2011年4月16日〜30日
4月16日 セシリオ 〔犬・未出〕

 ルークはちょくちょくぼくを呼んでくれるようになった。
 ヤンの練習がない時でも、京劇のビデオを見せてくれたりした。

「劇場いくと、じいさんたちがコーヒーの空き瓶にお茶いれて、待ってるんだ。開演が遅いと拍手してからかったりしてな」

 ぼくはうれしかった。もともと映画鑑賞好きなオタクだ。ヴィラにきて奪われたもの、『文化』に飢えていたから、この時間は幸せだった。

 ただし、グウィンにはちょっと悪い気がした。グウィンはいつもあっさり許可してくれるが、どう思ってるだろう。


4月17日 セシリオ 〔犬・未出〕

 しかし、幸せな時間はつづかなかった。

 ぼくはアホだった。
 ルークがなんでぼくに親切なのか、よく考えていなかった。

 だから、ビデオを見ている最中に、彼が頬にキスしてきた時、なんの意味かわからなかった。そのあと彼の手が腰を引き寄せた時、はじめて意図に気づき、おどろいた。

「待ってください」

「グウィンは許可している。なんなら電話して聞いてもいいよ」

 ぼくはショックで頭がまっしろになってしまった。
 自分の立場を忘れていた。ぼくは犬だった。モノと同じだった。


4月18日 セシリオ 〔犬・未出〕

 ルークは乱暴ではなかった。ぼくも楽しめるようサービスしてくれた。

 だが、ぼくの気持ちはみじめだった。ルークはいつも気さくにつきあってくれた。このひとは人間を犬といって差別しない紳士のように思っていた。それゆえに慕う気持ちもあったのだ。

 帰り道は気分が浮かなかった。

(思い上がってたんだ、こっちが。ヴィラのご主人様にしちゃマシなほうじゃないか)

 そう思っても呆然としてしまっていた。
 そんな時、ヤンが声をかけてきた。


4月19日 セシリオ 〔犬・未出〕

 ヤンは主人のレナード・バーロウといっしょだった。
 国民的名優が目の前に立っていたが、ぼくはどうしたらいいかわからなかった。

 ヤンはぼくがへんな顔をしているのに気づいた。

「どうしたのさ」

 ぼくは言えなかった。グウィンの親父の前だ。グウィンから友だちに下げ渡されたなんていえるはずがない。

「うちに遊びにくるかい?」

 レナードがやさしく言った。

「グウィンに連絡しておくが」

 その言葉にぞっとして、ぼくは駆け出してしまった。


4月20日 セシリオ 〔犬・未出〕

 ドムスに帰っても、グウィンは何も釈明しなかった。
 ぼくも言わない。なにもなかったように、ふつうに話した。

 でも、グウィンはぼくを抱かなくなった。
 ルークはその後もしばしばぼくを呼びつける。時々、犯す。
 グウィンは知っていながら、ルークから電話があるとぼくを送り出した。

 ぼくは混乱した。汚い言葉やだんまりや不機嫌など癖はあったが、それでも自分のものとして保護してくれているとおもっていた。

 もういらなくなったおもちゃなんだろうか。ぼくはなにかやらかしたのだろうか。


4月21日 セシリオ 〔犬・未出〕

「ぼんやりしちゃってるね」

 ヤンが稽古中に苦笑した。

「悩み事なら聞くよ。このままだとアピンに刺し殺される」

 ぼくは武劇の稽古をしている。水滸伝の一幕、武松がブラックな宿屋に泊まって、そこの女将に殺されそうになり暗闘するという芝居だ。

 アピンが両手に匕首を持って襲ってくるのを、素手でたちむかう。タイミングがずれると手や足が金属製の匕首にぶつかる。

「ごめん。だめだ。今日は帰るよ」

 帰るといってもあのドムスには戻りたくない。ぼくは中庭の隅でうなだれていた。


4月22日 セシリオ 〔犬・未出〕

「最近、ルークのとこに来ないね」

 中庭でぼんやりしていると、ヤンが勝手にテーブルに座った。
 ぼくは皮肉を言いそうになった。

(行ってるさ。ただきみが来ない時に呼ばれてるだけだ)

「唱を教えようか。なにか短いやつ」

「ノー!」

 つい大きな声が出てしまった。ヤンはすこし怪訝そうな顔をしたが、怒らなかった。

「なんかあったんだな。言ってみなよ」

 ぼくは疲れ果てていた。もう口を制御する力もなくなって、ついしゃべってしまった。
 涙も抑えられず、みっともなくも泣き出してしまった。


4月23日 セシリオ 〔犬・未出〕

「ぼくだって、自分が犬だってわかってる。しょうがないことだ。ルークはただエロいだけだし、こんなのマシなほうなんだ。でも、これじゃ、どこをよりどころにしていいか、わからないんだよ!」

 ぼくはナプキンで何度も洟をかんで、ここしばらくの苦悶を吐き出した。

「つらかったな。それは」

 ヤンはまじめに聞いた。

「イヤだって、言うだけでも言ってみたらどうだい」

「犬がか!」

 ヤンは言った。

「聞いてくれなくても、気持ちをはっきり伝えておくのは無意味じゃない」


4月24日 セシリオ 〔犬・未出〕

 グウィンに何か言うのはこわい。
 不機嫌な時のグウィンは何を言い出すかわからない。無傷じゃすまない。本当に腹をくくって、ひどい目に遭う覚悟で言わないと。

 でも、ヤンはぼくを勇気づけてくれた。

「いざとなったら、おれがご主人様に頼んでやるよ。ご主人様はむごい人間じゃないから」

 ヤンが親身になって聞いてくれたせいで、ぼくも少し元気が出た。ひとがそばにいるって大きいものだ。

 ぼくはグウィンと話をするハラを決め、ドムスに帰った。
 しかし、グウィンは玄関ホールで倒れていた。


4月25日 セシリオ 〔犬・未出〕

 グウィンはすぐにポルタ・アルブスに運びこまれた。
 
 薬を吐かされ、大量のカーボンで洗浄されて、一命を取り留めた。
 なにをしたか、本人は覚えてないと言っている。

 ぼくは動転してしまった。自殺? なぜ? 

 ぼくはグウィンの私生活についてはよく知らない。気安く聞ける相手ではないし、そんなことを話すのは分を超えると思って遠慮してきた。
 芸術上の苦悩になるともっとわからない。

 ただ、わかるのは、ぼくが彼に親切ではなかったことだ。彼を愛してなかったことだ。


4月26日 セシリオ 〔犬・未出〕

 父親のレナードがグウィンをたずねてドムスに来た。

 ふたりはリビングでぼそぼそと話し合っていた。
 やがてグウィンがぼくを呼んだ。

「セシー、おまえ、親父のとこにいきな」

 ぼくはドキリとした。

「ちょいと仕事でここを離れるんだ。これからは親父にかわいがってもらえ」

 頭に血がのぼった。ぼくは数日の混乱とショックでわめきだしてしまった。

「なんだって人に差し出すんだ! あんたおれのご主人様じゃないのかよ! おれの気持ちはどうでもいいのかよ!」


4月27日 セシリオ 〔犬・未出〕

 犬の気持ちなんかどうでもいい。
 それがここの常識だ。

 だが、グウィンは怒らなかった。といって、うれしそうな顔もしなかった。

「じゃ、好きにしろ」

 ぼくは悶えた。なんといったら、この人の心に訴えられるんだろう。ぼくの忠誠を信じてもらえるんだろう。
 レナードが笑った。

「グウィンはきみがさびしかろうと思って言ったんだ。うちにはヤンもいる。話し相手がほしくなったら、いつでも遊びにきなさい。べつにエッチなことはしないから」

 グウィンは結局何も言わず、ヴィラを去った。


4月28日 セシリオ 〔犬・未出〕

 ぼくは昼はCFで京劇の稽古をして、仲間と公演の準備をしたり、おしゃべりしてすごす。
 夕方はパパ・レナードのドムスで食事をした。

 ヤンとレナードと三人でいるのは楽しい。レナードは自分でエロ親父だと言ったが、息子みたいなぶっ飛んだスターではなく、紳士だった。やさしくて気配りのひとだ。苦労人みたいだ。

 でも、ぼくは夜は誰もいないドムスに帰った。グウィンを待ったが、自分でも矛盾を感じている。
 グウィンには愛が必要だ。でも、ぼくにあるのはひどくかたい哀れみだけだ。


4月29日 セシリオ 〔犬・未出〕

 ものさびしく、中途半端な日々を支えてくれたのはヤンだ。

 公演の準備で大変なのに、ヤンはいつもぼくの調子を聞いてくれる。
 稽古中も明るくて、さりげなく楽しませようとしているのが、わかる。

 ぼくはヤンが好きだ。ヤンにはアピンがいるから、彼を困らせるつもりはないが、でも、ヤンとしゃべっていると晴れやかな青空みたいになんの矛盾もない。心地よいだけだ。 それに対し、グウィンへの思いはひどくいびつだ。この差。


4月30日 セシリオ 〔犬・未出〕

「ユーリがOKしてくれたよ」

 ヤンがうれしそうに知らせた。

 京劇には鐘や太鼓の打楽器が必要で、それと動きがぴたりと合ってないといけない。
 ユーリはプロのミュージシャンでキーボードを扱える。打楽器音を全部キーボードに録音して、動きに合わせてキーを叩いてくれるというのだ。

「おれが全部口で演奏するハメになるかと思った。よかった!」

 ヤンは喜んでいた。
 レナードもまじえ、楽しく夕食をすませて、ぼくはドムスに帰った。
 家にひとがいた。グウィンの寝室からうめき声がした。


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