2011年4月1日〜15日 |
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4月1日 セシリオ 〔犬・未出〕 ぼくは映画ファンだった。毎週お小遣いにぎりしめて町の映画館にかよい、ポップコーンを抱えて、暗がりでワクワクしていたオタクなガキだ。 タフガイの刑事や兵士、不屈のボクサーや超人たち、そんなヒーローたちの活躍にあこがれて育ったんだ。 だから、ほんとうにとまどってしまう。自分がまさか、まさかこんなところで、映画スターに出会うとは。それも当代セクシー俳優ランキングに常に入るスーパースター、グウィン・バーロウの飼い犬になるとは。 |
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4月2日 セシリオ 〔犬・未出〕 グウィンはすごく雰囲気を持ったハンサムだ。 お父さんはハリウッドを代表する名優で、二世だけどけして七光りなんかじゃない。華もあるし、実力もある。 なにより印象的なのは、ぼくたちとは違う世界を見ているような静かな冷たい目だ。非情な悪役をやると痺れるほどカッコイイ。 そんな彼だから、ヒロインを守って死ぬ悲劇的なヒーローの役をやった時は、凄かった。映画誌や女性誌がグウィン一色になった。 ぼくだってしびれた。だから、このひとのこんな面を見るのはこまっちまうんだ。 |
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4月3日 セシリオ 〔犬・未出〕 素顔のグウィンはぜんぜんクールじゃない。 ティーンエイジャーみたいに言葉づかいが乱暴で、また品がない。噂話、ひとの悪口が大好きで、友だちとそんな話ばっかりしている。 すごくムラ気だ。さっきまでニコニコ話していた相手に、急に不機嫌に「てめえ、死ねよ」と部屋から叩き出したり、そいつの顔の前に尻を突き出して、おならしたりする。 でも、弱気になると相手の靴をなめんばかりに、下手に出る。 ヴィラでも嫌われてるらしい。友人は同じハリウッドスターのルークだけだ。 |
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4月4日 セシリオ 〔犬・未出〕 ルーク・ノーマンは王子様的な二枚目スターだ。 素顔はやっぱりそんなに二枚目じゃなくて、アホっぽいところもあるけど、基本的にやさしい人だ。 でも、グウィンはいつも彼を邪険にする。 「やつは親父の派閥に入りたいだけさ」 召使いみたいにあしらったり、小ばかにしている。ルークが死ぬほど欲しがっているオスカー像をテレビショッピング風にプレゼンして、口にいれてしゃぶってみせたり、尻に入れるマネしたり。 ルークはくやしがるが、それでも翌日にはケロリとやってくる。 |
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4月5日 セシリオ 〔犬・未出〕 もちろん、最初はぼくもスーパースターのそばにいられるなんて、と夢心地になったさ。 グウィンはベッドではサド趣味もなくて、鞭を振ったりしない。機嫌がいい時は 「セシーには、スターの素質があるよ。役者になるなら、クチきいてやろうか」 なんて、一般人が天にも昇るようなことを言ったりした。 だけど、夜はぶすっとしてひとこともしゃべらなかったり、終わった後、からだを拭いてやると、「おれに触るな」とベッドから蹴り落としたり。 機嫌のいい時と悪い時の落差がはげしいんだ。 |
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4月6日 セシリオ 〔犬・未出〕 そんな折、ぼくはCFでヤンと知り合った。 太極拳のクラスに時々やってくる中国の犬だ。ひとあたりがよくて、すぐにまわりの人間を仲良しにしてしまう。 こいつは先生かなにかだったのかしら、と感心してみていた。 ある日、マーケットで買い物をしていたら、向こうから声をかけてきた。 「豚足、食べるの?」 ぼくは知らないうちに中国食材のコーナーにいて、グロテスクな豚の足の山の前にいたんだ。 「いや、こういうのは――」 「けっこううまいんだぜ。中庭でいっしょに食べないか」 |
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4月7日 セシリオ 〔犬・未出〕 その時、偶然、主人のグウィンがスーパーにきたんだ。 ぼくが手をふると、グウィンは隣にいたヤンに気づいた。 「何してる」 ヤンもグウィンに笑いかけた。 「セシーに豚足をご馳走しようと」 「うちのワン公にへんなもの食わせんな。こいつのケツにつっこむのはおれだぞ。豚の爪がひっかかったらどうする」 ヤンは笑って立ち去った。 「ヤンと知り合いだったんですか」 「親父の犬」 グウィンは教えた。 「あれはペキン・オペラ(京劇)の役者さ。なんか賞をとった有望な俳優だったらしいぜ」 |
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4月8日 セシリオ 〔犬・未出〕 主人の父親の犬ということがわかり、ぼくはヤンと話すようになった。ヤンはCFの新しいクラスの講師をしているらしい。 「京劇のクラスなんだ。きみも来いよ」 京劇はむかし孫悟空を見たことがあるきりだ。ちょっとサルとは思えない、黄色い派手な服と、やたら銅鑼や鐘がうるさかったのを覚えている。 「いま、役者募集中なのさ。きみ、なかなかセンスいい体してるから、目をつけてたんだ」と 彼は笑った。 おだてられて浮かれたのと、ヤン自身に興味を持っていたので行って見た。 |
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4月9日 セシリオ 〔犬・未出〕 京劇のクラスにいって、いきなりがっかりしたことがあった。 ヤンのそばに、ほっそりした美男の中国犬がいたんだ。ヤンにいわせると、彼はアメリカ人だが、父親がアマチュア京劇をやっていたらしい。 ふたりはよくわからない専門用語で話し、ツーカーの仲みたいだった。 ヤンのやさしい目から、彼が気に入りだとすぐにわかる。ちょっと芽生えかけた浮かれた気分は、たちまち消火されてしまったさ。 まあ、よくあることだ。それ以外の点では、京劇クラスは新鮮だった。 |
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4月10日 セシリオ 〔犬・未出〕 「京劇の俳優は役割が分かれていてね」 ヤンはぼくにビデオを見せながら、ていねいに説明してくれた。 「男だけでも、立ち回り役、優男役、道化役、老人役、豪傑役といろいろある。セシーは体が切れるから、立ち回りがいいね」 ヤンはなんだったのか、ときくと 「おれは老人役、歌が専門。でも、ここではなんでもやるよ」 そして、くだんの仲良し――アピンは女役らしい。 「今度、公演をやろうと思うんだ。中庭で。セシーも出てくれ。もう演目は考えてある」 |
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4月11日 セシリオ 〔犬・未出〕 「指差すしぐさひとつとっても、女役と男役じゃ形がちがう」 ヤンはとても教え方のうまい先生で、彼が10年かけて学んだことをすごくわかりやすく教えてくれる。 「セシーは体のセンスがいいからすぐ覚えるね。中国人の子どもより優秀だ」 ぼくは観る側で、演じる側の人間とは思わなかったけど、ヤンが明るく教えてくれるので、このクラスが好きになった。 なんとなく、家でグウィンといるより、気分がいいんだ。ヤンは汚い言葉は使わない。いつもおだやかだ。 |
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4月12日 セシリオ 〔犬・未出〕 キッチンでミルクをあっためながら、なんとなく京劇のフシで鼻歌を歌っていた。 すると、 「散歩に出るや、おぼえず至り、孫家の門」 となじみの歌が聞こえた。ルークが扇子をあおぐしぐさをしながら、入ってきた。 「ルーク。なぜ」 「聞いたよ。ヤンとペキン・オペラをやるんだって?」 聞けば、ルークは京劇用の弦楽器、京胡の演奏ができるという。 「映画でいっしょになった中国人に習ったのさ。レナードのドムスでヤンが歌う時には、おれが演奏するんだ。今度、きみもこいよ」 |
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4月13日 セシリオ 〔犬・未出〕 ルークがぼくを連れ出したいと言った時、主人のグウィンはちょっと変な顔をした。 ぼくは(機嫌の悪い時かな)と不安になった。 「かまわんよ」 グウィンはあっさりOKを出し、ルークはぼくをエスクイリヌス区の大きな邸宅に連れて行った。 「やあ」 ヤンがすでに来ていた。 「セシーも聞いてくれるなんて、はりきっちゃうな」 ヤンは愛想をいい、アアアアと発声練習をはじめた。おどろいた。いつもと違うのびやかで、哀切な老人役用の声だ。 ルークも弦の調整をした。 「はじめよう」 |
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4月14日 セシリオ 〔犬・未出〕 ぼくははじめてヤンが歌うのを聞いた。 打たれて棒立ちになった。 なにを言っているのか、わからない。ひとこともわからないけど、涙が出た。 ヤンの歌声はひとつの楽器のようにからだに響きわたり、細胞をゆるがし、別世界へ連れてってしまう。 意味がわからないのにひどく物悲しく、ここちよい涙があふれてくる。 「なんて芝居なんだい?」 終わった後、ぼくは洟をすすって聞いた。 「文昭関」 ヤンはやさしく言った。 「おれが一番好きな演目。ここじゃやれないけどね」 |
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4月15日 セシリオ 〔犬・未出〕 ヤンは、この芝居は歌がメインになるので、京劇を知らない観客には退屈だという。 「そうかな」 ぼくはまだ感動でぼんやりしながら 「あのディエーっていうところ、すごく好きだ」 「ああ」 とヤンはにっこりした。 「あそこは拍手がくるところだよ」 「なんて意味?」 「『父上』」 ルークも言った。 「彼の文昭関や空城計がかかると、北京のうるさ型の京劇ファンがいっせいに観に来る。人民劇場のチケットが完売になる。今のうちタダでよく聞いておけ」 ルークはやさしい。ぼくは連れてきてもらって感謝した。 |
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