「嘘だよ。信じてくれ。おれがあんた以外の男と寝るわけがないじゃないか」
ほとんど同棲同然に暮らしていたルディが裏切った。このあつかましい浮気者は、まるで自分が被害者みたいに吠え立てた。
「あんたおかしいよ。友だちと飲みにいっただけだ。それパラノイアだよ」
「アラミス」
おれはうんざりと言った。「おまえから香水がにおうんだよ」
ロバート・レットフォードとおんなじ、なんて喜んでつけているバカは院長しか思い当たらない。こいつは権力に身を売ったのだ。
「これは――」
「自分でつけていたなんて嘘はつかないでくれ。おれにはわかるんだ。直接、肌につけた匂いじゃない。残り香ってやつだ。ちなみに酒のにおいはしない。バーのにおいもな!」
ルディは口をあけ、言葉を探していた。
おれは彼の服を丸め、窓から投げ落とした。
「きみはビッチだ。いっしょに暮らしたくない。出て行ってくれ」
ルディは顔色を変えた。青い目から噴き出すように涙を流した。
「よくもおれを侮辱しやがったな。よくも――」
彼はくやしげに言うと、足元の床にむかって何かを投げつけた。ガラス瓶がはじける。強いにおいが飛び散った。ガラス瓶にはリボンがついていた。
「残り香がうつったかもしれないな! 店で1時間もこんなものを選んでたからな。あんたの誕生日――」
彼は泣きながらわめいた。「でも、もう終わりだよ!」
おれは香水はきらいだ。
犬だってきらいだと思う。においがわからなくなる。おれの鼻は犬ほどじゃないが、やっぱりにおいがわかりにくくなる。
ルディは出て行ってしまった。
香水瓶はヒビが入り、強烈なにおいの液体が床に染みた。あわててふき取ったが、においががっちりと床にしがみついてとれない。細菌のように服にまで感染してきた。
(くそ)
頭がくらくらして、おれはバーに避難した。あのアパートには当分帰れない。
(誰かに泊めてもらわなきゃ)
酒を舐め、おれは鼻にしわをよせた。ダメだ。三回も体を洗ったが、香りがとれていない。うまくにおいが嗅げないとイライラする。ものがよく見えない感じだ。
「今日はどんな感じです?」
若いバーテンがグラスを磨きながら笑いかける。「おめがねにかなう人はいますか」
「最悪。世の中から希望が消えうせてしまったよ。きみは最後の希望だ。きみの部屋に泊めてよ」
あ、と彼は困ったような顔をした。「その、ガールフレンドが」
ああ、そう。おれは鼻息をついた。まったくどいつもこいつも。
「30人の愛人たちはどうしたんです?」
「いるよ。あちこちに。でも、シカゴ担当はひとりなんだ。かちあっちゃこまるからね」
そう言った時、携帯電話が鳴った。リチャード・プライス。はてどの地区担当だろう。おれは二秒して、新会員だと思い出した。
「ハイ、リチャード」
『ジャック。おれ、今シカゴにいるんだ』
わお。不機嫌がいっぺんに吹っ飛んだ。
『会えない?』
「今日は忙しい。でも、きみのためにキャンセルするよ」
だが、うかつだった。
においが嗅げないと、おれは盲も同然だ。ふつうの人以上ににぶくなってしまう。
おれは危険のにおいに気づかなかった。シェラトンのロビーで会った時、リチャードの表情の不自然にも気づかなかった。
部屋で抱きつこうとしたら、彼は手をあげて制した。
「会って欲しい人がいるんだ」
彼の声が細くなった。「父に会って欲しいんだ」
これはたまげた。父?
「なぜさ?」
「きみのことを話したんだ。あの、ドクター・クレイトンに知り合ったって。そしたら、父は、あのクレイトン先生にならぜひ会いたいって言うんだよ」
はて。いつのまにおれの名は知られていたのだろう。論文も書いていないのに。
「親父さんは心理療法に興味があるの?」
そう聞いた時、ドアが開いた。五十がらみのイギリス的な紳士が入ってきた。
「父さん――」
リチャードは立ち上がり、おれを紹介しようとした。
「出ていなさい」
紳士はおだやかな声で命じた。「少しこちらと話がある」
「彼とあとで会える?」
出なさい、と紳士は息子にふたたび命じた。
リチャードが出て行くと、紳士は憮然とおれを睨んだ。
おれはようやく妙な空気に気づいた。さっきからずっとただよっていたのに気づかなかったにおい。複数の人間のにおい。最悪の危険のにおい。
紳士は低い声で言った。
「よくも、わたしの息子に手をだしたな。この――野良犬め」
待ってくれ、と言おうとした。その時、圧縮された空気とともに何かが背にささった。とたんにバラバラと骨がくだけ、床に伏した。
(うそだろ)
あの感触だ。テイザーだ。かつて、さんざん喰らった味だ。
「バカな真似はやめろ。こんなことしてタダで済むと思うのか」
檻の鉄格子をゆさぶって、必死に訴えた。おれはすっぱだかだった。首に首輪を嵌めていた。
紳士は細い葉巻をくわえ、つまらなそうに見ていた。
「今、パリのきみの飼い主と連絡をとっているところだよ。サジェールくん」
本名を暴かれ、腰が抜けそうになった。この男はおれの素性を知っていた。ヴィラの会員なのだ。
「六年も逃げていたんだって? あきれたな。ミッレペダの追跡はそんなにゆるいのか」
「ご主人様から手配の要請がなかったのです」
隣にいた男が慇懃に言った。「お買い上げになった犬は基本的に、ご主人様の管理下にあります。特別な要請がないかぎりヴィラは動きません」
「しかし、こいつには迷惑していたろう」
ええ、まあ、と男は苦笑した。
「何人かのお客様から苦情が来ておりました。捕獲寸前の仔犬を傷物にされたこともありましたよ。上のほうでも、ルブランさまに注意しようとしていたところです」
主人の名が出て、おれはあわてた。
「おれは逃げたんじゃない。追い出されたんだ。むこうからおれを捨てたんだ。本当だ」
半分本当だ。主人は二十人も若い男を飼っていた。主人がいない間に彼らと愉しんでいたら、それが主人の不興を買った。裸で外に放り出された。
おれはふって湧いたチャンスに気づいた。逃亡し、アメリカへ逃げ、勤め先の病院で自分の体の中にあったチップを抜いた。
主人にとっても、おれは惜しい犬ではなかった。逃げたままになり、なしくずしに自由を得ていたのだ。
「おねがいです。あの方には知らせないでください。おれなんか要らないから放置してあったんです。お願いです」
「そういうわけにはいかん」
煙に目を細め、紳士は言った。「犬はしっかり飼い主に管理してもらいたい。できれば去勢してほしいな。でないと、わたしの息子に害が及ぶ」
「ご子息にはもう近寄りません! おねがいです。ご主人様、お願いです」
おれは檻の床に手をつき、犬の姿勢をとった。哀れな犬が鼻を鳴らすように見上げ、涙を浮かべた。
アフリカには帰りたくない。フランスにはもっと帰りたくない。
アメリカにいたい。自由と、おれのかわいい子たちと別れたくない。
「ご主人様、あなたがわたしを飼ってください。お役にたちますから」
紳士は苦笑した。「きみか――。残念だが、もっとういういしい子が好きだね」
「ご紹介できます!」
おれは食いついた。「処女がお好きですか。若い子が!」
「――ああ、ジャック。早く、お願いだから」
バイブでアナルを揺さぶられて、ルディがかわいい悲鳴をあげる。手をさまよわせ、おれのペニスを握ろうとする。
おれは片手でその手首をつかみ、さらにバイブを揺らしてやった。
「だめだよ。キャベツちゃん。こないだは香水で、おれを大ピンチに陥れやがって。おれは怒ってんだ」
「自分が悪いんだろ、……ア、んっ――もう、いやだって。こんな、――アアッ」
唐突に電話が鳴った。おれは彼に毛布をかませ、しっと指をたてた。電話をとりながら、バイブを最強にしてやる。ルディの目が大きくひらき、くぐもった呻き声が漏れた。
「ハロー」
『ジャックか。わたしだ』
新しい主人だった。おれはバイブをはずそうとするルディの手首をつかみ、電話を取り直した。
「どうでした? こないだは」
『悪くなかった。だが、処女じゃなかったね』
「処女より扱いやすかったでしょ」
『ああ。だが、きみのお手つきというのが気に入らんな』
おれは笑った。
おれは元の主人からリチャードの親父に買い取られた。
ふたたび飼い犬に戻ってしまったが、それほど不自由はない。彼はおれの尻には興味がないし、息子にさえ手を出さなければ、これまで通り好きにさせてもらえる。
ただ、たまに獲物を彼にまわしてやればいい。
「食べ頃のをご紹介したつもりでいたんですが」
『次はまっさらなままよこしてもらいたい』
「わかりましたよ。ボス」
布越しに悲鳴があがる。ルディがガクガクと痙攣していた。
「じゃ、切りますよ。取り込み中なんで」
電話を切ってふりむくと、ルディは毛布を吐き出し、大きくあえいでいる。腹を濡らしてしまっていた。おもちゃの刺激が強すぎたらしい。
「いけない子だ」
おれは彼の手を放さず、キスした。あいかわらず重い振動音が続いている。そのままにして舌をからめつづける。
「ンーッ」
彼がもがくがおれは知らんふりして舌をむさぼった。疲れ果てた体をおもちゃに嬲られつづけ、ルディは狼狽した。身をよじり、腰を振って逃げようとする。が、おれはその下肢をがっちりと押さえ込んで逃がさずにいた。
青い目がつらそうに涙ぐんだ。
「……はずして。もう」
「どうして?」
その頬が真っ赤に染まる。観念してルディは細い声をだした。
「あんたのが欲しい。あんたじゃなきゃいやだ。何度も言わせるなよ」
おれはにんまり笑った。自由はやっぱりいいもんだ。
―― 了 ――
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