その日、ファビオは夜遅く、病室に入った。
「遅くなってごめん。さっきLAから戻ったんだ」
オーバーを脱いで、小さな包みを取り出す。
「メリークリスマス」
クロフォードの寝顔にキスして、包みを彼の枕もとに置いた。「マフラー。あんたの髪の色に合うと思うよ」
ファビオは椅子を引いて、腰をおろした。
「さっき、飛行機の中でクロスワードやってたら、懸賞でエジプト旅行ってのがあったんだ。全部埋めて応募するよ。楽しみだろ。――当たったらどうやって行こうか」
クロフォードが倒れ、二ヶ月が過ぎた。状態に変化はない。
ファビオは毎日、病院に通い、クロフォードの体を拭いたり、髭を剃ったり、世話をしながら、答えない相手にひとりしゃべりつづけた。
「あんたのベッドを運ぶには、やっぱり特別便がいると思うんだ。そうするとやっぱ懸賞は無理かな――寄付だな。ニールになんかお涙記事でも書いてもらってさ。全米の金持ちから寄付を募る。飛行機はそれでOKだ。肝心のピラミッドだが、あれだって、あきらめなくていい。寝たままでも登る方法を考えるよ。なんたって、古代の人間があの石を積み重ねられたんだからさ。あんたのベッドぐらいわけないだろ。てっぺんまで登ったらさ、あんたに言いたいことがある。逆立ちして、あんたにこう言うんだ――おれは……」
ファビオは動かないクロフォードの顔を見つめた。
寝顔はすっかり骨が透けている。糸のような細い息をのこして、異界に移り住んでいるようだった。
「……おれは、あんたのために、地球を持ち上げてやるって」
ファビオはクロフォードの顔を見つめた。ほんの少しでも変化がないかと待っていた。
寝顔は石のように沈黙したままだった。
ファビオは目を伏せた。また目玉が熱く、重くなっていた。感情の塊がごろりと胸にせりあがってくる。
「なんか言ってくれ」
ファビオは顔をそむけ、洟をすすった。「いいかげん、寝すぎだろ。もう起きてくれ。クリスマスなんだよ。メリークリスマス! 言って! おれへのプレゼントは? 少しは気のきいたこと言えよ。また言ってくれ。おれが好きだって。また言って――」
ファビオは顔をゆがめた。シーツに置かれたクロフォードの手のひらに頬を乗せて、嗚咽した。
点滴を通した手はひどく冷たい。ひどくそっけない。
「……フランシス。もうクリスマスなんだよ」
クロフォードの体は静まったままだった。ファビオは目をとじ、湿った息をふるわせながら、興奮が引くのを待った。
なぜ、こうしているのか、とおもった。
クロフォードは彼に語りかけない。
切れ者のエグゼクティブでも、蟲惑的な恋人でもなくなってしまった。痩せた体だけが、死を待って横たわっている。
その傍らで、ファビオはいつまでも番犬のように待っていた。
(こんなタイプじゃないんだよ、おれは。病人に毎日、見舞いにくるような、そんな男じゃなかったんだ)
ファビオは湿った声でつぶやいた。
「おれはリッチになりたかったんだ。フロリダの豪邸。ジェット機、BMW。ブロンド美人の女房と1ダースの愛人。なんでこんなになっちゃったんだ? なんでおれはあんたの番をしているんだ? あんたは男だし、植物状態だ。キスどころか、話しかけてもくれない。おれは何をやってるんだ? クリスマスなのに、ひとりで、たったひとりで」
すねてみたかった。
フロリダの豪邸など欲しくなかった。
ジェット機も何も欲しくない。
明日もやはり帰ってくるだろう。食べないチョコレートを買い、警備員に冗談を言い、病院に入ってくるだろう。動かない恋人を相手に、しゃべりつづけるだろう。
永久にその日が来ないとしても、ファビオはここにいるとおもった。寒空の下の獣が身を寄せ合うように、ただその体温を慕ってそばにいる。小さな灯を守ってそばにいるだろう。
彼は小さく苦笑いした。
「――亭主だからな。病める時も、健やかなる時も……」
狂騒の時はおわった。
ファビオはもう何も願わなかった。絶望はおだやかだった。帰るべき海に錨を落としたような、さびしい安堵感があった。
ファビオは疲れて目を閉じた。クロフォードの冷たい手に頬を預けてまどろみかけた。
彼は荒野にいた。
清涼な月の下、小石の散る荒野が、地平まで続いていた。木もなく、泉もなく、見渡す限り石だらけの暗い地が、月の下に無言でひろがっていた。
そこに、クロフォードとふたりで立っていた。
ふたりではるかな地平を見ている。
暗がりの中、月光を受けたクロフォードの横顔は青白く冴えていた。しずかに地平を見つめる眸は澄んで凛々しく、唇には微笑が灯っていた。
ファビオは見惚れた。うれしくなって笑った。
――ダーリン、あんたはきれいだ! あんたはなんてきれいなんだ。好きだ。あんたが好きだ。気が狂いそうに好きだよ。
ふたりでいることがうれしかった。わけもなく踊り出したいほどうれしく、ファビオは浮かれ、笑っていた。
不意に目を醒ますと、ファビオは歯茎に妙な痛みを感じた。唇がめくれていた。
彼は気づき、息をのんだ。クロフォードの指がよわよわしく曲がり、もがくように彼の唇をねじまげていた。
クロフォードは意識を取り戻した。
うっすらと目をあけ、目玉を動かしてファビオを見た。
しばらく声を出すことができずにいたが、医師が問いかけると、かすかに目でうなづいた。
記憶もしっかりしていた。話せるようになると、彼は自らミケーレ・ブレガに電話をして、事の顛末をたずねた。ドン・ニコラが死に、彼の所有権が消えたことを確認した。
二週間後、退院が決まった。
「フランシス」
ファビオは病室をのぞいて、鼻息をついた。「また、トレード? もう出るぞ」
クロフォードは聞かず、ノートパソコンの画面に見入っている。ファビオはモニターをつかんで閉じようとした。
「やめろ」
「もうタクシーが来てる」
わかった、と言って、クロフォードは動かない。
ファビオは車椅子を傍らに寄せると、いきなり、クロフォードの膝を抱えた。
「わ」
パソコンごと車椅子に乗せる。コートをかぶせ、荷物をとると、強引に車椅子を押し出した。引きずられ、アダプターがはずれる。
「ああ」
クロフォードはため息をついて、ノートを閉じた。「二万ドルが」
「財テクばっかりしやがって」ファビオは憤然と車椅子を押した。
「たった三日でおれの年収分儲けやがって。リハビリもしてないくせに、就職先も決めやがって。おれの甲斐性に対するイヤミ?」
「エジプト旅行資金」
クロフォードも憮然と言った。「ピラミッドに登りたいって言ったろう」
ファビオは目をしばたいた。
「ごめん」
クロフォードは軽く手を振った。
タクシーに乗り込むと、クロフォードは運転手に言った。「セントラル・パークへ」
いぶかるファビオに微笑む。「娑婆が見たい。久しぶりに」
五番街でタクシーをおり、ファビオに車椅子を押させる。通りを見ると、クロフォードはうっすらと口を開いた。
街は新年のイルミネーションに飾りたてられ、にぎにぎしかった。華やかなショーウインドウの前を人々が白い息を吐きながら、足早に過ぎていく。
警官と言い争う中年男の声。クラクション。子どものわめき声が跳ね上がる。石の街を過ぎるタクシーの黄色が目に飛び込んでくる。
音と色彩を浴び、クロフォードは打たれたように目を瞠った。
ファビオは車椅子を押し、セントラル・パークへ入った。枯れ葉を踏んで、裸の木々の下をすぎる。都会の息吹は木々の間にも漏れ聞こえていた。
彼はコーヒーを買って、クロフォードに手渡し、自分は傍のベンチに腰をおろした。
クロフォードは黙って木々の間の高層アパートを見ていた。やがて、目をとじた。
ファビオはコーヒーをすすり、恋人の白い横顔を見つめた。
クロフォードは額に冬の陽を浴びて、目を閉じている。日なたをなつかしむように陶然と陽に顔をさらしていた。
ふと、その白い頬がこわばった。長い睫毛が濡れて光っていた。眉がしかめられ、顎がかすかにふるえていた。
コーヒーの紙コップが落ちた。
ファビオは立ち上がり、恋人の頭を抱いた。クロフォードの指が痛いほどにしがみつく。咽喉から、嵐のかけらのような息がこぼれた。
無音の絶叫が大気をふるわせた。
猛々しいものがファビオの頬をぴりぴりとすぎる。ファビオは恋人の背を抱き、空を見上げた。
光がふりそそいでいた。洗い流すような清冽な光がふりそそぎ、骨となった木々を明るく輝かせていた。枝は濡れたように光り、水晶のように光を散らす。塵すら光の羽根となって舞った。
風は冷たく、きよらかだった。
神聖な冬の陽と、冷たい風の中、ファビオは黙って恋人を抱き、木々の高みを見つめた。
やがて、クロフォードが額を離した。濡れた目をあげ、はにかむように微笑った。
「ありがとう。もう済んだ。連れて行ってくれ。きみの家に。――あれを作ってくれないか」
「なに」
「目玉焼き」
「もちろん」
ファビオは笑い、車椅子を押した。
―― 了 ――
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