リッチーがいた。
いつもの彼の姿だ。黒い髪。まじめそうな黒い目。腕におさまってしまう小さなからだ。
だが、腕に抱きたいような慕わしさはもうなかった。その五体は氷で出来ているようによそよそしかった。
「手をあげろ」
わたしは声のふるえをおさえて言った。「両手を上へあげろ」
「レフ」
「いいからあげろ!」
リッチーは両耳の脇に手のひらをあげた。軽く首をかしげ、眉をあげた。「安全装置ははずしたほうがいいよ」
一瞬ひるみ、銃を見た時だった。
銃にガツンと何かが当たった。腕がはじかれた途端、リッチーが飛びつき、わたしの腕を抱え込んだ。
彼の肩がはまりこみ、腕を動かせない。その指の強さに手首がみしりと音をたてた。わたしは銃を取り落とし、悲鳴をあげた。
「放せ!」
リッチーは銃をもぎ取ると、すぐに手を放し、下がった。
わたしは手首を押さえ、彼をにらんだ。骨がへこんだのではないかと思うほど痛かった。
彼は拳銃からすばやくマガジンを抜いた。
「ごめんよ。一発でも鳴らしたら、ジェームズが飛び込んでくる」
薬室に装填された弾がこぼれ落ちる。
ひどくなれた手つきだった。銃をとる手も、まなざしも。
銃を放ってかえすと、彼は疲れたようにわらった。
「おれの秘密を知って満足かい。レフ」
わたしは憤怒と混乱に声も出なかった。
――この男はだれだ。
こんな男は知らない。こともなげにわたしの武器を奪い、気だるそうにわたしを見ている。一歩でも動けば豹のように襲いかかってくる。こんな男は、これはリッチーではない。
「おれを殺すのか」
わたしは怒りにふるえた。「誘拐の現場を見たから、おれを殺すのか」
リッチーはじっとわたしを見た。その声はしずかだった。
「そうだ。本当は殺さなきゃいけない。あんたが見たものを触れ回るなら、かならず、そうする」
「おれは」
これはなんだ。脳の血管が焼けちぎれそうだ。「おまえを、買いにきたんだ」
信じられなかった。「あのオカマ野郎がおまえを買っていいようにしていると思ったから。おまえを虐めていると思ったから。だから、おれはおまえのために小切手を用意してきた。全財産投げ打ってもいいから、助けるつもりで」
「銃まで持ってきたんだ」
彼は哀れむようにわらった。
そうだ。人殺をしてでも守ろうとおもったのだ。なんてザマだ。
情けなさがこみあげ、歯を食いしばった。自分の愚かしさに泣きそうだ。
リッチーはわたしから目をそらし、
「おれは犬じゃない。犬を捕まえるほうだ。だから、あんたの心配するようなことは何もないと言ったんだ。あんたは信じなかった。約束をやぶった」
「犯罪者との約束をな!」
リッチーの目が光った。
わたしはわめいた。「おまえはうそつきだ。奴隷商人だ。あの哀れな連中は、みんなおまえがさらってきたのか! おれに近づいたのはなんのためだ。世間の目をあざむくためか。それとも、おれか? おれのことも誘拐しようとしていたのか? え?」
「レフ」
彼の声は押し殺したように低かった。
「レフ。もう、帰るんだ。帰って、このことは忘れるんだ。おれたちは二度と会わない。おれはもう異動になったから、あの店にもどこにもいない。あんたは生涯、このことをひとに言わないでくれ。誰も聞いてくれない。誰も動かない。警察も、どこも。だから、帰って、一切忘れてくれ」
思わず拳が出ていた。
中指のふしが彼の頬骨にしたたかにあたり、彼はよろめいた。
腕がしびれあがった。手首が鋭く痛み、ズキズキと燃えている。
リッチーは顔を押さえ、眉をしかめた。目を伏せ、だまって頬をさすっている。
なにも言わない。
見返しさえ、しない。
彼は有罪だった。弁解する言葉さえもっていなかった。
わたしはとたんにやるせなくなった。腹の底から力がぬけ、かなしくなった。
「リッチー。おまえ、おれを誘拐しようとしたのか」
リッチーはだまりこくって目をあげなかった。
「リッチー、おれは聞いているんだ」
「だれが、あんたなんか」
彼はひそりと、いった。
「オーダーも入ってないのに、あんたみたいな痩せ犬、だれがさらうもんか」
ほそい、力ない声でわらう。
「おれだって、オフはあるよ」
唇の端がにわかに吊りあがる。おかしそうに、ニヤニヤした。軽口を言おうとして、言わずにいる。いまいましそうでさえあった。
「みすぼらしい、やせ犬が――」
と、リッチーは言った。かすれた変な声だった。
「みすぼらしい、痩せ犬が、腹をへらした、夢しかないやせっぽちの野良犬が、自分のために、警官を殴って留置所に入ったら、だれだって、気になるじゃないか」
またつまらなそうにわらった。
「腹すかして、留置所でひざをかかえてたら、いいことがなにも待ってなかったら、心配になるじゃないか。だれにもなつかない野良犬が、おれを待っててくれたら、おれだってうれしい。おれだって――」
おれだって――。と、彼は言いかけた言葉を飲んだ。黒い眉がゆがむ。彼は痛むように眉をしかめた。
「おれだって、ハワイであんたといたかったよ」
彼はまたニヤリと大きく笑い、ばかなやつ、と言った。
「せんさくするなって言ったのに」
笑った目から、涙がひとつぶこぼれ落ちた。うつくしい黒い双眸がうらめしく、かなしく、わたしを睨んでいた。
彼は身をひるがえし、部屋を出て行った。
それがリッチーとのわかれだった。
リッチー・フェロンは町から消えてしまった。
わたしはしばらく腑抜けのようになって、何も手がつかなかった。
手首はねん挫していた。ねん挫の腫れがおさまっても、茫然と宙を見つめたまま、動けなかった。
やがて、魂がからだに戻ってくると、わたしはがむしゃらに仕事をした。ペンを握ったまま眠り、起きるとまた描いた。腕が腱鞘炎を起こすと、友人を誘って飲み明かした。酒を浴びるように飲んだ。
大きな空洞の痛みを抱え、なんとかよろよろ立てるようになるまで半年かかった。
わたしはとうとうあの安レストランに足を向けた。
もちろん、リッチーはいない。知らないウェイターがコーヒーとパンケーキを運んできた。
うすいコーヒーの味は変わらなかったが、カップの底にはこぼれたコーヒーが滴っていた。
「相席、いいかね」
腹のつき出た中年男が勝手に前に座った。
「いつぞやはけっこうなパンチをどうも」
男の言葉に、そのぶあつい顔をじっと見つめる。ようやく、いつかわたしをトラ箱にぶちこんだ部長刑事だと気づいた。
なんと挨拶したものだろう。
「サインしてくれんかね」
彼は鼻先にビニールに入ったTシャツをつき出した。わたしの絵のシャツだ。
「あんたが見えたから、そこで買ってきたんだ」
「こんなとこで売っているんですか」
「そうよ。ウェイター・リッチー誕生の地だってよ。商魂たくましいぜ」
仔猫の絵柄の下にサインをすると、男は孫がよろこぶ、と礼を言った。
彼のコーヒーが運ばれてくる。やはりぞんざいに置かれ、こぼれたコーヒーが皿にたまった。
刑事は気にせず、コーヒーをすすった。
「リッチーと別れたんだってな」
不意打ちだったが、わたしは、ええ、と答えた。
「いい子だったのに」
刑事は言った。「ワルだが、いい子だったよ、あの子は」
「ワルだったんですか」
刑事は、まあな、と言ったきり黙った。
――ヴィラのことを知っているのだろうか。
わたしは不意に、この男は神のようになにもかも知っているような気がした。にわかに、あふれるように心が開いてしまった。
自分でも少し変になっている気がした。だがどうしても、この半年くりかえし続けたひとつの疑問をぶつけたくなった。
「たとえば家族が犯罪者だとして――愛する家族を心配して、知ろうとするのは、間違いなんでしょうか」
刑事はコーヒーを飲んで黙っていた。
やがて、興ざめたように冷たく言った。
「だれも間違ったことなんかしちゃいないさ。どいつもこいつも、正しいと思って、やったり言ったりするんだ。だが、それについて後悔するのは愚かだな。リスクはなんにでもある。あんたがよかれと思ってやったことなら、結果がどうだろうと、結果を素直に受け取るがいいんだ。おれに正しかったか、間違っていたか聞くのは馬鹿げたことだ」
刑事は思いのほか、わたしの問いに答えていた。
わたしの失敗は正しかった。
正しいがくるしかった。
仔猫をかわいがっていたのに、最後に叩き出してしまった。無理からぬことだ。無理からぬと道理でわかっていても、悶えた。リッチーをうしなった痛みは、どんな理屈を寄せても癒えない。
「あんたがたは違う世界にいたのさ」
刑事はぶっきらぼうに、「なにかの間違いで、触れ合った。たがいに楽しい時を過ごした。永遠じゃないが、楽しかったんだ。それでいいじゃねえか。一瞬の楽しみを腹の底から味わえないやつは、永遠に楽しみなんざ味わえやしないのさ」
と言った。
わたしは不意に落涙しそうになった。
ハワイでのリッチーの黒蜜のような甘い目を思い出したのだ。
彼と別れてはじめて、泣きそうになった。
リッチーとの暮らしにはたくさんのまばゆい時間があった。わたしはその時間をパン屑のように無造作にぼろぼろ落していた。こんな時が来るとわかっていたら、もっと深くかみしめたろうか。
「なさけない顔しなさんなや」
刑事はやさしく言った。
「あいつはあんたのことは忘れようがないぜ」
Tシャツの袋をトンと指ではじき、「いまじゃどこへ行ってもこいつが売ってるからな」
ビニールの中から仔猫の絵がうれしそうに手を出していた。
『チップちょうだい。ゴロニャーゴ!』
―― 了 ――
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