2011年7月16日〜31日 |
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7月16日 遊佐 〔未出〕 「おれのせがれや弟子がそんな目にあったら、たまらんよ。親御さんは地獄だぜ。恥ずかしくないかね。遊佐くん」 「この世界はすでに地獄なんですよ。日本にいると感じないかもしれませんが」 「わかったようなこと言うんじゃないよ」 先生はたいへん不愉快そうでした。 それでも広場にあがり、パンテオンの円堂を見ると、 「あれはローマにあるアレと同じやつかい」 と興味をもたれ、さっさと入っていかれました。 |
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7月17日 遊佐 〔未出〕 パンテオンのなかには無論、四肢切断された犬たちが安置されています。 先生は口をあけ、立ち尽くしてしまいました。 十年前は今よりずっと逃亡の処置も厳しかったのです。当時はすべてのナオスにトルソーが置かれ、彼らの健康状態もほとんどかまわれませんでした。 わたしは説明しました。 「ヴィラには多くの奴隷がいます。逃亡や反乱を誘発しないためにも、厳罰が必要なのです」 先生は答えずパンテオンから出ていかれました。そして、広場に出ると、涙を噴き、赤ん坊のように泣かれました。 ※ ナオス 壁がん 壁が刳られ、神像などぞ安置する場所 |
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7月18日 遊佐 〔未出〕 その後、三日、わたしは呼ばれませんでした。先生はドムス・アウレアから出なくなりました。 わたしは失敗したと思いました。 パンテオンはスタッフでさえ、あまり近寄りたがらない場所です。平和な日常を送っていた先生には、それこそ生き地獄のように映ったでしょう。 わたしは正直にサロン管理者のゴドー氏に話しました。 「しかたない。最後の交渉をしよう」 ゴドー氏は先生の部屋を訪れました。 |
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7月19日 遊佐 〔未出〕 先生の目は赤く、据わっていました。部屋には酒のにおいがしていました。 「酔っているのですか」 ゴドー氏が日を改めましょうか、と聞くと、 「酔ってはいません。泣いていたんです」 と睨みつけられました。 ゴドー氏は交渉に入りました。 新サロンのオープンスタッフには、十人の技術者が必要です。ヴィラが用意したのは十人の使役犬。彼らを三ヶ月で一人前の技術者にしてほしいというのが、依頼でした。 先生はむっと黙っていました。 |
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7月20日 遊佐 〔未出〕 しかし、ゴドー氏が、 「どうしても耐えられないというのであれば、せめて一ヶ月、ふたりだけにでも伝授していただけないでしょうか」 と言った時、赤い目でぎらりと睨みました。 「あとの八人はどうするんだ? 殺すのか? 手足を切って男の相手をさせるのか?」 冗談じゃねえ、と先生はわめきました。 「十人のうち、ひとりたりと殺させやしねえぞ。このひとでなしが。期間は六ヶ月必要だ。モニター集めにも協力してもらう。それと――」 |
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7月21日 遊佐 〔未出〕 「そいつらには客を引かせるな。男に売るな。五年勤めたら、たとえどんな贔屓がついていようが解放しろ。誓約書を書け。それが条件だ」 ゴドー氏はヴィラとの交渉に苦労したようです。先生の条件のうち、犬に客と寝かせないこと、売却しないことはヴィラの方針と相容れないことでしたから。 それでも、ゴドー氏はねばりました。 「どうせ、使役犬なぞブスばかりだろう」 ということで、特別に条件が飲まれたようです。 |
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7月22日 遊佐 〔未出〕 使役犬というのは性奴用の犬より、容姿のランクが少し落ちます。 社会的にも最下層出身の者が多く、字もろくに書けないことがしばしば。 オープンスタッフにあつまった十人の犬たちも、それなりの者たちでした。 彼らは何をさせられるのかほとんど説明もないまま、掻き集められました。当然、怯えすくみ、うさぎの子みたいに隅に固まっています。 先生がまずやったのはひとりひとりに施術することでした。 「眠ってもかまわないが、ほかの皆さんはしっかり見ていなさい」 |
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7月23日 遊佐 〔未出〕 ひとりを施術台に寝かせ、小さな手をさっさと動かしていきます。 寝そべった犬は、催眠術にでもかかったように眠ってしまいます。 十人全員やりおえた時は、全員のからだの表情がまったく違いました。すっかりゆるみ、警戒心もほどけ、眠たげです。なかには涙を流している犬もいます。 「皆さんにこのテクニックを教えてあげます」 先生ははじめて言いました。 |
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7月24日 遊佐 〔未出〕 「マスターすれば、これがあなたがたの自由へのパスポートになる。途中で断ち切られた人生をたてなおすための、資本にもなる。親孝行もできます。しっかりおぼえてください」 先生は教えるとなったら、精力的でした。 「時間がない。よく目に焼き付けなさい」 まずは徹底的に見せ、その間は真似さえさせません。 その間に先生は犬たちの故障を治してしまい、同時に性格もこっそり把握していたようです。 |
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7月25日 遊佐 〔未出〕 犬たちにもいろいろいます。 覚えのいいの、悪いの、粗野なの、ひねくれているの。 手技の訓練の時には、彼らひとりひとりの理解のレベルにあわせ、教えていました。 「ユースフは筋がいい」 アラブのユースフは優等生でした。彼は飲み込みが早く、また意欲的でした。彼はすぐに先生に心酔してしまったひとりです。 「先生に施術されて、長年の腕のしびれがなくなったんです。それに、はじめてあお向けに寝られるようになった」 |
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7月26日 遊佐 〔未出〕 ずっと横をむいてしか眠れず、肘のしびれや腰の痛みを抱えていたが、あの日から奇跡のように一切の不具合が消えたというのです。 「これを持って帰って、兄さんにもやってあげたい。わたしの兄さんは事故で背中を痛めている。帰国が楽しみです」 優等生がいれば、劣等生もいます。 「ジラール。まず見るんだ」 ジラールというアフリカ系フランス人は腕っぷしが強いこともあり、矮躯の日本人を馬鹿にしているところがありました。 |
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7月27日 遊佐 〔未出〕 しかし、先生に腕ずもうで三度負けると、ころりと服従し、幼児のように言いつけをきくようになりました。 何度言ってもすぐ忘れるのですが、先生はそのことは叱りません。 「ジラールはこころがまっすぐだ。覚えが遅いが、忘れるのも遅い。大成するのはこういう男だよ」 先生がとくに手を焼いていたのが、中国の張清でした。 この犬は元京劇役者なのですが、気功をかじっていたため、すぐ自己流でやりたがります。 |
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7月28日 遊佐 〔未出〕 「気を入れちゃいかん」 先生はすぐに気づいて注意します。 「加藤先生も気を使っているじゃないですか」 「きみはまだいかん」 聡い男のようなのですが、それだけにすぐにあれこれ工夫したがり、先生にそのたびに注意されます。だんだんふてくされ、授業を妨害するようになってしまいました。 しかし、先生が一番気にしていたのが、アメリカ人のネイサンでした。 ネイサンは小柄でなかなか美男なのですが、小動物のように落ち着きがなく、臆病なのです。 |
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7月29日 遊佐 〔未出〕 頭は悪くないものの、あがりやすいため、何かいうとぼんやりして何もできなくなってしまいます。 サロン管理者のゴドー氏もそれに気づき、「ネイサンは代えましょうか」と言ったことがあります。 「それはいけません。絶対に」 先生はきびしく言いました。 「あがるというのは経験が足りないのです。経験が増えれば、解決する問題です」 しかし、ゴドー氏にはお客様に対する責任があります。お客様の前で失敗されては、サロンの存続問題につながります。 |
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7月30日 遊佐 〔未出〕 「ですから、モニターを用意しなさいと言っているんですよ」 先生はいいました。 「彼らが育つまでに千回はこなしてもらいます。千回やらない者は金を取らせません」 このことはゴドー氏にとっても難問でした。 スタッフや主人のいない犬を見繕えば、のべ一万のモニターを集めることはなんとかなりそうでしたが、オープンまで期間がありません。オープンを伸ばせば利益にかかわります。 しかし、先生は日本で治療で商売してきた人間です。弟子たちの治療院の立ち上げにもきちんと立ち会っています。 |
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7月31日 遊佐 〔未出〕 「オープンからはお客様にモニターに来てもらいなさい。それが広告になります。狭い世界ですから、口コミがすぐ伝わりますよ」 「悪い口コミもすぐ伝わるんですが」 加藤先生は笑いました。 「だから、わたしが三ヶ月も帰国を延ばしたんじゃないですか。あんたも経営者なら腹をくくんなさい」 授業が進むと、犬たちは授業を楽しむようになってきました。先生の日本語のわめき声を真似したりして、授業中はひどくにぎやかでした。最初の怯えた様子にくらべれば、見違えるようです。 |
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