逃げ犬 後編

「どうだ。父上の時と比べて」

「まだなんとも言えませんな」

「わたしになついているように見えるが」

「あれはこすっからい男ですから」

 わたしはルークでチェックをかけていたナイトをとり、執事にジョシュアの様子をたずねた。執事はチェス盤を睨んだまま、言葉を選んでいた。

「貧乏人の子ですからね。どんな恥知らずなことでも平気でできます。道化みたいにはしゃいだり、娼婦みたいに媚びてみせたり。こちらが油断した途端、消えています。御前もどうもあいつには手がにぶったようで」

「逃げた?」

「何度も」

「――では、わたしのことも甘く見ているだろうね」

 連れ帰って十日、わたしは毎晩のようにジョシュアを抱いた。

 父のペットは逆らわなかった。

 わたしの腕のなかでからだを開き、うれしそうに甘えてみせた。歩けば、足元にまとわりついて愛想をふりまく。

 わりきったのか、そのように見せているのか、いい犬に見せようとけなげにわたしの機嫌をとっていた。

「どのみち、チップは埋めてありますから、逃げてもそれほど問題はありませんがね――チェック・メイト」

 わたしは自分の不注意に気づき、彼に賭け代のウイスキーを取らせた。

「――問題はあるさ。わたしが傷つく」

「ゆゆしきことでございます」

 執事はウイスキーを手に一礼し、部屋を出て行った。

 



「……ン、ご主人様……」

 彼が下肢をすりつけようとするのを押さえ、二度、三度、耳たぶを甘く噛む。耳を離し、舌を伸ばしてそっと首筋をなめてやる。

「……アア、ハッ」

 泣くようにジョシュアが喘ぐ。もがこうとする足を膝でおさえ、その肩をシーツにおさえつける。

「じっとしてろ」

「ご主人様、もう」

「お兄さん、そう興奮するな。まだキスだけだよ」

 笑いながらその首を噛む。ネコのように舌を這わせてやる。

 年上のかわいい男がわが身の下でせつなく喘いでいた。その息がおちつかなげにふるえるのを聞くと、体の芯がバーナーの火に炙られるように焼け焦げていく。

(悪い犬め)

 淫蕩な、油断のならないペット。甘ったれて媚びながら、わたしの肩越しに逃げ道を探している。

 ある日、わたしは引きちぎられた首輪を見つけるのだろう。妻が消え、静まり返った家を見ていた日のように。

「ご主人様、……もう、お願いです」

「ノー」

「もう……ください。気が狂いそうです」

 おまえの命令などきかないよ。
 わたしは笑い、そのすべらかな感じやすい首筋を味わった。膝の下で彼の足が浮き上がろうとこわばるのがわかる。腕がシーツをつかんでこらえているのがわかる。

「……ンッ」

 彼がわたしを押しのけようと肩をすくめる。なお耳の穴に舌を差し入れると、鼻にかかったよわよわしい鳴き声をたてた。

「やめ、もう――ご主人、様、もう――お願い――」

「静かに」

「もうそこは、――アッ――は、ン」

 ついに彼の手がわたしの二の腕をおさえた。茶色い目がうるみ、哀願する。

「もう意地悪しないで抱いて。ご主人様、抱いてください」

 スタンドの明かりを映した目はうろたえ、愛らしかった。大きな瞳孔に吸い込まれるようだ。

 わたしは彼に口づけ、その熱い体を抱きしめた。彼の手が痛いほど強くしがみつく。主人が口づけているのに、せわしなく股を開き、坩堝を差し出してわたしを探している。

 わたしはその足をつかみ、熱い肉のなかにすべりこんだ。ペニスから電流が駆け抜け、身を貫いていく。火の玉のような快楽に全身の関節が浮く。わたしは犬の甘美な引力にたじろいだ。

 見ると、犬が歯を食いしばってのけぞっている。息がふるえ、その歯が鳴っている。睫毛の間に涙が光っていた。

(たまらんな――)

 かわいい、ずうずうしい犬め。
 親父がふりまわされるわけだ、と苦笑いした。
 



 翌日、わたしはジョシュアを居間に呼んだ。

 律儀に犬座りした彼の前に、服と財布を投げた。ジョシュアがわけがわからぬと言った顔で見つめる。

「ロンドンへ帰れ」

 わたしはソファにもたれて言った。「十分愉しませてもらった。帰っていい」

 ジョシュアの茶色い目が丸く大きくなった。うっすらと唇が開く。が、あえぐだけで声が出ない。

 彼はなにかを探し、目をおよがせた。
 わたしは笑い、

「ヴィラのことは嘘だ。父の遺産リストにきみの名はなかった。きみは自由だ。――そこにいささかの謝礼を入れておいた。バカな使い方をしなければ、次の仕事を探すまではしのげるだろう。――あのチンピラとよりを戻したいなら、ちょっと待ってもらわねばならんがな。あれは今、詐欺か何かで拘留中のはずだ」

 ジョシュアは動かなかった。床を見つめたまま、ふぬけている。

「どうした?」

 わたしは反応を待った。

 呆けたような男の顔が、どんよりと濁った。その頬を涙のしずくがすべり落ちた。

「――いやです」

 湿った声が言った。

「追い出さないで。飼ってください」

「なにを言ってるんだ」

 彼はぱっと絨毯にしがみつき、引き剥がされまいとした。「お願いです――」

 はだかの背がふるえた。

 白い背は四年前より肉がうすい。エネルギーも薄い。見えない傷から幾筋も血を流しているようだった。

 わたしはやや物憂い思いでそれを見つめた。

「外は楽しくなかったか」

 彼はかぶりをふった。「おれはダメなんです。主人がいないと生きていけない」

「出て行きたかったんだろう」

 出て行きたかった、と彼は怒鳴った。

「出たかったさ! ヴィラに捕まってからずっと帰りたかった。酒も飲みたかったし、もっと若い男とつきあいたかった。こんなばかばかしいことやってられるかって、いつも思ってた! 御前が死んでやっと自由になれた。やっとロンドンに帰れた――」
 
 でも、と苦しい声がいった。

「でも、うれしかったのは最初だけだ。すぐ変な男とつきあって、殴られて、金を騙しとられた。別れると、新しい男もやっぱりひどいやつだった。その次の男も。好きになる男はみんな、おれをいじめるやつばっかりだ。誰も愛してくれなかった。誰も――」

 彼は失意から酒におぼれ、体を壊した。それでも、酒がやめられずにいた。

「おれはつらくて、もう死にたかった。もっと寒くなったら、御前のお墓で酔っ払って死のうって思ってた――」

「父の?」

 彼は涙に濡れた顔をゆがめ、「結局、おれをかわいがってくれたのは、あの方だけなんだ。あのハゲ。あのいやらしい――。あの人だけはおれをきれいだって言ってくれた。いつもキスして、風呂に入れて、かわいがってくれた。ペットとしてだけど大事にしてくれた――。おれはお邸に帰りたかった。もう死んだってわかってたけど、もう一度あの方の犬になりたかった」

 嗚咽に声がにごる。彼は腕で涙をぬぐい、顎をふるわせた。

「あなたが、迎えに来てくれた時、――ほっとしたんだ。あの医者にいたぶられて泣いて、でもホッとしてた。また犬になれたんだって。今度こそ、しくじらないようにしようって」

 わたしはもう笑いをこらえられなくなってしまった。哀れさに負け、吹いてしまった。

「おいで」

 ジョシュアは洟をすすりながら這い寄った。その髪をつかみ、かきまわし、わたしは笑った。

「いいか。おまえがいたいと言ったんだぞ。わたしが逃げろと言ったのに、おまえが犬になりたいと言ったんだからな」

「逃げません」

 彼はわたしの膝に顔をうずめて泣いた。

「二度と逃げません。ご主人様、かわいがってください。いい犬になります」




              ―― 了 ――




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