にゃんにゃん恩返し
彼と会ったのは、わたしが真っ暗などん底を歩いていた時だった。
どん底にもいいかげん飽きて、ぼんやりと死の予感を感じはじめていた時だ。
その日、わたしは途方にくれ、アップタウンをうろついていた。仕事の面接に出かけたが、ドアの前でまわれ右して戻ってきてしまったのだ。
もう三十五だ。アルバイトはもういやだった。アルファベットもまともに読めないような外国人の下で働くのは、つらくなっていた。
――どうしよう、この先。
帰っても金はない。ボロアパートは追い出される寸前だ。電気が止まったら、きびしいミネソタの冬をどう過ごしたらいいのだろう。
(もういいか)
ふいにわたしは面倒になった。
一杯やってあったまろう。気分よく飲んだら、拳銃買って終りにしよう。それでいいではないか。
もう七年だ。これ以上は無理だ。終りにしよう。
そう思いいたると、さばさばした気分になり、わたしはバーに入った。ひさしぶりに好きなバーボンを飲んだ。
したたか酔った。
憂いもマヒした。
金が尽き、夜中、ふらふらと町を歩いていると、なじみの安レストランの前で、人のもみあう様子が見えた。
「ちょ、ちょっと。お客さん。こまります」
若いウェイターが中年の酔っ払いにからまれている。
「いいじゃないか、リッチー。な、キスだけ。こっち来い。店、終わったんだろう?」
わたしはそのウェイターを知っていた。
ふいに、ぐわっと怒りが湧いた。アルコールで歯止めがきかなかった。
わたしはすたすたとふたりに歩みより、酔っ払いの襟がみを剥がすと、派手に殴り飛ばした。
あざやかな当たりだった。酔っ払いは見事にひっくり返った。
(ははっ)
スカッとした。ブルース・ウィリスになったみたいだ。
「なにしやがる」
酔っ払いは濁った声でがなり、懐に手を突っ込んだ。
(銃?)
わたしは内心あわてたが、ウェイターに言った。
「すぐ警察を呼びなさい」
しかし、若いウェイターはまごついている。はやく、と叱りつけると、
「そのひと、おまわりさん」
酔っ払いは懐からバッジを出した。
マーフィーの法則というやつだろうか。
酔っ払いは捜査中の部長刑事だった。どう考えても捜査中には見えなかったが、わたしは連行され、なぜかトラ箱に放り込まれた。
数人の酔っ払いと過ごした夜は最悪だった。彼らはみな泥酔しており、全員ゲロを吐いた。
えらいにおいだった。わたしもついに吐いた。
吐きながら、泣いた。
(どこまでついてないんだろう!)
あの悪徳警官はなにかしら無実の罪をこねあげて、刑務所にわたしを送るだろう。
わたしにはお抱え弁護士もギャングの知り合いもない。数ヶ月でHIVに感染して、放り出された後は治療することもできず、路上で死ぬだろう。
(なんでこんな風になっちまったんだ)
トラ箱の床に手をつき、わたしはオイオイ泣いた。
自分の人生が無念だった。
わたしはプロのマンガ家を目指していた。新聞の日曜版に掲載されるようなメジャーなマンガ家になるのが夢だった。
だが、チャンスは一向にめぐってこない。
――絵はいいが、ちょっと辛らつすぎるね。
エージェントは仕事をもってこない。待つうちに、貯金も保険もなくなった。
元同僚がセールス・マネジャーや副社長に出世していく中、わたしはあいかわらずアルバイトでレジを打っていた。たえず、家賃の心配をしていた。
(ついに、牢屋だ。家賃の心配はなくなった)
自分の皮肉に悲しくなり、泣いて暗闇に訴えた。
(もうだめです。神様。もうたえられません。たすけてください)
突如天使のラッパがとどろいた、ということはもちろんない。わたしはメソメソ泣きつづけ、いつしか疲れて眠っていた。
だが、この時、神はすでに動いていたらしい。
翌日の昼すぎ、トラ箱から出された。警官への暴行は不問に付され、ただの酔っ払いとして扱われただけだった。
すっかり気抜けしてボロアパートにもどり、くさい服を脱ぐ。
服にもからだにも酸っぱいにおいが沁みついていた。シャワーを浴びて、がむしゃらに石けんでそれをこそぎとっていると、ひとが来た。
「すみません。フォルトフさん。いらっしゃいませんか」
無視しようとしたが、ドアを閉め忘れていたらしい。相手は勝手に入り、中から呼んでいた。
わたしはあわててバスタオルを巻き、出て行った。
「はい、なんですか――」
キッチンの前に若い男が紙袋をもって立っていた。制服を着ていなかったが、あのウェイターだった。
彼は頬を染め、まぶしげに微笑みかけた。
「昨日はありがとう。ちょっと、お礼をとおもって――」
わたしのなかで天使のラッパが鳴った。
ウェイターはキッチンで、手際よくフライパンをつかった。
「ケイジャン料理、好きですか? おれ得意なんです。いま、すぐお持ちしますね」
フライパンからニンニクのうまそうな香りがただよう。
待っている間、わたしは阿呆のようにその小柄な背を見ていた。
(なんの魔法だ?)
このウェイターとはほとんど話したことがない。だが、わたしは彼が好きだった。
彼はちょっとそこらにいないような可憐な青年だった。
ラテンの血である。男らしい黒い眉、黒い目が太陽を含んだように強く、情熱的でうつくしい。唇がふっくらして、キスの感触を想像させる。
だが、本人は自分の美にはいたってむとんちゃくで、気さくで人なつこかった。
ウェイターの仕事が好きでたまらぬという風で、いつ見ても楽しげに皿を運んでいる。客たちに、
「リッチー」
とかわいがられていた。
わたしはリッチーに声をかけられなかった。
ゲイの引け目。それに、チップをろくに渡してやれないのが、恥ずかしかったのだ。
一度、コーヒー代を置き、紙ナプキンに、骨をくわえた野良犬の絵を描いた。骨には『一万ドル』と書いて逃げてきた。
「あの犬の絵、まだ持ってますよ。うちの壁に貼ってあります」
「ええ? よせよ」
「ホントですって。最初、ふざけやがってと思ったけど、なんかかわいくて」
彼は笑い、どうぞ、とわたしの前にジャンバラヤとオクラの入ったスープを置いた。
料理はうまかった。
ひどい一夜の後だ。暖かい飯は涙ぐみたいほどうまかった。
「あの刑事、ひどいやつで」
ウェイターのリッチーはこまったように笑った。
「おれが逆らえないとおもって、時々、悪ふざけをしかけてくるんです」
「なにか弱みがあるのかい」
彼はにっこりと微笑んで答えない。
ああ、とわたしは同情をこめてうなずいた。おおかた不法就労かなにかだろう。
「店長に言うわけにもいかないし――昨日は本当に助かりました。うわ、警官殴った、と思ったけど、やっぱ、うれしかったな」
笑った彼の顔がかわいらしかった。男らしいハンサムなのに、笑うと子どものようにあどけなくなってしまう。
(かわいい)
わたしはついつい鼻の下をのばしていたようだ。彼はにわかに目をふせ、話題をさがした。
「あの、イラストの仕事をされるんですか」
彼の頬がかたくなっていた。うわずったようにちょっと声が高い。
(まずい)
脅かしたら帰ってしまう。わたしは顔をひきしめ、
「ああ、風刺漫画だ。まだ喰えてないけどね」
「絵、うまいですね」
「ひどいな、プロだよ」
「あ、ああ」
彼は不意に立ち、壁に貼ってあるイラストを見るふりをした。
「これなんかすごくいい。おれ、好きだな。動物のイラストが多いですね」
彼は気の毒にガーフィールドのポスターをほめ、小さい部屋をうろうろした。
猫が迷い込んでとまどっているようだった。
ホモの部屋にとじこめられたと気づき、パニックを起こしているにちがいない。
わたしは苦笑し、迷い猫のためにドアを開けてやろうとした。
だが、彼は真っ赤になってうつむいたまま、立ち尽くしていた。
(え――)
わたしは気づき、おどろいた。
リッチーの肩は無防備だった。彼の首はすべらかでういういしかった。
リッチーは長い睫毛を伏せ、なにか言おうとして、ためらっていた。
わたしは立ち上がった。そばによった時、彼はまだうつむいていた。その息が浅い。
背後から肩をそっと抱いた。一瞬、硬くなったが、彼は逃げなかった。あごをとり、口づけると、彼はしがみつくようにわたしの首を抱えた。
|