に傷つけられて問題ないのか」

『べつに。死なないようにやってくれてるさ』

「ちがうよ。奥さんに――。けっこう消えないだろう?」

 キスマークはすぐ消えたが、張りに吊られた時の手首の痣がまだ少し残っている。ルビーも風呂では消えるよう、湯をかけてくれていたが。

『うちは公認なんだ』

「なんだって?」

『彼女が紹介してくれたんだよ。シナジーのことは』

 おれは呼吸困難に陥りかけた。おれにとってあの時間は、全女性に絶対秘密だ。

「彼女も会員なのか」

『いや、紹介者は別にいる。彼女が教えてくれたんだ。ぼくにはもともと人に言えない願望があった。彼女はぼくに昼間男でいてもらう代わり、遊びの時間を作ってもよしとしたんだ。夫がへんてこりんなカミングアウトをしたら、彼女の家の名誉も傷つくからね。まあ、ゲシュタルト・セラピーのようなものよ、だってさ』

「え?」 

『もちろん紹介者からSMだって説明は受けたよ。でも、同じようなものだね。一番最初はお姫様の設定だったし。シンデレラみたいなドレス着せられて、自分の敷地の森にしばりつけられて、五人に犯された。あれは衝撃的だったな』

 おれは額をおさえた。おれのファンタジーはやはり一般的らしい。

『さんざん犯っておいて、またクスリで狂わせてさ。こっちが欲しくて悶えているのに、全然触らないんだ。ずっと言葉責め。おとなになってからはじめて号泣したよ。自分でもびっくりした。今はすぐ泣くけどね。泣くと気持ちいいから』

「わかる」おれは心から言った。「ぼくも久しぶりに泣いた」

 おれたちは、そのうちアフリカにあるヴィラに行こうと話して電話を切った。

 シナジー・エンライトメント――共同で行う覚醒。精神療法に名を借りたヴィラ・カプリ属州ブリタニアのサービスだ。政治家や企業家、映画スター、資産にゆとりがあり、人に言えない嗜好を持った人々が、からだに溜まった澱を吐き出しにいく。

 幾日かディオニュソス祭を楽しみ、すましてのっぺらぼうの日常に帰ってくるのだ。強い夫、頼もしい父親、清潔な市民として。

 正しい市民のモデルが、実情にあわなくなっている。こうした調整はやむをえまい。


                ―― 了 ――




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