2011年8月1日〜15日 |
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8月1日 遊佐 〔未出〕 しかし、ひねくれてしまった張清だけは外れています。彼が先生の悪口ばかり言うので、仲間から浮いてしまっていたのです。 先生も気づいており、時々、授業以外にも張清に声をかけるのですが、彼は聞こえないふりをしていました。 ある時、ジラールが施術している時、先生がキッと振り向きました。 「張清、やめなさい」 どうやら、張が気を送ったようでした。 「わたしは何もしてない」 「きみの気はわかるんだ。そんなガサガサしたものをひとの体に流し込むんじゃない」 |
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8月2日 遊佐 〔未出〕 すると張は顔を真っ赤にして怒り出し、先生の手技は中国の按摩の真似だとか、ニセの気だとかわめきだしました。 さらにそれが嵩じて日本の悪口になり、日本人の言うことなどきけるか、とさえ言いだしました。 わたしはおだやかな言葉をえらんで通訳しましたが、どうしてもこれ以上やさしくは言えませんでした。 「日本人は中国人を殺した。おれの祖父は日本人に殺された」 先生は怒鳴りました。 「だから、おまえを助けようというんじゃないか!」 張の目が一瞬、細くなりました。 |
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8月3日 遊佐 〔未出〕 「五六十年むかしに何があろうと、おまえは生きなきゃならないんだ。おれから技を盗んで、ここから出なきゃならないんだ。おれを好きになれと言うんじゃない。技を盗んでいけ。そして、全部盗め」 張はしばらく答えませんでした。彼はプイと背をむけ、部屋の隅に座り込みました。 その晩、わたしと先生は少し飲みました。先生は疲れて見えました。 「張清に愛国心なんかないですよ。彼はアメリカに亡命したんですよ」 わたしが言うと、先生は、知ってるよ、と言いました。 |
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8月4日 遊佐 〔未出〕 「歴史がどうだなんていう話じゃないさ。問題は、あの子があれほど言わなきゃならないほどに、追いつめたってことさ」 「ひねくれ者はいるもんです」 「ひねくれ者がいるわけじゃない。ひねくれる状況があるだけだ」 おれのせいだ、と先生は酔った目を宙に浮かせました。 わたしは授業の印象のことを話しました。 犬たちの顔つきが明るくなったこと、骨格が整ったせいか、ハンサムになったこと、何より希望にあふれていて、幸せそうだ、とも言いました。 |
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8月5日 遊佐 〔未出〕 先生は黙って飲んでいました。やがて、ぽつりと、 「おれはね。陽の気が強いんだよ」 と言いました。 「だから、ジラールみたいに屈託のないのは、いっしょに楽しくやれる。ほかの連中も欧米のやつはたいがい陽気だからね。だが、張みたいに陰の気が強い人間は、よけい影を濃くしちまう。ふだんより、陰が強くなっちまうのさ」 先生はまた黙り込まれました。 「そういうのはどうしたらいいんです?」 「あてつけがましく、光を照らさないことだ」 |
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8月6日 遊佐 〔未出〕 「陽気なほうがいいように思えますけどね」 「時に光はうざったいものだよ」 先生はグラスをあおると、席をたたれました。 バーを出た後、先生は部屋に帰らず、エレベーターを降りていきました。 先生は剛直な方です。これまでたびたびヴィラのお客様と口論をなさっています。先生がちょっと酔っていたので、わたしは心配になり、あとをつけていきました。 ドムス・アウレアを出ると、先生の小さな影が広場をふらふら横切るのが見えました。 入っていったのはパンテオンです。 |
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8月7日 遊佐 〔未出〕 まさか犬を抱きにいったはずもありません。酔って係員にもの申す、とやっていなければいいが、と急いで追いかけました。 「今夜はもう閉めましたよ」 背の高い係員がわたしに呼びかけました。 「いま、日本人が入ってきませんでしたか」 「お客様ですか」 そうではなく、スタッフだと告げると、係員の顔がなごみました。 「マスター・カトーなら上にいますよ。御用ですか」 わたしは不思議に思いました。先生は英語もしゃべることができないのに、なぜか常連のようです。 |
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8月8日 遊佐 〔未出〕 「カトー氏はいつも犬のマッサージをしてくれるのですよ」 係員が教えてくれました。 「ほとんど正気を失っていた犬たちが少しずつ回復しましてね。まともに会話ができるようになった者もいます。毎晩、来てくださるんですよ」 「毎晩?」 なんと、先生は授業を引き受けられると同時にこのパンテオンに通いつめていたらしいのです。しかも、それを自分で交渉なさったようなのです。 |
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8月9日 遊佐 〔未出〕 翌日から、張は授業に参加するようになりました。先生にうちとけはしませんが、ビジネスライクに接するよう努めていました。 「あたりまえだ。損得の勘定がやっと終わったんだろうよ」 ほかの犬たちは、張の復帰を冷かに見ていました。 しかし、よけいなことさえしなければ、張の覚えは早かったようです。もともと京劇の学校で十年も修行していますから、動作の手順などは見ればすぐ覚えてしまいます。アラブのユースフと一番を張り合うというほどに、熟達していきました。 |
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8月10日 遊佐 〔未出〕 ふたりのレベルがあがると、自然、引っ張られるようにほかの者たちもがんばります。先生もクラスの出来には満足そうでした。 「最近の若いものは全世界共通で甘やかされてると思ったが、皆さん、なかなかやりますな」 少し早いが、モニターに来てもらおう、ということになりました。最初はサロンで働く掃除スタッフや事務スタッフからです。接客のノウハウを貯めていき、少し自信をつけると、家令たちに来てもらいました。 |
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8月11日 遊佐 〔未出〕 ご主人様がたに直接宣伝するのは彼らの役目です。彼らの心証をよくしておかない手はないというのです。 ヴィラのことをけしからん組織だ、と嫌いながら、先生はよく調べていらっしゃいました。 評判は上々でした。家令たちも、これなら自信を持ってお勧めできます、と明るい声で断言してくれました。 真実ほど強い響きはありません。オープンと同時に、モニターの申し込みが殺到しました。 |
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8月12日 遊佐 〔未出〕 お客様がたは非常によろこばれました。中には、長年の痛みから解放され、泣きくずれる方もいらっしゃったほどです。 犬たちも自信を深めていました。 「自信過剰になるのは今だね」 先生は注意しました。 「いつも言っているように、具合の悪い人を治してやるなんて思ってはいけません。そういう心根になると効果は半減しますよ」 しかし、元は能天気な欧米の犬たちです。 ついに、事故が起きてしまいました。事故を起こしたのは、一等臆病な犬、ネイサンでした。 |
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8月13日 遊佐 〔未出〕 その時、ちょうどわたしは先生と控え室でお茶を飲んでいました。先生はすでに帰国の準備をはじめていたので、そんな話をしていたのです。 するといきなりユースフが血相を変えて入ってきました。 「客が暴れて、ネイサンを殴っています」 わたしたちはすぐにトリートメント・ルームに入りました。スキンヘッドのいかつい白人の客が、ネイサンの上に馬のりになり、首を締めていました。 「加藤先生!」 |
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8月14日 遊佐 〔未出〕 それを懸命に張清とジラールが押さえています。ネイサンの目は飛び出しかけ、舌をのばして足掻いていました。 外で誰かが、ウエリテス兵を、と呼んでいます。しかし、暴れているのは犬ではなく、客です。兵士たちに手は出せません。 すると先生はすっと間に入っていき、客の前にティーカップを差し出しました。 「ハバ、ブレーク?」 ふいに部屋が沈黙しました。 白人の目がうつろにカップを、そして先生を見ました。彼はネイサンを放し、自分の手のひらを見ました。 |
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8月15日 遊佐 〔未出〕 おれは何を? というようにとまどった顔をしていました。先生は肩をすくめ、ティーカップをその手に持たせました。 「ハバ、ティー。カモン」 先生は涼しい顔でいい、ソファセットのほうへ彼を誘いました。客は魔法にかかったように目をしばたき、施術台から降りました。 ネイサンは不思議な話をしました。 「お客様が胴の右脇がいつも痛い、そこを重点的にやってくれというので、手を当てたんです。そしたら、そこに剣の先が入っているような気がしたんです」 |
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