おれは反射的にラインハルトを突き放した。
「レオポルド、なんでいるんだ」
「いたら悪いのか。おれはおまえの亭主だぞ。おまえが恋しいとなれば飛んでくるさ。いたら悪いのか。邪魔なのか」
「昨日、来れないって言ったろう」
「来れない、即浮気か。いいさ、やれよ。くそったれが」
わめいているうちに、彼はいよいよ激昂し、イタリア語で怒鳴りだした。唾を飛ばし、手をふりまわして罵詈を浴びせる。
おれがうろたえて言葉も返せずにいると、傍らでラインハルトがゲラゲラ笑った。
「くそったれか! ファンクーロ! ポルカ・プッターナ!」
ラインハルトはさっと身を起こすと流暢なイタリア語でわめき返した。
レオポルドの目が丸くなる。ラインハルトは市場のイタリア女のようなけたたましさでまくしたてた。レオポルドが反撃するが、ラインハルトは笑い声さえあげて、応酬した。
「オオ、アモーレ! ミオ・テゾーロ!」
いきなりおれの首を引き寄せ、音をたててキスする。おれは飛びのいた。
「よせよ」
恋人の顔が怒りに蒼ざめている。こめかみに血管が浮いていた。
――このふたりにも水をぶっかけるべきだろうか。
そう思った時、レオポルドがだっと部屋を駆け出した。
「レオポルド」
「はは、行っちまった」
ラインハルトは笑い、にわかにぐっと背を丸めた。床に盛大に吐いた。
「つ」
ベッドに戻ると、なにかに足指をぶつけた。今日はしまいまでついていない。
ラインハルトは吐くだけ吐くと高いびきをかいて寝てしまった。後片付けをしているうちに、夜中の三時だ。
「ああ、おまけになんだこれは」
ダンボール箱だった。そんなものがおれの部屋にあったろうか。
灯りをつけると、ダンボール箱にはイタリア語が並んでいた。意味はわからないが、箱に印刷された写真はなんだかわかる。
エスプレッソ・マシーンだ。
レオポルドはこれを持ってきたのだ。
おれはまたズボンを穿くとシャツをとって、部屋を出た。
ドムス・アウレアのレセプションでは少しまごついた。アクトーレスがアポなしで客の部屋をたずねることはあまりない。ましてや、アンジェロ・レオーネ氏はパトリキ専用フロアにお泊りだ。
なんとか理由をこねあげてフロアにあがると、温容を引き攣らせたフロア・コンシェルジュがむかえた。
彼はなんの文句も言わず、レオーネ氏の部屋のドアを教えた。
「レオ、おれだ」
呼びかけてもノックをしても、反応がない。
「レオーネ氏はパーティの最中ですよ」
コンシェルジュに言われ、ドアを開けてみると大音量が飛び出てきた。中はピンク色の人間の裸で埋め尽くされていた。
「よお、イアン!」
大理石のプールのようなバスルームに彼はいた。泡風呂の中で四人の美青年を腕に抱き、機嫌よく呼びかける。
「入れよ。こいつらみんなここの客なんだ。お仕置きしてやってくれ。みんな、こいつはプロのアクトーレスだ。覚悟しろよ!」
くすぐったらしく、青年たちが悲鳴のように笑う。レオポルドはわめいた。
「シャンパンはどうした。おれのイロに一杯さしあげてくれ。浮気者の尻軽女に」
傍らからシャンパンのワゴンが入ってくる。おれは入れ替わりに部屋を出た。
もう我慢ならない。何もかもうんざりだった。
「キーレン」
翌日、おれは自分のデクリアをオフィスに集めた。
口を青痣で腫らしたキーレンが憮然と進み出る。
「かかって来い」
彼は眉をひそめた。
「おまえがどれほど男らしくて、強いのか見たいんだ。かかってこいよ」
「ああ、おれよりラインハルトのほうが」
おれは彼の顎を殴りつけた。キーレンが派手にひっくりかえる。
「――来い」
キーレンの目がリンのように青く燃えた。彼は床を蹴って跳ね、殴りかかってきた。おれはその勢いをかわし、掴んで床にねじ伏せた。関節技を使ってかためてやる。その首に人差し指をつきたて、
「はい、おしまい」
キーレンは小鬼のように歯軋りしておれを睨んだ。
いやになる。おれもかつてこんな顔をしていたのだろうか。
彼を立たせると、また飛び掛ってきた。その足を払い、ひっくりかえす。背にのり、腕をねじあげると、彼はまた身動きできなくなった。何度か跳ね上げようとするが、たいした力は出なかった。
「だめだな」
おれは彼の上からどいた。「おまえの腕じゃ仔犬はあぶなくて任せられない。少し鍛錬してこい」
おれは彼に言った。
「ハスターティの第三デクリアで特別に訓練を引き受けてもらった。明日から一ヶ月、みっちり訓練してこい」
彼が口を開きかけるのをとどめ、ラインハルトを呼ぶ。
ラインハルトは気味悪げに出てきた。彼もおれに恥をかかされると思っている。
「ラインハルトにはこれから一ヶ月、おれの代理をつとめてもらう」
彼の青い目がまたたいた。
「あんたは何するんだ」
「おれか。休暇だ」
二秒ほどして、その場にいた全員が「えっ」とおれを見た。
「一ヶ月、タスマニアで遊んでくる。きちんとおれの犬たちの面倒もみろよ。あとで犬たちからアンケートをとるからな」
早くこうすればよかった。
おれがいるから、みなおれに甘える。失恋ラインハルトも忙しくなったほうがいい。
久しぶりにヴィラを出た。A国の空港で、おれはロビーからまばゆいアフリカの地面に目を細めた。
飛行場の風景は久しぶりだった。ふつうの女性や子どもがいる光景もなつかしい。何年、男だけの世界にとじこもっていたのか。
だが、そのなつかしさはすぐにしぼんだ。ここにはおれの属するものは何もない。会話する相手もない。この世界は絵のようにおれには意味がなかった。
おれはなぜ自分が何年も休暇を取らなかったか思い出した。休みをもらえなかったばかりじゃない。この寂寞とした感じがいやで、ヴィラから離れなかったのだ。
おれは孤児だ。集団で育ったが、ひとりだ、という思いはいつも消えない。ひとりがいやで、いつもなんとなく人に混じっていた。いくつになっても、このさびしがりはどうにもならない。
(タスマニアで、一ヶ月も何するんだ?)
その時、いきなりぬっと手をつかまれた。
「!」
目の前にレオポルドが立ちはだかっていた。彼はおれの手を引っ張り、何も言わずに歩き出した。
「おい」
彼は答えず、ずんずん歩いた。振り放そうとすると唸って、引っ張った。
「レオ。悪いけど、おれ行くよ。今休まないともう休めないから」
彼はかまわず歩いていく。
「べつに怒ってるわけじゃない。それになんの借りもないぜ」
彼は黙って歩いた。勝手に階段をおりていく。
「わかった。行くから放せ。みっともない」
どこへ行くんだろう?
おれはもう何も聞かず、彼について行った。彼はドアからターミナルビルを抜けた。日差しの下に出て、滑走路をすたすた歩いていった。
サングラスごしにも強い陽を浴びた地面が目を灼く。眉をしかめてついていくと、妙なものが見えた。
ジェット機だ。機体に描かれた文字におれはうっすらと口を開いた。
その簡単なラテン語はおれにもわかった。
――Ubi tu Ian, ibi ego Angelus.
(汝イアンあるところに、我エンジェルあり)
「気に入った?」
エンジェル――アンジェロは少年のような白い歯を見せた。
おれは口をあいたまま、うなづいた。うれしそうに笑っている恋人を見つめ、急に胸苦しくなってしまった。
機内にはバーカウンターがあった。東洋的な深い色合いのキャビネット、ソファが置かれ、花や観葉植物がジャングルのように置かれていた。
だが、おれには内装がなんだろうとかまわなかった。ジャングルに堂々と置かれたキングサイズのベッドの上で、レオポルドと裸で転げまわっていた。
「ア」
レオポルドがおれの中に割り入ってくる。尻に侵入する熱、その重量におれはあえいだ。つま先からふるえが走る。
彼が腰を揺らすと、細胞がいっせいにわめいた。腰の中が彼でいっぱいになる。彼が動くごとに、おれの体は津波に飲まれ、足が地につかない。
「アッ――レオ――」
「おまえは、ひどい、台無しだ」
レオポルドは腰を突き入れながら非難した。
「せっかく、美味いコーヒーを、淹れてやろうと、思ったのに」
「え――淹れてくれよ」
おれは喘いだ。脳が熱い雲に覆われ、しゃべるのも苦しい。なんだって、こいつはこんな時にしゃべるんだろう。
「ふたりで、楽しんだら、コーヒーを淹れて、プレゼントがある、カードをあけると、飛行機の写真、ボディにおまえの名前、びっくりするおまえ、そういう、予定だった」
「あ、はは……」
「クソッ。ばかめ」
息が苦しい。奔流のような快楽にまくりあげられ、追いあげられていく。崖縁に追われて後がない。
(もう――もう――)
筋肉の制約を手放す直前、レオポルドは動きを止めた。
「?」
彼は少しペニスをずらした。荒い息をおさえ、しかつめらしくおれを見る。
「これから尋問を行う」
「おい、ふざけるな!」
いきなりご馳走をとりあげられ、おれは腹をたてた。彼の腰を足で捕らえる。が、彼はかたくなに腰を離した。
「レオポルド!」
「イアン、なんだ、あの若造は!」
「誰」
「昨日のバカブロンド」
おれは泣きたくなった。「いい加減にしてくれ!」
「なんであいつがあそこにいたんだ」
「部下だ! 酔っ払ってひっくりかえってたから、連れ帰ったんだ」
「裸だった」
「水をかぶって濡れて――レオポルド、頼むよ」
「結婚するって言ってた!」
「結婚? だれが」
「昨日、言ってたろう! あのビッチが、おまえと、ドイツで来月結婚するって」
(あの野郎――)
おれはあえいだ。レオポルドの目に恨みが宿る。
「おれはな。昨日、泣いて帰ったんだよ! がっかりしちまって――皆が止めてくれなきゃクビくくるとこだったんだ」
急に激したのか、指先で目をおさえる。ぬぐうと睫毛が濡れていた。
(ああ――)
彼が地中海の人間だということを忘れていた。彼はまたみるみる大粒の涙を浮かべて落とした。
「喜ばせようと思って、前から準備してたんだ。写真を見せて、おまえが喜んだら、――」
おれは大声をあげた。「ああ、かわいそうなレオ! アモーレ!!」
レオポルドが目をしばたく。おれはやけくそになって怒鳴った。
「ティ・アーモ! ティ・アーモ! ほかになんて言ったらいい? きみが欲しい? ガマンできない? ファンクーロ(くそったれ)? たのむよ。彼はおまえをからかったんだ。おれには関係ない。おれだって楽しみにしてたんだ。半年も! くだらない会議やクレームや事務処理にまみれながら、待ってたんだよ。四回もキャンセル入れて、そのたびにがっかりだ。ひとりで来てみたら、やっぱりさびしかった。おまえが来てくれてすごくうれしかった。どうしてお預けなんてひどいことができるんだ」
彼はあ然とおれを見ていた。
「はじめて聞いた」
「何?」
「何を考えているのか」
「お安い御用だ。もっと言おうか」
あとで、と彼は口づけてきた。その唇には小さな笑いが戻っていた。さりげなく足をひらいてくる。
欲しかったものがやっと与えられ、鳥肌がたった。ケーブルがつながり、電流がかけめぐっていく。
声はもう聞こえなかった。快楽は火の柱のように体を貫いている。自分のあえぎ、わめく声さえ遠い。光の脈動におぼれかけていた。
(レオ――レオ――)
おれは彼の腕に爪をたてた。
最後の砦が崩壊する。背骨から脳天に怒涛のような快楽が襲いかかり、おれは叫んだ。レオポルドの腕が流されまいとおれを掴んでいた。彼の体が硬い矢に変わる。満足げな獣の咆哮。微細な光のしぶきが乱舞する。
あえぎながら、レオポルドは微笑んだ。その時、体が浮き、次の瞬間彼の体がおれに叩きつけられた。
エアポケットに落ちたらしい。
「あ、大丈夫か」
身を起こそうとする彼の体を、おれは抱きしめた。情熱的であわて者の恋人。汗だくの熱い背。いとしい獣のにおい。彼特有のイキイキした輝きを感じ、おれは鼻の奥が痛くなるほどうれしくなった。
幸福だ。
耳元でレオポルドが眠そうに言った。
「写真を見せて、おまえが喜んだら、おれはこう言うんだ」
おれは笑った。まだ言っている。
「『汝ガイウスあるところに、われガイアあり。なんの意味か知ってるか?』」
「さあ」
「ローマ人が結婚式の時に言う言葉だ」
「わかった」
おれはその耳を噛み、ささやいた。
「――汝レオポルドあるところに、われイアンあり」
彼の体がぴくりと反応する。ひやかされないうちに、おれはその首を抱えて口づけた。
―― 了 ――
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