第22話


 その日、ファビオは夜遅く、病室に入った。

「遅くなってごめん。さっきLAから戻ったんだ」

 オーバーを脱いで、小さな包みを取り出す。

「メリークリスマス」

 クロフォードの寝顔にキスして、包みを彼の枕もとに置いた。「マフラー。あんたの髪の色に合うと思うよ」

 ファビオは椅子を引いて、腰をおろした。

「さっき、飛行機の中でクロスワードやってたら、懸賞でエジプト旅行ってのがあったんだ。全部埋めて応募するよ。楽しみだろ。――当たったらどうやって行こうか」

 クロフォードが倒れ、二ヶ月が過ぎた。状態に変化はない。
 ファビオは毎日、病院に通い、クロフォードの体を拭いたり、髭を剃ったり、世話をしながら、答えない相手にひとりしゃべりつづけた。

「あんたのベッドを運ぶには、やっぱり特別便がいると思うんだ。そうするとやっぱ懸賞は無理かな――寄付だな。ニールになんかお涙記事でも書いてもらってさ。全米の金持ちから寄付を募る。飛行機はそれでOKだ。肝心のピラミッドだが、あれだって、あきらめなくていい。寝たままでも登る方法を考えるよ。なんたって、古代の人間があの石を積み重ねられたんだからさ。あんたのベッドぐらいわけないだろ。てっぺんまで登ったらさ、あんたに言いたいことがある。逆立ちして、あんたにこう言うんだ――おれは……」

 ファビオは動かないクロフォードの顔を見つめた。
 寝顔はすっかり骨が透けている。糸のような細い息をのこして、異界に移り住んでいるようだった。

「……おれは、あんたのために、地球を持ち上げてやるって」

 ファビオはクロフォードの顔を見つめた。ほんの少しでも変化がないかと待っていた。
 寝顔は石のように沈黙したままだった。

 ファビオは目を伏せた。また目玉が熱く、重くなっていた。感情の塊がごろりと胸にせりあがってくる。

「なんか言ってくれ」

 ファビオは顔をそむけ、洟をすすった。「いいかげん、寝すぎだろ。もう起きてくれ。クリスマスなんだよ。メリークリスマス! 言って! おれへのプレゼントは? 少しは気のきいたこと言えよ。また言ってくれ。おれが好きだって。また言って――」

 ファビオは顔をゆがめた。シーツに置かれたクロフォードの手のひらに頬を乗せて、嗚咽した。

 点滴を通した手はひどく冷たい。ひどくそっけない。

「……フランシス。もうクリスマスなんだよ」

 クロフォードの体は静まったままだった。ファビオは目をとじ、湿った息をふるわせながら、興奮が引くのを待った。

 なぜ、こうしているのか、とおもった。
 クロフォードは彼に語りかけない。
 切れ者のエグゼクティブでも、蟲惑的な恋人でもなくなってしまった。痩せた体だけが、死を待って横たわっている。
 その傍らで、ファビオはいつまでも番犬のように待っていた。

(こんなタイプじゃないんだよ、おれは。病人に毎日、見舞いにくるような、そんな男じゃなかったんだ)

 ファビオは湿った声でつぶやいた。

「おれはリッチになりたかったんだ。フロリダの豪邸。ジェット機、BMW。ブロンド美人の女房と1ダースの愛人。なんでこんなになっちゃったんだ? なんでおれはあんたの番をしているんだ? あんたは男だし、植物状態だ。キスどころか、話しかけてもくれない。おれは何をやってるんだ? クリスマスなのに、ひとりで、たったひとりで」

 すねてみたかった。
 フロリダの豪邸など欲しくなかった。
 ジェット機も何も欲しくない。

 明日もやはり帰ってくるだろう。食べないチョコレートを買い、警備員に冗談を言い、病院に入ってくるだろう。動かない恋人を相手に、しゃべりつづけるだろう。

 永久にその日が来ないとしても、ファビオはここにいるとおもった。寒空の下の獣が身を寄せ合うように、ただその体温を慕ってそばにいる。小さな灯を守ってそばにいるだろう。

 彼は小さく苦笑いした。

「――亭主だからな。病める時も、健やかなる時も……」

 狂騒の時はおわった。
 ファビオはもう何も願わなかった。絶望はおだやかだった。帰るべき海に錨を落としたような、さびしい安堵感があった。

 ファビオは疲れて目を閉じた。クロフォードの冷たい手に頬を預けてまどろみかけた。

 彼は荒野にいた。
 清涼な月の下、小石の散る荒野が、地平まで続いていた。木もなく、泉もなく、見渡す限り石だらけの暗い地が、月の下に無言でひろがっていた。

 そこに、クロフォードとふたりで立っていた。
 ふたりではるかな地平を見ている。

 暗がりの中、月光を受けたクロフォードの横顔は青白く冴えていた。しずかに地平を見つめる眸は澄んで凛々しく、唇には微笑が灯っていた。
 ファビオは見惚れた。うれしくなって笑った。

――ダーリン、あんたはきれいだ! あんたはなんてきれいなんだ。好きだ。あんたが好きだ。気が狂いそうに好きだよ。

 ふたりでいることがうれしかった。わけもなく踊り出したいほどうれしく、ファビオは浮かれ、笑っていた。


 不意に目を醒ますと、ファビオは歯茎に妙な痛みを感じた。唇がめくれていた。
 彼は気づき、息をのんだ。クロフォードの指がよわよわしく曲がり、もがくように彼の唇をねじまげていた。






 クロフォードは意識を取り戻した。
 うっすらと目をあけ、目玉を動かしてファビオを見た。
 しばらく声を出すことができずにいたが、医師が問いかけると、かすかに目でうなづいた。
 記憶もしっかりしていた。話せるようになると、彼は自らミケーレ・ブレガに電話をして、事の顛末をたずねた。ドン・ニコラが死に、彼の所有権が消えたことを確認した。
 二週間後、退院が決まった。

「フランシス」

 ファビオは病室をのぞいて、鼻息をついた。「また、トレード? もう出るぞ」
 クロフォードは聞かず、ノートパソコンの画面に見入っている。ファビオはモニターをつかんで閉じようとした。

「やめろ」

「もうタクシーが来てる」

 わかった、と言って、クロフォードは動かない。
 ファビオは車椅子を傍らに寄せると、いきなり、クロフォードの膝を抱えた。

「わ」

 パソコンごと車椅子に乗せる。コートをかぶせ、荷物をとると、強引に車椅子を押し出した。引きずられ、アダプターがはずれる。

「ああ」

 クロフォードはため息をついて、ノートを閉じた。「二万ドルが」

「財テクばっかりしやがって」ファビオは憤然と車椅子を押した。

「たった三日でおれの年収分儲けやがって。リハビリもしてないくせに、就職先も決めやがって。おれの甲斐性に対するイヤミ?」

「エジプト旅行資金」

 クロフォードも憮然と言った。「ピラミッドに登りたいって言ったろう」

 ファビオは目をしばたいた。

「ごめん」

 クロフォードは軽く手を振った。
 タクシーに乗り込むと、クロフォードは運転手に言った。「セントラル・パークへ」
 いぶかるファビオに微笑む。「娑婆が見たい。久しぶりに」

 五番街でタクシーをおり、ファビオに車椅子を押させる。通りを見ると、クロフォードはうっすらと口を開いた。

 街は新年のイルミネーションに飾りたてられ、にぎにぎしかった。華やかなショーウインドウの前を人々が白い息を吐きながら、足早に過ぎていく。
 警官と言い争う中年男の声。クラクション。子どものわめき声が跳ね上がる。石の街を過ぎるタクシーの黄色が目に飛び込んでくる。
 音と色彩を浴び、クロフォードは打たれたように目を瞠った。

 ファビオは車椅子を押し、セントラル・パークへ入った。枯れ葉を踏んで、裸の木々の下をすぎる。都会の息吹は木々の間にも漏れ聞こえていた。

 彼はコーヒーを買って、クロフォードに手渡し、自分は傍のベンチに腰をおろした。

 クロフォードは黙って木々の間の高層アパートを見ていた。やがて、目をとじた。

 ファビオはコーヒーをすすり、恋人の白い横顔を見つめた。
 クロフォードは額に冬の陽を浴びて、目を閉じている。日なたをなつかしむように陶然と陽に顔をさらしていた。

 ふと、その白い頬がこわばった。長い睫毛が濡れて光っていた。眉がしかめられ、顎がかすかにふるえていた。
 コーヒーの紙コップが落ちた。

 ファビオは立ち上がり、恋人の頭を抱いた。クロフォードの指が痛いほどにしがみつく。咽喉から、嵐のかけらのような息がこぼれた。
 無音の絶叫が大気をふるわせた。

 猛々しいものがファビオの頬をぴりぴりとすぎる。ファビオは恋人の背を抱き、空を見上げた。

 光がふりそそいでいた。洗い流すような清冽な光がふりそそぎ、骨となった木々を明るく輝かせていた。枝は濡れたように光り、水晶のように光を散らす。塵すら光の羽根となって舞った。
 風は冷たく、きよらかだった。
 神聖な冬の陽と、冷たい風の中、ファビオは黙って恋人を抱き、木々の高みを見つめた。

 やがて、クロフォードが額を離した。濡れた目をあげ、はにかむように微笑った。

「ありがとう。もう済んだ。連れて行ってくれ。きみの家に。――あれを作ってくれないか」

「なに」

「目玉焼き」

「もちろん」

 ファビオは笑い、車椅子を押した。




               ―― 了 ――





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