2011年9月16日〜30日 |
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9月16日 家令 スタンはいいにくそうに唸った。 「ぼくはその――あんまり自分が好きじゃなかったんです。肉体も、頭の中身も。自分のセックスも――ペニスもよわよわしいと思っていた。セクシーとはかけ離れた人間だって」 スタンの経歴には二度の離婚暦があった。それも影響しているのかもしれない。 「それにあの頃は、捕まったことや調教に関係なく、つらい時期だったんです。――ミッレペダが捕まえてくれなかったら、ぼくは銃でこめかみを打ち抜いていたかもしれない」 |
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9月17日 家令 わたしの目に気づいて、スタンは少し気後れしたようだった。 「すみません。初めて会った方に」 「いや、それはわたしの資料になかった情報だ。話してくれ」 「目新しくもない理由ですよ。ぼくはヘッジ・ファンドでタフなポジションについていたので、疲れていたんです。 仲間との競争が苦しくて、自分が無能に見えて、つらかった。あのころは成績も下がってて、ずっとイライラして、安定剤飲まなきゃ眠れなかった。 ――それで、すごく小さなことなんですが、ショックを受けて」 |
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9月18日 家令 「ショックなこと?」 「知らない男に殴られたんです。このハゲタカ野郎って」 彼はさびしい目をした。 「まったく知らない男でした。警察によると、その男は会社がM&Aで買われた際、仕事をなくしたんだそうです。 うちで扱った件でもなかったけど、ぼくがヘッジの人間と知って、ムカっときたって」 ウツ病直前の精神状態の時に、暴力を受け、滅入ってしまったらしい。 「ぼくは無能、そしてこの世界にとってもハゲタカ。否定、否定、否定ばかりで人生がイヤになってしまったんです」 |
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9月19日 家令 自信を喪失しきっている時に、スタンはミッレペダに捕らわれた。 そして荒み、渇ききった心に毎日降り注ぐように、賞賛の言葉を浴びせられたという。 最初は、女でもあるまいし、と不気味に思っていたスタンも、次第にその作用を受けるようになった。 「セクシーとか、素敵だとか、そういう言葉もあるんですが、ハムがよく言ってくれたのは、いいやつだ、って。頼りになる男だ、ひとを幸せにしてくれるやつだ――って。ぼくはある時、それがたまらなく腹立たしくて、癇癪をおこしたんです」 |
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9月20日 家令 スタンは少し思い出したのか目を赤くした。 「ぼくは自分のことを役たたずのろくでなしだって、思い込んでましたから。おだてられて腹がたった」 だが、ハムは本気だ、と言ったという。 「おまえはハチャメチャな世界でなんとかよくなろう、よくしよう、と思ってふんばってるタフで善良な男だ。本当のおまえは人好きで、いつも誰かを幸せにしたいと思っている、とびきり気のいいやつだ。おまえは贈り物だぜ。おれは犬を何百と見ているからわかるって」 |
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9月21日 家令 スタンは気恥ずかしそうに笑った。 「今思えば、誰にも当てはまるような言葉だったような気がしますが、あの時、ぼくはガツンときちゃって。 なんか、彼がぼくをずっと見ていて、ぼくの苦労を認めてくれたような気がして、うれしくて泣けて――信じてしまったんです。ぼくはじつはいいやつだったんだって」 それで、だいぶ救われた気がしたらしい。 すると、不思議なことが起きた。アクトーレスだけでなく、ほかの客までが褒めだしたという。 |
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9月22日 家令 スタンは言った。 「ほかのお客様までが、ぼくを神様の贈り物だ、とか、ぼくといると元気が出るとか、言ってくれて、だんだん、ぼくは自分を許せるように、好きになったんです。 そしたら、まわりのひとも好きになって、ゲイもふつうの男もかわらないなって。そして、なんか本当に贈り物になりたくなったんですよ」 ハムはその変化を見て、本格的にフェラなどセックスでつかうテクニックなどを教えた。スタンの飲み込みは早かった。 「ただ、それでも売りだしが近くなると、こわくなって」 |
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9月23日 家令 公開の日が近くなると、さすがにスタンも怯えた。 ヴィラにはさまざまな客がいる。 ハムはほとんど暴力を使わなかったが、客はそういうわけにはいかない。 狂ったサディストの客に買われたらと思うと、胃がちぢんでものが食べられなかったという。 「でも、ハムが一枚の写真を見せてくれたんです」 見ますか、と彼は唐突に席をたった。戻ってきて、わたしに一枚の写真を手渡した。 胸に迫る写真だった。それは瓦礫の風景だった。 |
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9月24日 家令 どこか中東の戦場跡だ。 片付けられない家畜の屍骸が残っている。 その中を汚れた少年が大荷物を背負い、歩いている。よく見るとその手に白い花を持っていた。 「ハムが言ったんです。これがおまえ。これがおれ。これがおまえを買う男」 砲弾で砕かれた町の廃墟のなか、家族のために荷を運ぶ少年。誰かのために花を摘んで帰る少年。これがこの世界に生きている男だ、と言った。 「そう思えば、親切にしてやりたいと思わないかって」 |
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9月25日 家令 スタンはいとしげに写真を見つめた。 「ぼくは彼の言葉に共感できたんです。これはぼくだっておもった。そして、みんなそうなんだって。 そしたら、恐怖が消えた。誰が買っても、ぼくが幸せにしてやろうってハラが決まったんです」 でも、結局、いい方に買われてラッキーだった、と笑った。 わたしはたずねた。 「いまのご主人様を愛している?」 「ええ、ぼくより彼のほうがぼくへの贈り物です。大切にしたい。神様の使いですよ。彼は」 |
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9月26日 家令 ドムスを出た後、わたしは主人に確認の電話を入れた。主人は盗聴は問題なかった、といったが、それ以上のことは語らなかった。 以来、犬のことで相談してくることもなかった。 ひと月ほどたった時、ようやく主人が連絡してきた。 「スタンを外に出すので手続きしてくれ」 主人の声は明るかった。 「これから選挙戦だ。彼がいれば勇気凛々さ」 叔父の件はどうしたのだろう。 「叔父さんと戦ったよ」 彼が自分から言った。 「スタンはおれのパートナーだ。手をだしたら殺すって」 |
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9月27日 家令 選挙戦を前に、一族の有力者と戦うのは勇気がいったことだろう。 「人生を賭けたよ。だが、その価値はあった」 主人の声には以前とはちがう堂々としたものがある。 「裸一貫でも、嫌がらせされても立候補してやるつもりだった。なにもこわくないさ。スタンだけはぼくを見限らない。スタンがいれば、たとえ一族を放り出されても、楽しくやれるからな」 すると、叔父のほうが折れたのだという。めでたしめでたしだ。 |
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9月28日 家令 わたしは後日、アクトーレスのハムに、スタンと主人の成り行きを話した。その際に聞いた。 「プレタポルテの犬はみんな、ああして褒めて育てるのかい」 ハムは訂正した。 「褒めるというのは正しくない。正しいのは愛する、だ」 「ほう」 「愛玩犬が欲しいわけだろ。客は。だったら愛情いっぱいの犬を作らなきゃならんじゃないか。たっぷり愛情をそそいで、満たされた犬じゃなきゃ、ほかのやつは愛せないさ」 「理屈はそうだが、結局、褒めて育てる、だろ」 「愛する、だってのに」 ハムは笑った。 |
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9月29日 家令 「じゃ、きみはスタンを愛しているのか」 「むろんだ。息子のように愛している」 あのな、と彼は言った。 「人間ってそんなに簡単に騙されるものじゃないんだよ。口先だけの褒め言葉じゃ人は動かない。おれは彼を崇拝し、愛している。彼の幸福を最前に考えている。だから、スタンにも通じる」 「愛する相手を売り飛ばす精神の造りがナゾだが」 ハムは言った。 「幸せになるとわかっているからさ」 彼は奇妙な話をした。 「犬が捕まるのはたいがい不運が重なった時期なんだぜ」 |
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9月30日 家令 ハムによると、犬の捕獲時期には似たような事件が起こるという。 親の死、伴侶との離婚、失職――大きな事件はなくてもストレスの高まった頃に、ミッレペダに遭遇することが多い、という。 「悪いことは重なるということかな」 「そうだ。だから、その論でいけばいいことも重なるわけだろう?」 「……」 「スタンがハッピーなら、ハッピーな主人しかつかない!」 わたしは言った。 「幸せの絶頂から転落するケースは?」 「……」 「禍福はあざなえる縄の如し、とかは」 「おまえには愛が足りなすぎる」 |
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