その夜、8時。わたしはコラヤンニのクローゼットルームのなかにおさまっていた。
クローゼットのドアをわずかに開けると、隙間からベッドルーム、居間へ続く入り口が細く見渡せた。
少し前からおさまっていたが、その前にいやなものを見た。
ふたりのはだかの男が、床に置いた大皿に鼻をつっこんでいた。犬さながらに、顔だけでなにかを食べていた。
コラヤンニはわたしと話しながら、その後ろをうろうろ歩いた。手に靴べらをもち、時折、気まぐれにそれを振り上げ、男たちの尻を叩いた。
高い音がした。
男たちはそのたびに跳ね上がり、哀れな声をあげる。文句も言わず、痛みに顔をゆがめて飯を喰う。コラヤンニは唇に笑みを浮かべ、男たちの尻を打ちつづけた。
わたしはすっかりいやな気分になった。
(リッチーにあんなことしやがったら――)
わたしは靴下にはさんだものをおさえた。
チャイムが鳴った。
わたしは暗がりのなかで息を殺した。
コラヤンニが出迎え、ひとの気配が入ってくる。リッチーの声がした。
「お待たせいたしました。ご主人様」
ご主人様!
わたしは目を閉じた。SMポルノそのものだ。
だが、もうひとり人間がいた。ボーイだろうか。なにか大荷物を運んでいるようだった。
「そこへ」
コラヤンニが視界に入ってくる。
「ベッドルームに入れますか」
黒人が大きなトランクを押してきた。仕立てのいいスーツを着ていたが、がっしりしすぎる。ボディガードのようだ。
「そうだね。入れて、開けてくれたまえ」
ベッドルームにトランクが置かれた。黒人がしゃがみ、鍵を開ける。
ふたが開けられた時、わたしはのけぞりそうになった。
白い手が見えた。ひとだ。人間が入っていた。
黒人がそのからだを引っ張り出す。ぐったりした若い男が抱え上げられた。
「起こしますか?」
「それはいい。起きるとまたうるさいからね」
コラヤンニはベッドに寝かせるように指示して、リビングに戻った。
わたしは暗がりのなかであえいだ。
ひとが誘拐されていた。人身売買が目の前で起きていた。
黒人が寝室を出ようとすると、リッチーが言った。
「拘束しておけ。目を醒ましている」
わたしはおどろき、リッチーを見た。
次の瞬間、ベッドの上の人間がわっとおめくなり、飛び上がった。
リッチーの首に襲い掛かる。
だが、リッチーは軽く身をひねると、床に男を叩きつけた。数秒男はもがいたが、悲鳴をあげ、動けなくなった。
「いてててッ、放せ! くそったれが」
「ジェームズ、枷」
黒人が恐縮して、何かを持ってくる。リッチーはむぞうさに男の腕をひねりあげ、黒い枷をかけた。足も拘束し、口にも何かを噛ませた。
ひどく手慣れていた。
「薬が効いていない」
「すみません、オプティオ。ったく、手間かけさせやがって、呪われたワン公だ」
「確認しなかったのはきみのミスだ」
リッチーは黒人にまかせ、リビングへ入った。
わたしは暗がりのなかで目を瞠いた。頭のなかが痺れたようになっていた。
(これはなんだ)
リッチーの声だ。話し方が別人のように静かだが、彼の声だ。彼の背中だ。だが、とりつくしまもないほど冷たい。
わたしは闇のなかで目をおよがせた。からだが浮いているようだった。
「ミッレペダの諸君。こっちでお茶でもどうだ」
コラヤンニはリビングから呼びかけた。「ひと月に二度も捕り物をお願いして、手間をかけさせた。これはチップだ」
リッチーは立ったまま答えた。
「もうしわけありませんが、チップは禁止されております。それと、ひとつお知らせすることがあります」
彼は慇懃に言った。
「ご主人様にはこのたび、ヴィラよりペナルティが科せられました」
「なぜだ。犬を二回も逃がしたからか」
「いいえ。公の場で不用意にスタッフの名を呼ぶなど、守秘義務に違反する行為を行ったからです」
「あんな!」
コラヤンニの声が高くなった。「きみ、あんなものでひとに何かわかりゃしないよ」
「情報漏洩のタブーは軽いものではありません。ヴィラは世界の貴顕のプライバシーを預かっています。ヴィラを危険にさらす人間は悪意のあるなしにかかわらず、死をもって制裁されます」
コラヤンニが言葉をうしなった。
「――きみ」
彼はうわずった笑い声を出した。「あれは、はずみだ。わかるだろう。犬が逃げてイライラしててね。ええ、わたしは、くそっ、こういう性分なんだ。なんでもすぐやってくれないとダメなんだよ。――シェパードくん。きみ、怒っているのかい。うちのやつが怪我させたから。そうなんだろ」
「それは関係ありません。わたしが犬に殺されても、それは仕事ですから。ですが――」
リッチーは冷ややかに言った。「あなたの行為は悪質な脅迫です。あなたは接触すべきではない場所で、わたしに接触してきた。わたしのプライバシーを暴いた。だれかがわたしを調べれば、経歴につじつまの合わないことが露呈します。ヴィラの名も出るのです」
コラヤンニは沈黙した。彼のふるえる息遣いが聞こえるようだった。
リッチーはそっけなく言った。
「今後は二度となさらないでください」
「え――」
「今回のペナルティは一年の会員権停止です。わたしたちの保護も一年間切れますので、犬を逃がさないようになさってください」
わかった、とコラヤンニが息をつくのが聞こえた。
「そうしよう。おとなしく刑に服するよ。一年か。わかった。いや、こわいんだねえ。ミッレペダは――」
「守秘義務のシビアさをお忘れのようだったので」
「いや、忘れてはいないさ」
コラヤンニが立ち上がった気配がした。
「では、いろいろすまなかったね。チップをはず――、ダメなんだね。では」
「ご主人様」
リッチーが息をついて言った。
「申しわけありません。犬を連れて少し外に出ていていただけませんか」
コラヤンニは少なからずあわてたようだった。それはちょっと、とこまごまいいわけをしている。
だが、リッチーは低い声で、
「出てください。クローゼットにまぎれこんだ野良犬を始末しなければなりません」
と言った。
冷たい手で心臓をつかまれたような気がした。わたしはリッチーのしずかな横顔を見つめた。
コラヤンニはまだ少しいいわけしたが、結局、はだかの男たちに服を着せ、部屋を出ていった。彼らが出ると、黒人が言った。
「ベッドの一匹は」
「バスルームにでも放り込んでおいてくれ。ジェームズ。きみも出て」
黒人はベッドルームに入り、縛られた男をかつぐと出て行った。
物音がしなくなった。
わたしの心臓の音だけが爆音のように鳴っていた。
彼の気配が入ってくる。わたしの知らない男が、プロの殺し屋がクローゼットの前にいた。
「ゴロニャーゴ」
リッチーがおどけた声を出した。「好奇心が猫を殺したって本当だな。レフ」
わたしはクローゼットのドアを蹴り開け、銃をかまえた。
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