第2話

 犬はライアンによく似ていた。

 同じ砂色の髪。同じアイスブルーの目。顔は骸骨同然に痩せていたが、復元すればもとの、快活で素直そうなライアン青年の顔に戻るように見えた。
 それでも一箇所だけ、どうしても一致しないところがあった。

 肩がちがう。
 ライアンの写真は、水泳で鍛えたのびやかな広い肩をしていた。
 が、目の前の犬は肩幅まで痩せている。ライアンと神父の背丈は同じぐらいのはずだったが、並ぶと犬はあきらかに1インチ低かった。
 どれだけ痩せても、背丈までは痩せないだろう。

 酔いが覚めた。
 けたたましい騒ぎが起きた。夫人は一瞬、気をうしない、目を醒ますと号泣した。

「この、酔っ払い!」

 あんなに期待させておいて、とわたしにパンチを浴びせる。
 亭主のほうはそれほど過激ではなかったが、まぬけな失敗にイヤミを押さえきれずにいた。

 ようやくふたりを送り出すと、グリーンウッド神父はヒクヒクと口の端をふるわせた。

「ラロ。いつから、騙されていた?」

 わたしは砕けるほど奥歯を噛みしめていた。酒のせいでしくじったわけではない。

「最初からです」

 神父は破裂するように爆笑した。椅子につかまり、よろけ、壁を叩いて笑いころげる。ひとしきり笑い、

「いやはや、中国はニセモノ天国だというけれど――」

 とまた爆笑する。
 笑いごとではない。わたしは恥辱と怒りに血を噴きそうになっていた。

(あのクソチャイニーズ!)

 最初から、別の犬を見せられたのだ。どこの馬の骨だかわからない安い犬を、五百万ドルで売りつけられたのだ。

「テレビ局を呼ばなくてよかったね」

 ひとの悪い神父はまだケタケタ笑っている。

「すぐアリゾナに戻ります」

 わたしは痩せ犬の腕をつかんで引っ張り上げようとした。が、神父がその手を押さえる。

「何をする気だ」

「交換するんですよ。ライアンと!」

「バカなこと言うんじゃない。この子も被害者なんだよ」

 わたしはむっと犬を見た。
 犬は背をまるめ、こごえるようにふるえていた。にぎられた手には火傷の痕があった。うなだれた首には溝のように首輪の痕がついている。
 
 ――だが、こいつは二ヶ月も黙ってやがったのだ!

「だいじょうぶだよ」

 神父は笑いながら犬の前にしゃがんだ。犬の傷だらけのこぶしに手を触れ、

「きみはこれで解放だ。きみは何も悪くない。自由だよ。自分の家に帰れるんだ」

 迷子の幼児をなだめるように、家はどこ、英語はわかる? などと聞いている。

 わたしは不愉快至極であった。
 このクソ犬を返さずに、ライアンも引き渡させろというのだろうか。莫大な支出だ。あの不誠実な主人をそんなに喜ばせていいものか。

「ご家族に迎えに来てもらわなくちゃいけないね」

 グリーンウッド神父は立ち上がり、わたしに微笑みかけた。

「ラロ。この子の身元を割り出す間、きみのとこで彼を保護してくれないか」

 わたしは見返した。

「なぜ、わたしが」

「きみ独身だし」

 独身だが、ヒマではない。わたしはこれから大急ぎで名誉を回復しなければならない。このいまいましいワン公の世話などもってのほかである。
 だが、グリーンウッド神父は涼しい顔で言った。

「わたしはこれからアリゾナに飛ばなければならない。誰かさんの尻拭いをしにね。おそらく誰かさんは、愚かにもライアンを引き取るのにあと数百万ドル使おうなんて考えているが、それじゃ悪い奴らを喜ばせてしまう。もう金は使わない。ビタ一文出さずにライアンを解放させるには、――わたしが行くしかないのさ」




「キッチンはそこ。バスルームはそこ。この家にゲストルームはない。きみはソファで寝ろ」

 だが、ソファは新聞と雑誌の山が占拠している。それを片づけながら、わたしは悶々とこの事態を呪った。

(あのクソ神父! サド神父!)

 自分をコケにした犬の面倒を見させるなど、いやがらせ以外の何ものでもない!

 これは彼流のペナルティなのだ。わたしはドジを踏んだ。エクソダスの信用を損なった。こんこんちきだ。そうとはけして言わないところがイヤらしい。

『復讐したい気持ちはわかるよ』

 神父はいいわけした。

『だが、侮られたのはきみじゃない。エクソダスだ。わたしだ。今後、模倣犯を防ぐためにも、リー氏には痛い目に遭わせなければならない。だが、ストレートにぶん殴って、ヴィラに駆け込まれてもこまるんだ。復讐には少し工夫がいるんだよ』

 ゆるしてくれ、エドゥアルド、と微笑んだ。見上げたグリーンの眸が笑みをふくんで甘かった。どぎまぎするほど優しかった。思い出すだけで、怒りが鈍ってしまう。

(いつもアレでやられる)

 わたしは憮然と、雑誌をラックに放った。
 グリーンウッド神父と知り合って二年。彼の愛嬌ゆえに、何度もボランティア同然のエクソダスの仕事を請け負った。

 やっかいな仕事だ。
 ヴィラ・カプリはさらった若者にバカ高い値段をつける。時に一億ドルというとんでもない値段をつけられる者もいる。
 そんな連中を救出に行かねばならない。

 若者を買った変態主人の家へお邪魔して、家族のもとへ帰してくれと頼むのだ。主人がタダで手放す場合もあるが、たいがいは数百万ドルという身請け金が必要になる。

 家族は泣くばかりで金などもたない。エクソダスの財布から出すのである。
 かくして、主人と金額をめぐって火花を散らすことになる。

 グリーンウッド神父が、わたしにまかせたのはこんな大仕事だ。
 なのに、褒美はほとんどない!
 彼のからだを腕に抱いたのは一度だけ。それも彼が眩暈をおこした時に手を貸した、それだけだ。

(阿呆だ! クソだ!)

 わたしは雑誌を乱暴に投げつけた。考えれば考えるほどバカらしい。

 ――いつまでもおとなしくしていていいものか。

 そろそろ、あのスータンを引き裂いて報酬の取り立てをすべきではないか。

 思わず雑誌を握りしめた時、ふと、立ち尽している犬に気づいた。
 犬は小刻みに震え、顔を苦しげに歪めている。

「なんだ」

 何か言うのかしら、と見つめていると、犬はこぶしで自分の股間をおさえ、身をかがめた。

「?」

 見たようなポーズだ、とおもった。その時、

「ウウ」

 うめき声がしぼりだされると同時に水音が重く布を打った。
 わたしは目を剥いた。

 犬のズボンがみるみる黒く濡れていく。あわてたが、どうしたらいいかわからない。
 あれよあれよという間に足元の水溜りが池のように広がった。

 犬の放尿は長かった。優に一分はあった。
 ようやく放尿がやんだ時、犬は面目なさそうにうつむいた。濡れたズボンを隠すようにこぶしで押さえている。

 おそるべき無作法をしたのだとはわかっているようだ。だが、膀胱をカラにしてスッキリしてもいた。

 わたしはこの犬が一日トイレに行かなかったことを思い出した。

 ――もしかして。

 おそるおそる聞いた。

「もしかして、おまえ、ひとりで小便もできない、のか」



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