「イアン、なんとかしてくださいよ。これで3件目ですよ。彼は向いてない。やめさせたほうがいい」
「あの、アキラ」
「あいつはアクトーレスじゃない。ご主人様なんだ。金を払って遊ぶべきだ」
「アキラ、あのさ」
「おれが家令に怒られたんですよ。なんでおれが怒られるんです?」
OK、とおれは掌で彼の口をふさいだ。東洋人は切れ長の目を瞋らせた。
「わかった。わかったよ。でも、新人の教育担当はオプティオにまかせてある。ラインハルトに言ってくれないか」
「たらいまわしにするんですか!」
おれは怒れる東洋人の胸をたたいてなだめた。アキラは一年半前、おれのデクリアに来た。有能だが、無能な仲間に寛容ではない。
「今回はおれがキーレンに話をする。だから、次はラインハルトにたのむ。分業しないと身がもたないんだ。本当だ」
「ラインハルトは役にたちませんよ!」
アキラはかわいい鼻にしわをよせた。「葬式の家の犬みたいにしょげこんじゃって、指でつっついたら倒れちまいますよ」
おれはどっぷり疲れて部屋に帰った。
コーヒーメーカーに残った冷たいコーヒーをすする。ソファにへたりこむと服をぬぐのも億劫になってしまった。
毎日、あわただしい。
会議が多い。新人がうまく育っていない。おれのデクリアだけがボーイスカウトのチームみたいに幼稚だ。
携帯電話を取り出すと、メッセージが入っていた。
『おれだ。きみのかわいい愛人。レオポルド・アンジェロ・レオーネさまだ』
恋人のおどけた声にわずかに頬がゆるむ。
『――悲しいお知らせがひとつある。次のタスマニア旅行、延期だ。おれも悲しい。中国人にならっていうと、腸のちぎれる思いだ。中国人はすごいな。腸がちぎれるってどんなだ? とにかく、目途がつき次第連絡するから、待ってろ。チャオ』
おれはためいきをつき、携帯電話を仕舞った。
恋人のレオポルドとタスマニアの休暇を決めてから半年。邪魔が入って、いまだ実現していない。
二回はおれの仕事の都合で、二回は彼の都合だ。
彼の組織はまだ地盤があまい。新勢力を認めさせるにはいろいろ苦労があるのだろう。
(永遠に行けないな)
おれはあくびをして、身をよこたえた。眠かった。眠いが、頭が動いて眠れない。
ティム以来の傑作、キーレン・アイルランドと話をしなければならなかった。そしてラインハルトとも。
「何も間違っていると思いませんね」
キーレンは鼻でわらった。
「あのまま行けば、犬は客に殴りかかった。おれを殴って、逃げたかもしれない。事前に注意してやって何がいけないんです」
「規則だからだ」
ラインハルトは辛抱強く言った。「調教は客のものだ。たとえ、主人の身に危険がせまっても口出しせずにサポートするのが」
「クソ規則だ」
「ああ?」
「ナンセンスですよ。だから、これほどのセキュリティがあるのにいつも犬が逃げるんだ。外で防備をかためても、中がだだもれだから」
彼は面倒くさそうに手を広げた。
「――いいですか。遊び方を知らずにパトリキになってしまう男もいるんです。金を払った。犬遊びだ。犬遊びとゴルフの区別がついていない。相手が死にものぐるいだって、わかってないんです。いくら自分でやりたいって言ったって、限度があるでしょう。手ほどきして危険な目に遭わせないのは最低限のサービスですよ」
「何がサービスかはおまえの考えることじゃなくて」
ラインハルトは苛々と言った。「おまえの仕事は、一にも二にも顧客満足だ。それだけだ。おまえの客は満足していない」
「それはヴィラの対応がおかしい」
「なに」
「あんたが客におれの意図を釈明すべきだ」
「あほか、おまえ」
「オプティオ、客の不満を感謝に変えるだけのことを言ってくれなきゃ、あんたの地位の意味はないよ」
キーレンは能弁だった。だが、結局へらず口にすぎず、何か主張があるわけではない。一方、ラインハルトは紋切り型のことしか言えない。
だんだん聞いているのがばからしくなり、おれはふたりを止めた。
おれはキーレンに言った。
「おまえの美学はよくわかった。だが、客にはいらんおせっかいだ。客が望んでいるとおりにしろ。それ以外はするな」
「あんたみたいに?」
キーレンは嗤った。「お客様の望むままに犬になって、ケツをふったり?」
「おい」
ラインハルトがネクタイをぐいと掴んで引き寄せる。
「おまえを這いつくばらせてやるのはわけないぜ」
「いいね。あんたみたいなハンサム大好物さ。来いよ」
おれは二枚貝みたいに貼りついたふたりを押し分けた。
「キーレン。次にクレームが来たら、ムーセイオンに戻す。行け」
「いいぜ。ムーセイオンだろうと仔犬館だろうと――」
「聞こえなかったのか」
行け、ともう一度言うと、彼は一瞬、ひらりと目を光らせた。そのまま何も言わずに出て行く。
続いてラインハルトが出ようとするのを呼び止めた。
「なに?」
おれは彼をソファに座らせた。
「カウンセリングしてやるよ。どうした? 最近」
ラインハルトはこの頃おかしい。若いライオンのようにうぬぼれ屋でにぎやかなこの男が、傍目にわかるほど元気がない。
「なにも」
「家で何かあったか」
ラインハルトは手をふった。話す気がないようだった。
「キーレンのことは悪かったよ。叱ってやるのもバカくさくて。――あれじゃティムのほうがまだマシだ。なんでまたあんなのが入ってきたのかな」
一年半前、アクトーレスが長期契約に変わる直前、このデクリアも3人入れ替わった。ティムとウォルフが抜け、レイモンドが飛ばされた。
「人間の集団があれば、2割が有能。6割がふつう。2割がお荷物になると決まってる」
「じゃあ、このデクリアの有能な2割はおれとおれか」
熱のない声で言って、ラインハルトは席をたった。
「しっかりやるよ、まかせてくれ」
「休暇――欲しいなら、いいよ。おれは必要ないから」
ラインハルトは微笑んだ。
「仕事中毒――いいって、おれも今はヴィラにいたいんだ」
だが、休ませればよかった。調教中、彼の犬が逃げた。
仔犬は特殊機関の人間だった。
ラインハルトは仔犬の足枷をはずそうとして、腰のテイザーをとられるという初歩的なミスをおかした。彼は全身に5万ボルトの電撃をくらって麻痺し、客はひどく殴られた。
「仔犬が逃げた。どうもモサドの人間らしい」
「プロの狙撃手だという話だ」
「ハスターティの銃を奪ったというぞ」
妙なうわさが流れ、ヴィラは一時騒然となった。
おれのオフィスには野次馬の電話がひっきりなしに鳴り、プリンキピア(軍団本営)にはてんでな発見情報が寄せられ、アクトーレス・マクシムスが特別に声明を出す騒ぎとなってしまった。
夕方、ハスターティが捜索犬を出そうという矢先、人騒がせな仔犬は客のひとりに取り押さえられた。
おれは逃亡犬の処遇について手続きした。ほうぼうへ釈明し、あやまり、夜遅くまでかかって報告書を作成する。
夜中、やっとオフィスを出ようとすると電話が鳴った。
『おたくのアクトーレスどもがパブで暴れてるぞ』
なんて日だろう。
おれはどんよりした気分で言われたパブに向かった。
ヴィラにはスタッフ用のインスラ(アパート)が集まっている地区がある。そのあたりの店は主にヴィラのスタッフが利用した。
おれはなじみの入り口へ入った。
外観はローマ風だが、戸をくぐるとふつうのブリティッシュ・パブだ。ただし、椅子が散乱し、皿と食べものが床に散り、人々は壁に張り付いていたが。
「デクリオン」
バーマンが苦い顔で言った。「弁償金はどこから出るのでしょうか」
「彼らのサイフからさ」
おれはフロアの真中で唸りながら組み合っているラインハルトとキーレンを見やった。
聞かなくても喧嘩の理由は明白だった。バカな小僧はラインハルトの失態をあざ笑ったのだ。
「水」
「え?」
「水とバケツ」
バーマンがバケツに水を満たしてバーカウンターにあげた。おれはそれをふたりの上にぶちまけた。
キーレンがまず手を放した。おれはそのずぶ濡れの襟首をひきあげ、立たせた。
つづいてラインハルトを引き起こす。彼はおれの手を払い、刃物のようにキーレンを睨んだ。
「ストップ」
おれは鼻息をついた。「理由はきかん。今日はもう部屋へ帰れ。明日だ」
「このカマ野郎が――」
言いかけたキーレンの頭に、おれはカラのバケツをぶつけた。さすがに彼も目を丸くした。
「おれは帰れと言ったんだ」
彼はおれを睨んだまま立ち尽くした。その唇をゆがめ、歯を剥いた時、ラインハルトが身をひるがえして出て行った。
(もう――)
今日はいったい何の日だ。
ようやくたどりついたインスラの玄関に酔っ払いがうずくまっていた。おれはうめきそうになった。
「何してるんだよ、ラインハルト」
ラインハルトの体は小刻みに揺れていた。その息は湿り、みじめな嗚咽にふるえていた。
おれはあきらめて、彼の傍に座った。 よくあることだ、と言いかけた時、彼が泣き声をあげた。
「ウォルフと別れた――」
おれは目をしばたいた。ウォルフ?
「彼、結婚するんだ、女と」
しばし、言葉をうしなった。
ウォルフガング・フォン・アンワースは同じデクリアにいた。農民のように肩ががっちりして、もの静かな男だった。おれの事件でヴィラに興醒め、一年半前に辞めた。
彼とラインハルトが恋仲だったとは知らなかった。
「おれと結婚するはずだったんだ。ドイツに帰って正式に結婚するって――裏切られた。殺してやりたいよ」
なんと言ったものか。
ラインハルトはその美貌に加え、男を蕩すのがうまい。たえず、複数の男と遊んでいる。まじめなウォルフにはつらい相手だろう。
「……まあ、ほかにも恋人はいるじゃないか」
「あんなのタダの浮気だよ!」
その浮気がいけないのだが。
彼の中のタブーの線引きがどうなっているのかよくわからない。
「ウォルフじゃなきゃダメなんだ。おれはウォルフじゃなきゃメチャメチャになってしまうんだ」
彼は顔を被って悲痛に泣いた。
気の毒だったが、おれはまわりの耳のほうが心配だった。一階の住人はきっと聞き耳をたてているだろう。
「わかった。おれの部屋で聞く。いい酒があるから」
ずぶ濡れの酔っ払いを引き上げるのは困難だった。ラインハルトは声をあげて泣き、その口をおさえながら運ばねばならなかった。
ようやく部屋へ引きずりいれる。
リビングのソファに座らせ、濡れたシャツを脱がせようとすると、いきなり襟をつかまれた。
「!」
引き倒され、頭を硬いものにぶつける。ラインハルトが上に乗っていた。しがみつき、酒臭い口でせわしなく顔にキスを浴びせていた。
おれは仰天して彼の首を引き剥がした。
「ばか。よせ」
「お願いだ、イアン。抱いてくれ」
(は?)
「たのむよ。さびしくて死にそうなんだ。おれが下でいいから」
彼の指が股間に触れ、おれはギクリと身をすくませた。
「ね、いいだろ」
ラインハルトのきれいな顔は青ざめていた。睫毛は濡れ、青い目は濡れ、唇はふるえている。捨て犬のように哀れみを求めていた。
おれは思わずその首を引き寄せた。
「フィリオ・ディ・プッターナ!」
場違いな声がリビングに響いた。ふりむくと、入り口にレオポルドの長身が黒々と立っていた。
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