ジョーディの旅




 バスから降りると、ジョーディはいそいそと路肩に寄った。
 ファスナーをおろし、ていねいにペニスをつまみだす。

 放尿はひどく気持ちよかった。
 頭から力が抜け、目玉がじんわりと落ち着く。

 長い小便を終えると、彼は律儀にペニスを振った。ていねいにしまい、ファスナーをあげ、手もハンカチで拭いた。身じまいは完璧だ。

 ここで『グッドボーイ』のひとことがあるべきだ。レモンアイスのごほうびが。

 しかし、あの葉巻を咥えた大男はどこへ行ってしまったのだろう。
 誇らしげな愛情いっぱいの黒い目は。

 ジョーディは、地平までまっすぐ伸びたアスファルトの道を見つめた。




 シカゴ――。
 グリーンウッド神父は番地をたしかめ、古いアパートに入った。

 警備室はあったが、警備員はいなかった。神父は誰にとがめられることもなく、エレベーターに乗ることができた。
 エレベーターが上昇する間、神父は大柄な友人を思った。

 ラロが電話に出ない。
 仕事中、ではない。

 彼は怪我をしている。それに、仕事中であろうと、用がなかろうと、うるさく電話をかけてくる男だ。
 沈黙はよくない兆候だった。

 神父はひとつのドアの前に立ち、ノックした。

「わたしだ。ラロ、開けてくれ」

 沈黙は長かった。
 神父は待ち続けた。友だちだ。待ってやらねばなるまい。

 ラロは怪我をしている。大きなものをうしなって、ぼう然としている。あの愚かな男は、酒を飲む以外、おそらく何もできずにいるのだろう。

「ラロ。いるんだろう?」

 グリーンウッド神父はもう一度、呼びかけた。

「話したくないならいい。でも、気がむいたら、教会に来なさい。電話でもいい」

 そう言った時、鍵の開く気配がした。
 ドアが開いた途端、異臭があふれ出た。
 赤い目がぬっとのぞいた。

「やあ。ファーザー」

 不精髭の中から、かすれた声が言った。

「どうぞ。散らかってるけど」
 



 部屋はひどいにおいがした。
 酒くささ、葉巻と腐敗した生ゴミの金属的なにおいがする。バスルームからはアンモニア臭すらにおっていた。

「窓開けるよ」

 神父はブラインドカーテンを引き上げ、窓を開いた。
 光の入った部屋で、酒の空き瓶がきらきらと光っていた。
 汚れた洗濯物と食べものの箱が散乱している。空の酒瓶が中央にうず高く積まれ、山となっていた。

「ピラミッド」

 ラロはゴミの間で手のギプスをいじっていた。

「あと五六本飲めば均等になるんじゃないかな」

 神父は声をかけるのをあきらめた。キッチンへ行き、ゴミの袋をさがす。
 シンクには吐瀉物が悪臭を放っていた。蛇口を開けて、それを水で流す。
 ゴミ袋をさがし、手に触れるものを片端から突っ込んだ。

 ――だから、よせと言ったのに。

 悪臭に眉をしかめながら、神父はせっせと手を動かした。

 ラロはジョーディを施設に入れた。
 愚かな頭でそう決断し、自分でジョーディをニュージャージーまで連れて行った。
 シカゴにも施設はあったが、彼は近くにはジョーディを置かなかった。

(これがあいつのためなんです)

 意見は一切、聞かなかった。

 神父がまだ残っているバーボンの瓶を拾った時だった。
 ギプスでおおわれた腕が、突然、腹に巻きついた。とたん、後方にからだが吹っ飛び、太い腕に抱きしめられた。

(!)

 酒臭い唇が首筋に触れている。重いからだが巻きつき、手のひらが荒々しくからだを撫でまわしていた。

 ――こいつ。

 グリーンウッド神父は、身をかたくした。
 だが、すぐに気づいた。

 酒のにおい。そのなかに涙のにおいが混じっている。
 乱暴な腕のなかに助けを求める悲鳴が響いている。

(……)

 ラロが顔をおさえ、口づけようとした時、神父は抵抗するのをやめた。しずかに言った。

「抱いてもいいが、これでわたしたちの友情は終りになるよ」

 ラロのにぶい目に無音の葛藤がよぎった。彼は神父を放し、うなだれた。
 グリーンウッド神父は立ち上がった。

「シャワーを浴びて、髭を剃って来い。話は、この部屋の床を救い出してからだ」




 二週間前、ラロは買い物袋を両手に自分のアパートに帰った。

 アパートに帰るのが、小さな楽しみになっていた。
 以前はごそごそと鍵を探し、三つの鍵を開け、暗い部屋に入って自分で電気をつけた。静まり返った部屋に、自分だけのにおいがした。

 いまは玄関の前に立てば、ジョーディが鍵を開ける。
 ジョーディは窓から通りを見ているらしい。ラロがアパートに戻るとわかった。彼はかならず玄関の前で待機していた。

 お帰り、こそ言わないが、彼は玄関に立って待っている。
 ジョーディは笑わない。ほとんどの表情が出ない。

 性奴隷として過ごした間の長い虐待が、脳の複雑な神経を切断してしまっている。だが、そのからだにはたしかに喜怒哀楽があった。

 ――スノウバードに寄ってきたぞ。

 そういうと、おみやげだとわかる。青い目をぱちぱちとまばたきして、少し落ち着かなくなる。肩に幸せそうな色が灯るのだ。

(おれも年かな)

 ラロは自分でおかしく思った。
 あんな無愛想な同居人でも、待っていると思うとうれしい。ジョーディと一年暮らしたが、ふしぎとこの生活が気に入っていた。

 彼は自分の部屋の前に立った。
 しかし、鍵が開かない。

(トイレか?)

 さほど気にならなかった。手が買い物袋でふさがっていて、早く荷物を降ろしたかったせいもある。
 無防備に鍵を開け、ドアを開いてしまった。

「やあ、パスカル」

 玄関の前には、痩せた中年男が、腕にジョーディを抱えて立っていた。
 ジョーディの頬には黒い銃口がめりこんでいる。

「ドアを閉めて、中へはいんな。そいつは下において」



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