犬嫌い




 その犬の救出は骨が折れた。
 中国人の主人はとっくに犬への関心をうしなっていたが、解放が金になると知って、俄然ペット愛に目覚めた。

「あの子がいなければ、食事ものどを通らん」

 だの、

「あの愛らしい泣き声に、友だちは一千万ドルの値をつけた」

 だの

「もう少し色をつけろ。そんな値段で取引したら、ひとにバカにされる」

 と言って値を吊り上げる。あげく、激昂したフリをして、

「安く売るくらいなら、殺してやる」

 と、痩せこけた犬を鞭打った。
 わたしは葉巻をふかし、鷹揚に言ったものだ。

「おやんなさい。わたしは帰る。家族には、犬は死んだと言っておきます。――ちなみに、あんまり傷だらけにすると、ヴィラの下取り価格も下がりますよ」

 主人は犬いじめをやめた。
 しぶい顔をして、

「パスカルくん。もっとヒトの顔をたてるものだ。せめて、あと五十万つけろ」

 わたしのほうも火がついていた。もう二ヶ月も時間をかけている。犬も待ちくたびれて死んでしまうかもしれない。
 こうしましょう、とわたしは唇から葉巻を離した。

「ひとつ勝負をして決着をつけましょう。あなたが勝ったら、560万ドル。わたしが勝ったら510万。それでケリ。ねばりっこナシだ」

「なんの勝負だ」

 主人は気味悪そうな顔をした。わたしは220ポンド、6フィート6インチある。

「飲み比べ。潰れたほうが負けです」

 主人の細い目がきらりと光る。「酒はなんだ」

「ご自由に」

 よかろう、と主人はテーブルを打った。

 主人が持ち出したのはアルゴートウという中国酒だった。ラベルの字は読めないが、56度と書いてあるのはわかる。

「ガン!(乾杯)」

 小さいグラスを掲げ、たがいに一気に飲み干し、グラスの底を見せ合う。
 においがキツイ。飲み口は悪くないが、荒っぽい酒だ。
 主人はこれを選んだだけあって、ペロペロ飲み干した。だが、半日も乾杯していると、

「エクソダスのボスはたいそうな美人だそうだな」

 細い目がだらしなくわらっている。「神父さんなんだって? いいねえ。ここへ呼びなさい。そしたら、あと十万下げてやる」

(ばかやろう。手ェ出しやがったら殺すぞ)

 わたしは酒をあおった。いい具合に脳が膨れ上がっていたが、わたしは顔に出さずに酔っぱらうことができる。

(あれはおれのだ。あいつのためでなかったら、だれがこんなしょぼい使いをするか)

 結局、二十時間ぐらい乾杯を続けたが、最後にトイレから帰ってくると、さしもの主人も高いびきをかいていた。

 ウイハブ・ウィナー!
 わたしは痩せこけた犬を引き取り、意気揚揚シカゴへ帰った。




「グリーンウッド神父! 帰りました」

 わたしは上機嫌で聖堂に踏み入った。
 すぐ神父が細身を現す。連れの痩せ犬を見て、白百合の美貌がぱっと輝いた。

「おめでとう。よくやってくれた!」

 わたしはうれしさを噛みしめた。
 神父の黒いスータン姿のなんと端正な美しさか。

 麗しのグリーンウッド神父。
 神の代理人にして、『エクソダス』のボス。人身売買組織ヴィラ・カプリにとらわれた若者たちを救う僧服の騎士。
 だが、そのからだはあまりに軽く、もろく、やわらかい。

「タイミングもクールだ。まもなくご両親が到着するんだよ。間に合ってよかった」

 神父は近づいたが、すぐウッと顔をそむけた。

「酒くさ――」

 わたしは笑った。しかたがない。一日近く乾杯し続けたのだ。血液の90パーセントぐらい酒になってるだろう。

「においます?」

「神聖な場所にふさわしくないにおいがプンプンと」

「キリストの血も酒ですよ」

「これこれ」

「怒らないで。ひとを裁くな。汝が裁かれぬためである――」

「酔っ払ってるのかい」

「はは」

 わたしは浮かれていた。手をのばし、神父の肘をとった。
 涼しいグリーンの目がわたしを見て微笑む。明るすぎるノー。
 まったくスキがない。

 しかたなく、わたしはその白い手にくちづけし、

「祝福してください。たっぷりと。できればベッドの上で」

「放しなさい。髭がくすぐったい」

「セシル」

「その子を見せてくれ」

 彼は笑いながらすり抜け、痩せ犬の前にかがんだ。

「やあ、ライアン」とのぞきこむが、犬はうつむいたままである。

 長い虐待のせいで、若者の心は凍りついてしまった。なにか言えば、青い眸をさざなみのようにふるわせ、身をちぢめて怯えたが、言葉は発しない。解放されたこともわかっていないようだ。

「最初、彼を見た時は吐きそうになりましたよ」

 わたしはさりげなく神父の傍に寄り添った。

「動物園の檻みたいなケージに入れられっぱなしで、糞尿まみれ。ろくに世話されてなかったみたいです。背骨が浮いてて、ハエがたかって、サバンナの死骸みたいでした。それでも、よろよろ這って来て、お手をしようとしたんです」

 神父は白い横顔を曇らせた。
 むごいな、と言ったが、おどろいてはいない。

 エクソダスが身請けに成功する犬は、こうした境遇のものが少なくない。
 主人が犬を手放す気になるのは、よほどその犬に惚れこんだか、あるいはしゃぶりつくして飽いたかのどちらかだ。後者の場合、しばしば犬は廃人同然の状態で下げ渡される。

「リハビリはつらいものになるな」

「でも、救われたんです。パパとママがいれば」

 その時、聖堂の扉が開いた。

「グリーンウッド神父! ライアンは」

 パパとママの登場だ。
 わたしは神父から離れた。

「ああ、神父さん」

 小太りの母親が転がるように聖堂を走ってくる。

「ライアンは。ライアンはどこですか」

 いつもながら、この場面になぜ、テレビカメラがないのかと残念に思う。
 神父は微笑み、からだをずらして長椅子の青年を目で知らせた。
 だが、母親は興奮していて気づかない。

「神父さん。どうしましょ。――今日はもう何にも手につかなくて。手がふるえて、椅子にも座ってられなくて。あきらめて、あたしチキンを揚げていたんです! あの子の大好きなアーモンドをまぶしたやつ。あの子、いつもあれをお弁当に持っていってたんですの。他の子がスナックだなんだ、ジャンクなものを買って食べてたのに、母さんのが一番おいしいよって」

 そうですか、と神父が夫人の胸があたらないように後ずさる。さりげなく長椅子の青年のほうへ体を向けるが、チキンの話が止まらない。

「アーモンドは自分で砕くんです。そのほうが風味がいいの。揚げる温度も注意して――あたし、学校にあのスナックの自動販売機があるのは絶対にいけないと思いますわ。いくら経営難だからって」

 興奮して口が止まらない状態なのだろう。わたしは礼儀正しい神父に代わって、奥さん、と呼びかけた。
 夫人がはじめてわたしに気づく。わたしは目で息子の存在を教えた。

 夫人は一瞬彼を見たが、ん? とわたしに微笑みかけた。
 わたしは辛抱づよく、痩せた青年を手で示した。夫人は丸い目をむけ、三秒ほど凝視した。

「これは、誰です?」

 と聞いた。
 わたしの意図を察すると、夫人は顔色を変えた。

「これが? ――これ、ライアンが、ちぢんだっていうの?」



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