にゃんにゃん恩返し  第8話

 
 その夜、8時。わたしはコラヤンニのクローゼットルームのなかにおさまっていた。

 クローゼットのドアをわずかに開けると、隙間からベッドルーム、居間へ続く入り口が細く見渡せた。

 少し前からおさまっていたが、その前にいやなものを見た。

 ふたりのはだかの男が、床に置いた大皿に鼻をつっこんでいた。犬さながらに、顔だけでなにかを食べていた。

 コラヤンニはわたしと話しながら、その後ろをうろうろ歩いた。手に靴べらをもち、時折、気まぐれにそれを振り上げ、男たちの尻を叩いた。

 高い音がした。
 男たちはそのたびに跳ね上がり、哀れな声をあげる。文句も言わず、痛みに顔をゆがめて飯を喰う。コラヤンニは唇に笑みを浮かべ、男たちの尻を打ちつづけた。

 わたしはすっかりいやな気分になった。

(リッチーにあんなことしやがったら――)

 わたしは靴下にはさんだものをおさえた。

 チャイムが鳴った。
 わたしは暗がりのなかで息を殺した。

 コラヤンニが出迎え、ひとの気配が入ってくる。リッチーの声がした。

「お待たせいたしました。ご主人様」

 ご主人様! 
 わたしは目を閉じた。SMポルノそのものだ。

 だが、もうひとり人間がいた。ボーイだろうか。なにか大荷物を運んでいるようだった。

「そこへ」

 コラヤンニが視界に入ってくる。

「ベッドルームに入れますか」

 黒人が大きなトランクを押してきた。仕立てのいいスーツを着ていたが、がっしりしすぎる。ボディガードのようだ。

「そうだね。入れて、開けてくれたまえ」

 ベッドルームにトランクが置かれた。黒人がしゃがみ、鍵を開ける。
 ふたが開けられた時、わたしはのけぞりそうになった。

 白い手が見えた。ひとだ。人間が入っていた。
 黒人がそのからだを引っ張り出す。ぐったりした若い男が抱え上げられた。

「起こしますか?」

「それはいい。起きるとまたうるさいからね」

 コラヤンニはベッドに寝かせるように指示して、リビングに戻った。

 わたしは暗がりのなかであえいだ。
 ひとが誘拐されていた。人身売買が目の前で起きていた。

 黒人が寝室を出ようとすると、リッチーが言った。

「拘束しておけ。目を醒ましている」

 わたしはおどろき、リッチーを見た。

 次の瞬間、ベッドの上の人間がわっとおめくなり、飛び上がった。
 リッチーの首に襲い掛かる。
 だが、リッチーは軽く身をひねると、床に男を叩きつけた。数秒男はもがいたが、悲鳴をあげ、動けなくなった。

「いてててッ、放せ! くそったれが」

「ジェームズ、枷」

 黒人が恐縮して、何かを持ってくる。リッチーはむぞうさに男の腕をひねりあげ、黒い枷をかけた。足も拘束し、口にも何かを噛ませた。
 ひどく手慣れていた。

「薬が効いていない」

「すみません、オプティオ。ったく、手間かけさせやがって、呪われたワン公だ」

「確認しなかったのはきみのミスだ」

 リッチーは黒人にまかせ、リビングへ入った。
 わたしは暗がりのなかで目を瞠いた。頭のなかが痺れたようになっていた。

(これはなんだ)

 リッチーの声だ。話し方が別人のように静かだが、彼の声だ。彼の背中だ。だが、とりつくしまもないほど冷たい。

 わたしは闇のなかで目をおよがせた。からだが浮いているようだった。

「ミッレペダの諸君。こっちでお茶でもどうだ」

 コラヤンニはリビングから呼びかけた。「ひと月に二度も捕り物をお願いして、手間をかけさせた。これはチップだ」

 リッチーは立ったまま答えた。

「もうしわけありませんが、チップは禁止されております。それと、ひとつお知らせすることがあります」

 彼は慇懃に言った。

「ご主人様にはこのたび、ヴィラよりペナルティが科せられました」

「なぜだ。犬を二回も逃がしたからか」

「いいえ。公の場で不用意にスタッフの名を呼ぶなど、守秘義務に違反する行為を行ったからです」

「あんな!」

 コラヤンニの声が高くなった。「きみ、あんなものでひとに何かわかりゃしないよ」

「情報漏洩のタブーは軽いものではありません。ヴィラは世界の貴顕のプライバシーを預かっています。ヴィラを危険にさらす人間は悪意のあるなしにかかわらず、死をもって制裁されます」

 コラヤンニが言葉をうしなった。

「――きみ」

 彼はうわずった笑い声を出した。「あれは、はずみだ。わかるだろう。犬が逃げてイライラしててね。ええ、わたしは、くそっ、こういう性分なんだ。なんでもすぐやってくれないとダメなんだよ。――シェパードくん。きみ、怒っているのかい。うちのやつが怪我させたから。そうなんだろ」

「それは関係ありません。わたしが犬に殺されても、それは仕事ですから。ですが――」

 リッチーは冷ややかに言った。「あなたの行為は悪質な脅迫です。あなたは接触すべきではない場所で、わたしに接触してきた。わたしのプライバシーを暴いた。だれかがわたしを調べれば、経歴につじつまの合わないことが露呈します。ヴィラの名も出るのです」

 コラヤンニは沈黙した。彼のふるえる息遣いが聞こえるようだった。
 リッチーはそっけなく言った。

「今後は二度となさらないでください」

「え――」

「今回のペナルティは一年の会員権停止です。わたしたちの保護も一年間切れますので、犬を逃がさないようになさってください」

 わかった、とコラヤンニが息をつくのが聞こえた。

「そうしよう。おとなしく刑に服するよ。一年か。わかった。いや、こわいんだねえ。ミッレペダは――」

「守秘義務のシビアさをお忘れのようだったので」

「いや、忘れてはいないさ」

 コラヤンニが立ち上がった気配がした。

「では、いろいろすまなかったね。チップをはず――、ダメなんだね。では」

「ご主人様」

 リッチーが息をついて言った。

「申しわけありません。犬を連れて少し外に出ていていただけませんか」

 コラヤンニは少なからずあわてたようだった。それはちょっと、とこまごまいいわけをしている。
 だが、リッチーは低い声で、

「出てください。クローゼットにまぎれこんだ野良犬を始末しなければなりません」

 と言った。

 冷たい手で心臓をつかまれたような気がした。わたしはリッチーのしずかな横顔を見つめた。

 コラヤンニはまだ少しいいわけしたが、結局、はだかの男たちに服を着せ、部屋を出ていった。彼らが出ると、黒人が言った。

「ベッドの一匹は」

「バスルームにでも放り込んでおいてくれ。ジェームズ。きみも出て」

 黒人はベッドルームに入り、縛られた男をかつぐと出て行った。

 物音がしなくなった。
 わたしの心臓の音だけが爆音のように鳴っていた。
 彼の気配が入ってくる。わたしの知らない男が、プロの殺し屋がクローゼットの前にいた。

「ゴロニャーゴ」

 リッチーがおどけた声を出した。「好奇心が猫を殺したって本当だな。レフ」

 わたしはクローゼットのドアを蹴り開け、銃をかまえた。




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