逃げ犬



 父が死んだ。

 競馬ではしゃぎすぎたらしい。脳溢血を起こし、その日のうちに病院で死んだ。

 わたしはロンドンから急ぎ、故郷に帰った。葬儀の後も財産、領地、爵位を受け継ぎ、わずらわしい手続きに追われた。

 わたしはふと、遺産がひとつ足りないことを思い出し、執事にたずねた。

「ジョシュアは?」

「邸を去りました。御前が亡くなられてすぐ」

 わたしは苦笑した。
 ジョシュアは召使だった。
 ハンサムな男で、父の気に入りだった。ほがらかで冗談がうまい。酒が好きで、下層階級の粗さはあったが、よく気のつく、賢い男だった。

 彼は父のペットだった。
 父は彼を犬のように愛玩した。わたしが学校から戻り、家にとどまる間は召使としてふるまう。だが、わたしが家をあけると、彼は裸に剥かれ、首輪につながれて暮らしていた。

「飼い主が死んで、すぐ逃げたか」

――やはりつらかったのか。

 わたしは書類に目を戻した。少し惜しい気もしたが、忙しかった。それきり、しばらく犬のことは忘れた。




 四年後、わたしは妻と離婚して、ロンドンの家を引き払った。自分の邸に戻り、古代史でもほじくりながら暮らそうとおもった。
 いかんせん、田舎は娯楽が少ない。

 わたしは執事にたずねた。

「ジョシュアはどこへ行った?」

 執事は少し変な顔をしたが、

「探しますか」

「探せ。あれを飼いたい」

 執事はそれ以上聞かなかった。

 じつは、ヴィラで犬を見繕おうとしたこともある。半年入り浸って、あれこれ物色した。だが、男というものは、どうしても、はじめて見たものにとらわれるらしい。

 一度だけ見た光景が忘れられない。
 父は一度、うかつにもわたしが旅行から帰る日を忘れた。わたしは父の書斎に入ろうとして、はだかの男を見た。

 仰天した。
 素裸のジョシュアが肘掛け椅子に縛りつけられていた。彼の足首はそれぞれ、肘掛にしばりつけられ、股を開かれている。股の前には父が座っていた。

 父が何かの器具を彼の股間に近づける。ジョシュアは革棒を噛まされた口で必死にわめき、哀願した。その咽喉には犬の首輪が嵌っていた。

 獣じみた悲鳴があがった。
 ジョシュアは泣きわめき、身をよじって暴れた。

 わたしは慄然とした。ドアのすきまから、ほんのわずかに何かの焼けるにおいが鼻をかすめた。

 父の声が聞こえた。

『かわいそうに。わしもこんなことはしたくない。だが、何度もヴィラに連絡する身にもなってくれ。あの男は自分の犬を躾られないのかといい笑い者だ』

 また父がかがむ。ジョシュアがのけぞり、ひきむしられるような悲鳴をあげる。くそったれ、と革棒の間から叫んだ。

『殺してやる。絶対にここを逃げてやる』

 直後は、わたしもショックを受けた。

 しかし、時間を追うごとに、その光景はわたしのなかで奇怪な化学変化と遂げていった。若い召使の涙は美しかった。妙な魔力があった。むごい拷問の光景は、セイレーンの死の歌のように抗いがたい、不気味な快楽として臓腑に焼きついた。




 その夜、わたしは久々にロンドンに戻った。
 執事が教えたパブへ向かう。ウォータールー駅の近くにその店はあった。

 客がカウンターの前でシチューを頼んでいた。

「申し訳ありません。すでに火を落としてしまったので」

 バーマンは見覚えのある顔をしていた。あの男の快活な声だった。
 栗色の髪。ひとなつこい目をした愛想のいい召使。

「ピーナツサンドぐらいだったら作ってさしあげますよ。あなただけ特別に」

「料金も特別だろ」

 客は不承不承料理をあきらめ、エールを頼んだ。
 わたしはその隣に並んだ。客の前にグラスを置くと、ジョシュアはわたしに茶色い目をむけた。わたしは彼をやわらかく見た。

「ビターを1パイント」

 彼はわたしに気づかなかった。
 近くで見ると、少し老けたのがわかる。てきぱきとよく動くが、仕事に疲れているのか、どこかすさみ、痩せた空気が伝わってくる。

 わたしはグラスを受け取るとテーブルに移った。ぬるいビターを飲みながら、カウンターの中の男を見つめた。

(あんな男だったか)

 照明の加減だろうか。客が切れると、彼は人変わりしたように暗い顔に見えた。

 崖縁から暗い深淵を眺めているような陰気な目だった。かつてはつらつと輝いていた肩にも背にも生気がない。
 客が話しかけるとけろりと笑って見せたが、妙にうすっぺらく見えた。

 不意に、店の電話が鳴った。
 彼は人差し指をたてて客を待たせ、受話器をとった。

 声を聞いてすぐ、彼は目を伏せた。何を言っているかは聞こえなかったが、好もしい電話ではないことはわかる。

 受話器を置くと、彼は別の電話をかけた。
 少しして、店に太った男が現れた。ジョシュアがカウンターを出る。

「いつもすみませんね。5分で戻りますので」

「戻らなくていい。きみはクビだ」

「またつれないことを――。これで最後にしますから」

 彼は店を出て行った。わたしも彼の後を追って、店を出た。
 店からそう遠くないガード下の暗がりに水夫のように大柄な男が立っていた。
 ジョシュアは彼を見るなり悲痛な声をあげた。

「いいかげんにしてくれ。おれにつきまとうな」

「――ジョシュア。おれを見殺しにするのか」

 大男はジョシュアの腕を掴み、「飢え死にしそうだ。金がいるんだ。千ポンドでいい」

「千ポンドなんてあるわけないだろ!」

「じゃあ、五百でいい」

「ダレン! いいかげんにしろ」

 ジョシュアは腕をふりほどいた。「あんたとは別れたんだ。おれはもうあんたとは関係ない! 金もないし、やる筋合いもない。おれに二度と近づかないでくれ」

 へえ、と男が低い声を出した。

「おまえ、金を持ってないんだな」

 あざ笑うように言うと「よし、わかった。おまえんとこのオーナーから借りるよ。二万ぐらいな」

「やめてくれ!」

 歩き出す男に、ジョシュアが悲鳴をあげて追いすがる。

「前の仕事もあんたがぶちこわしたんだ。やめてくれよ。おれを雇ってくれるところなんてもうないよ」

「だったら金だ!」

 いきなりふりむくと、男はジョシュアの襟首をつかんだ。壁に叩きつけ、鼻を近づけて凄む。

「レジひっかきまわしてでもなんでも金を持って来い。五百ポンド、明日朝十時までだ。じゃなかったら、おまえを売る。ジョシュア、おれはおまえを逃がしゃしねえからな!」

 ややあって、ジョシュアがもがいた。男の影が彼にのしかかっていた。

「おい、やめろ! こんなとこで」

「何言ってんだ。おまえこうされるのが好きなんだろう」

「ばか放せ! ――ひっ」

「――おまえ、変態だもんな。――おれにやられたくておったててんだろ」

 わたしは鼻白んで立っていた。これ以上見物している必要はなかった。
 背後から大男の襟首をつかみ、ジョシュアから引き剥がす。その硬い頬骨を殴り飛ばした。

 大男は信号の柱にぶつかり、跳ね返って足をもつれさせた。その腰を蹴飛ばすと、彼はあえなく地面に尻をついた。

「これは、うちのペットだ。汚い手で触るんじゃない」

 わたしの妙なセリフに、一瞬相手はあっけにとられた。

「なんだ、おまえは」

「金が欲しいのか」

 わたしはポケットから小切手帖を出すと、小切手を切って、大男の上に投げた。

「金だ。消えろ」

 大男はわたしを睨みながら立ち上がり、手にした紙切れに目を走らせた。街灯の灯りでも0の数は読めたのだろう。一瞬、その目が止まる。

 結局、彼はプライドのほうをあきらめ、ジョシュアの傍らから通り過ぎた。
 ジョシュアはぽかんと口を開いて立ち尽くしていた。

「迎えに来た。帰りなさい」

 


 車のなかで、彼ははじめてあわてた。

「わたしはもう自由なはずです。もうあれは終わったんだ。御前さまが亡くなられた以上、なんのかかわりも」

「父の遺産はすべてわたしが引き継いだ。ヴィラも認めている」

「そんなばかな――」

「おまえもわかっていたから、勝手に出て行ったんだろう?」

 わたしはわざと不機嫌な声を出した。「自由になって、どれだけの男に股を開いたんだ。おまえをまず洗わなければならん。咽喉も尻も淋菌の巣だろうよ」

 その前に罰だ、と吐き捨てた。

 ジョシュアはうなだれた。だが、彼はあきらめたようにドアにもたれ、何も言わなかった。

 邸の玄関で、わたしは彼に裸になるよう命じた。彼はにわかに床にへたりこんだ。床をつかみ、ガタガタふるえだした。

「お許しを。お許しください」

 わたしは待った。
 犬は主人に二度命令させてはならない。だが、このバカ犬はパニックを起こしているようだった。
 しかたなく召使に命じて、彼の服を剥ぎ取らせる。

「や、やめて。やめてくれ。いやだ」

 ジョシュアは抗ったが、その力はよわよわしい。腰が抜けてしまっていた。

 肌があらわれ、その肢体がさらされた。
 やはり少し痩せてしまっていた。若さに咲き誇っていた肉体が青白く褪めて沈んでいる。右の肋骨がわずかに変形しているのが見えた。

「無様なものだ」

 わたしは帰ってきた家出犬を哀れんだ。「野良犬の暮らしは楽しかったか」

 裸に剥かれ、玄関の床でふるえている彼は哀れな犬そのものだった。

 わたしは友人を呼び、彼を診察させた。ヴィラの友人だ。肘掛椅子に縛り付けた裸の男を見てもおどろかない。

「咽喉をやられていないといいがな」

 友人はジョシュアの口からとったサンプルをしまいながら言った。

「咽喉は抗生剤が効きにくい」

「感染してたら罰を与える」

「どんな」

 わたしは父のデスクの傍らからワゴンを引き出した。

 ジョシュアの顔色が変わる。

「きみ、こいつの使い方はくわしいだろう?」

 わたしは友人に微笑みかけ、ジョシュアの口にタオルをかませた。ジョシュアが目を剥いて暴れる。

 必死にもがく姿が友人の興をそそった。友人は電気メスをとると苦笑して首をふり、

「アルコールを」

 とわたしに指示した。

 くぐもった絶叫が書斎に跳ね上がった。ジョシュアは肘掛椅子の上で、罠にかかった獣のように暴れた。

 電気メスがペニスのそばのやわらかい皮膚に触れる。ジョシュアの体がはげしく踊った。小さい火傷を残し、組織の焦げるにおいがただよった。

 ジョシュアの目から涙があふれた。彼は犬の目でわたしを見つめた。

――おゆるしを。

 ふたたび火花がデリケートな皮膚を焼いた。会陰を、陰嚢を、ペニスを焼かれ、ジョシュアは声を嗄らしてわめいた。

 わたしは殴られたように立ち尽くして見ていた。足元が雲に浮くようだ。

 魅入られ、奇妙な悦びに昂ぶる一方、なぜか胸苦しい。

――あの犬だ。

 父の膝に侍っていたペットだ。学生時代、わたしの魂をがっちりとつかんでいた魔物だ。





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