2013年5月16日〜31日
5月16日  カシミール 〔未出〕

 その晩、インスラのエレベーターに入ると、クリスが飛び込んできた。

 すでに私服で、手にビールのパックを提げていた。彼はニッと笑ったが、何も言わなかった。

 おれはしかたなく口を切った。

「リンチに遭う気か」

「まさか」

「あてはあるのか」

「ある」

「リンチに遭えよ。ひとでなし」

「よかったくせに」

 おれは彼の腹を殴った。

 腹がたった。あんな無礼に遭っても、まだこいつをかまう自分に腹がたった。
 しかも、見透かされている。

 彼はビールを掲げた。

「おいで。おれに聞きたいことがあるんだろ」



5月17日 カシミール 〔未出〕

 部屋に入った途端、当然のようにセックスとなった。

 おれももういいわけしなかった。デスクに押し付けられて犯された時、気恥ずかしいほど昇りつめた。エレベーターで見た瞬間から抱かれたくてしかたなかった。

 クリスにとっては行きがけの駄賃かもしれない。友だちが去って、人肌が恋しかっただけかもしれない。

 だが、おれは「好きだ」と言ってしまった。すがってしまった。

「行くな。さびしいよ」

 クリスは言葉に詰まっていた。てっきり茶化すとおもったのに。



5月18日 カシミール 〔未出〕

「なんで戦わないんだ?」

 おれは聞いた。ずっとひっかかっていた。クリスはこの件に関し、やられるがままだ。逃げるだけ。

「アキラのいうとおりだよ。ここでアシュリーと対決しなよ。あんたなら、手立てはあるだろ」

「……」

 クリスはおだやかな目をしていた。

「そうだね。必死にあがけばなんとかなるかもね。えらい人に頼んだり。でも、そうしたくない」

「なんで?」

 彼は少し黙った。

「恋人だったやつの弟を傷つけたくない」

「……」

「あの子はもう、父親も兄弟もいないしね」



5月19日 カシミール 〔未出〕

 おれは聞いた。

「エヴェレットはどうして?」

「事故。去年」

 彼は察して言った。

「別に陰謀じゃない。本当の事故。本人の過失。アシュリーには痛手だったろう。いい兄貴だったから」

 彼は深い息をつき、なにかを思って黙った。

 伏せたまなざしが沈んでいる。眼鏡をしないと彼の目は意外に睫毛が長い。透明な少年のおもかげが見えた。

 おれは勇気を出して聞いた。

「あんたは、ステーキ屋に、議員を襲わせたの?」

「……」

 クリスは目を伏せていた。だが、言った。

「仕事だ。しかたなかった」



5月20日 カシミール 〔未出〕
 
 おれたちは互いに沈黙した。
 おれは彼を抱きしめ、うつろにその熱を感じていた。

 責めてはいなかった。最初から、責めるたぐいのものじゃない。

 いろんな過去の人間がいる。非常の仕事もある。おれも兵隊だった。いまはアクトーレス。責めたりしない。

 だが、アシュリー・ロスには復讐する権利があるだろう。本来、クリスのせいではなく、クリスに指示した者の罪だとしても、彼を野放しにはできないだろう。

(ただ、クリスがいなくなるのはいやだ)

 それが憂鬱だった。



5月21日 カシミール 〔未出〕

 出勤すると、船長とアキラがいなかった。

「イアンのとこ」

 ニーノが教えた。

「アシュリーがヤングとつるんだみたいでさ」

 おれは目を剥いた。

「なんでやつが?」

 ヤングというのは、おれが新人当時ストーカーのようにからんできた迷惑な男だ。

 おれが誘拐された時には船長たちを騙して、イアンに手を出そうとした。

「ヤングはほら、クリスに恨みを持ってるだろ。だから、組んで何か訴えようってんじゃないかって」



5月22日 カシミール 〔未出〕

 おれはドムス・アウレア(ホテル)のロビーでアシュリーを見つけた。

 彼は新聞を読んでいたが、おれに気づいて微笑んだ。

「やあ」

「少し、よろしいでしょうか」

 彼は席を勧めた。

「チャーリー・ヤング氏とおつきあいがあるそうですね」

「うん。ここの生活についていろいろ教わっている」

「家令にお聞きになれば?」

「家令の教えない社交上の情報もあるだろ」

「オフレコで願いますが」

 おれは言った。

「ヤング氏は以前わたしに迷惑をかけたお客様です。少々問題のある方です」



5月23日 カシミール 〔未出〕

 アシュリーはじっとおれを見た。

「下品な男だということはわかっている。だが、こっちにはもっと強力な手立てがいるんだ。噂ぐらいじゃ、クリスはここに苔みたいに貼りついて出ていかないからね」

「クリスにも事情があったはずです」

「そうか。でも、うちはめちゃくちゃだ。親父が死んで、エヴェレットは酒を飲むようになった。あげく事故死。彼は自分が変な火遊びに手をしたことを死ぬほど後悔してた。自分のせいだって」

「それは」

「それはない。彼のせいじゃない。でも家族はそう考えるんだ!」



5月24日 カシミール 〔未出〕

 あれは自殺だ、と彼は吐き捨てた。

「おれは彼の息子を時々見に行く。昔のエヴェレットにそっくりで人形みたいに可愛い。寝顔見てると泣けるよ。こいつのパパはいいやつだったのに、なんで死ななきゃならなかったんだ? 男とベッドに入ったから? おれはクリスを許すべきか?」

「……」

 おれは言った。

「ヤング氏はおすすめしません。虚栄心の強い軽薄な男です。彼がプラエトル(支配人)と昵懇であるという話はウソです」

 アシュリーは一瞬おどろいたが、肩をすくめた。

「忠告ありがとう」



5月25日 カシミール 〔未出〕

 アシュリーとヤングが組むことは防げた。だが、代わりはいくらでもいる。

 クリスは遊び人だ。客にも手をだしているし、泣かした相手もいるだろう。

(やはり、ここは危険か)

 アクトーレスの立場は強くない。客がごねれば解雇の危険はいくらでもある。犬に色目を使ったなどといいだしたら、かなり面倒だ。

(それどころか、イアンみたいに――)

 おれは暗澹となった。クリスの言うように逃げるのが最善かもしれない。おれはイアンのオフィスをたずねた。



5月26日 カシミール 〔未出〕

 イアンはいなかった。代わりにアキラがいた。

「犬の割り当てを変えたから見ておけ」

「?」

「一時的にクリスに工場作業をさせる」

 工場作業というのは、主人のついてない犬だけを扱う仕事だ。直接、客に接しないで済む。アキラも同じ心配をしていたのだ。

「なんとかしなきゃね」

「ああ」

 アキラの顔は固い。

「上のほうがうるさくなってきた。元スパイのスタッフは好ましくないとか」

「クリスの前歴を知った上での採用だろ?」

「その辺は忘れたらしい」

 彼は憮然と言った。

「解雇されるかもしれん」



5月27日 カシミール 〔未出〕

 理不尽だ。おれは男気のない上層部に憤慨した。

 アキラは不意に言った。

「違約金、ためてるか」

「?」

「途中退職の違約金。おれは貯めてる。これでクリスが解雇されたら、おれも辞職する」

 おれは彼を見返した。アキラはつまらなそうに言った。

「もっと評価されてれば、脅しになるんだが、そうはならないだろうな」

「違約金ってわけじゃないけど、貯金は足りると思う」

 おれも言った。

「おれも辞めるよ」

「足りねえよ。新人」

 彼は笑った。

「ま、イアンが踏ん張ってくれてる。そいつは最後にしとこう」



5月28日 カシミール 〔未出〕

 船長は辞職の話を聞いて笑った。

「アキラ、やっぱカミカゼやねえ」

「船長はどうする? べつに参加しろとは言わないけど」

 でも、ちょっと期待して彼を見た。

「まあ、いいけどね」

 船長は割れた顎を撫で、

「いいけど、消極的だと思うのよ。どうせなら、一発殴り返すべきじゃないの?」

「なんかあるのか」

「あるよ」

 船長は言った。

「おれのお客さんに民主党の議員さんがいるの。まあ、ロス家のことはよくは言わないわな。殺られて当然の悪党だって。そっちに助けてもらおうと、今イアンがね」



5月29日 カシミール 〔未出〕

 イアンに会えた。彼は晴れ晴れした顔をしていた。

「いいニュース?」

「ああ」

 イアンはくだんの民主党議員が味方してくれる、と言った。

「アシュリーを紹介したパトリキにも話をつけてくれる」

 トラブルメーカーを入れたとなると、紹介者の信用にかかわる。アシュリーが聞くかどうかはわからないが、掣肘はしてくれるだろう。

「それにいろいろ聞けた」

 イアンは言った。

「クリスは嵌められた可能性がある」

(え?)

 おれは口を開いた。



5月30日 カシミール 〔未出〕

「あ」

 イアンは言葉を飲み込んだ。

「浮かれすぎた。忘れてくれ」

「いや、話してくださいよ!」

 彼はダメ、と逃げたが、おれは追いすがった。

「ここで聞いたことを、おれがどこで話すと思ってるんですか。クリスが無実なら、おれも心構えがいろいろ変わってくるんだから」

 イアンはきょとんと見返した。おれはあわてて言った。

「仲間として」

「……」

 彼は少し考えこんでいたが、内緒だぞ、と言った。



5月31日 カシミール 〔未出〕

「ロス議員はある事件の揉み消しをやった、といわれてるんだ」

「孤児院の売春事件?」

 彼は目を丸くした。

「なんで知ってるんだ」

「ラインハルト」

「……ここは秘密もクソもないな。そう、その件で大変、不満を抱いた人間がいた。事件を捜査し、子どもたちを救おうとした担当刑事たちだ。起訴はなかった。被害者は忘れられた。やる気もなくなった。で、その刑事たちが今度、ロス議員の捜査の担当になっているんだ」

 おれはイアンを見つめた。

「リーナ刑事」

「そう。リーナとジェンマ」



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