2013年5月1日〜15日
5月1日 カシミール 〔未出〕

 おれが言おうとすると、アシュリーは低く言った。

「クリスの車のトランクには、シャベルと死んだウサギが入っていた。ウサギからバトラコトキシンが検出された」

「……」

 めまいがした。自分の胸が浅く上下しているのがわかる。アシュリーを睨み、やっと言った。

「目的は?」

「わからない」

 彼はいやな顔をした。

「彼はエヴェレットに会いたかったからだと言ったが」

「ばかな!」

 おれは吐き捨てた。

「あいつはそんな男じゃないよ。そんな、ひとりに夢中になるウブなやつじゃない。ありえない!」



5月2日 カシミール 〔未出〕

 信じられなかった。

「誰かが嘘をついてる。あなたの兄さんは父親が死ねば金持ちになる」

「ならない。おれたちは祖父から遺産を受けていてもうじゅうぶん金持ちだ。ロス家の事業は、政界とつながっていることで発展しているんだ」

「じゃ、秘書は。最初にロシア・マフィアの話をしたのは秘書です。秘書も現場にいた」

「ロシアの話はほかの事務スタッフも聞いている」

 もうけっこう、とおれは立ち上がった。

「あなたは犬と遊びにきた。わたしとじゃない。散歩を続けますか。帰りますか」



5月3日 カシミール 〔未出〕

 アシュリーはおれの無礼をとがめなかった。

「きみはあのリーナ刑事によく似てるよ。若くてハンサムなのに、頑固なとこ」

「……」

 結局、アシュリーはCCと寝ることもなく帰った。

(なんでおれにあんな話を)

 おそらく、仲間も動揺させるためだ。顧客からも仲間からもクリスを孤立させるためだ。
 それがわかっていても、心がぐらついて腹がたつ。

(全部嘘だ)

 だが、アシュリーは、調べればわかる嘘をつく愚か者には見えなかった。



5月4日 カシミール 〔未出〕

 夜の予約をこなして戻ると、すでに一時近かった。

 オフィスにアキラがいない。代わりにクリスだけが残っていた。

 彼は何かせわしくキーを打っていた。 
 互いに何も言わない。

 おれが携帯からデータを移していると、彼は立ち上がった。

「じゃ、帰るわ。また明日」

「……」

 腹のなかで感情がうねっている。言うべきことがあるだろう。知らないふりは許されないだろう。
 おれは言った。

「アシュリーと話した。あんたのトランクからウサギが出たって」



5月5日 カシミール 〔未出〕

 クリスは少し立ち止まった。

「ああ、出たね。忽然とね」

 彼はドアに向かった。

「アシュリーの言葉は彼の解釈だ。話半分に聞いとけ」

「ベイツと連絡をとっていたのはなんのためだ?」

 おれは怒鳴った。

「契約したなら、契約書があるはずだろ! エヴェレットから遠ざけられたから、議員を恨んだのか。それとも最初から議員を殺すつもりでエヴェレットに近づいたのか。あんたは何をしてたんだ。誰のために働いてたんだ」

「……」

 クリスは不思議そうにおれを見つめた。



5月6日 カシミール 〔未出〕

(ああ、くそ)

 おれは自分が激昂しすぎていることに気づいた。なんで、こいつのために怒っているのか。なんで、関係ないのに憤り、責めなじっているのか。

 クリスが近づいてくる。おれはわめいた。

「ベイツを騙したのか。娘を殺されて混乱してるおっさんに、復讐を焚き付けたのか。武器を与えて、使い方を教えてやったのか」

 クリスの手が伸びた。耳をつかまれた。と思うと、キスされていた。

(!)

 噛み付こうとした途端、歯の間に親指がつっこまれた。舌がすべりこんでくる。



5月7日 カシミール 〔未出〕

 おれは膝をくらわせた。

「おっと」

 クリスはすんでによけ、膝を掴んだ。引き上げられ、机に押し倒される。おれは激怒してその首につかみかかろうとした。

「おれのこと心配してんの?」

 クリスが見下ろしてわらった。

「船長に取られたと思ってた。ロス家のことは災難だが、いいこともあるもんだな」

 おれは彼を殴りつけた。拳がかすって、メガネが跳んだ。
 クリスはおれの腕を掴み、ねじりあげた。あっというまに体がひっくりかえり、痛みで反り返る。

 頭をおさえられ、デスクに頬をぶつけた。



5月8日 カシミール 〔未出〕

 腹の前をつかまれたと思うと、シュッとベルトが抜かれた。

(え?)

 手首にベルトが巻きつけられる。

「おい?!」

 あわてて足を蹴り上げた。だが、ズボンを引き下ろされ、下着を剥かれる。クリスが覆いかぶさってくる。

「やめろ!」

 おれは頭を突き上げ、蹴り上げた。ズボンのからんだ足がひっかかる。身をひねって逃げようとした。

 だが、大きな手のひらに腰骨を包まれた時、不意に力がぬけてしまった。

「本気じゃない」

 クリスが耳元で含み笑った。

「戦場だったら死んでるよ」



5月9日 カシミール 〔未出〕
 
 カッと頭に血がのぼせた。
 怒りすぎて涙が出た。おれの負けだった。

「ばかやろう」

 おれはすすり泣いていた。

「あんたなんか知るか。ヴィラからおん出されて、FBIに捕まっちまえ」

「なんの容疑で?」

 クリスは耳元にキスを落した。ひとすじの快感がふわりと浮き上がる。

「そうならないために、司法取引した。ちゃんと契約も履行した。政府には何の借りもないよ」

「じゃ、なんでやつはきたんだよ」

 さあ、と腰骨にそわせて指を蠢かした。

「あるとしたら、リンチじゃないかな」



5月10日 カシミール 〔未出〕

 おれは家に帰ってしばらく放心していた。レイプされた。オフィスで。仲間に。

(なんでこうなった?)

 おれはクリスに本当に殺しに関わってたのかと責めた。

 彼はアシュリーを信じるな、と言ったが、なんの釈明もしなかった。毒についても誤解の元と言ったが、なぜそこにあったか言ってない。
 追求したら襲われた。なんだこれは。

(ごまかすということは、やっぱり……)

 しかし、結論はやはり出ない。何かがずっとひっかかっていた。



5月11日 カシミール 〔未出〕

 翌朝、アキラは不機嫌だった。
 ラインハルトは浮かれている。彼は明日から休暇なのだ。

「この非常時に一人抜けるとかあり得ねえ」

「ここはいつだって非常時さ。バリ島におだやかな日常を見つけにいくのさ」

「せめてウォルフをおいてけ」

「ウォルフは別部署でーす」

 おれはさりげなくクリスを見た。

 クリスは端末に向かっている。ルイスがのぞきこむと、ふだん通りにしゃべっていた。

 とくに愛想をふりまくでもなく、突き放すでもなく。いつも通り。あの男は何やらかしてもいつも通りふるまえる。



5月12日 カシミール 〔未出〕

 おれはラインハルトをランチに誘った。聞いてみたかった。

「クリスって、どういうやつ?」

 ラインハルトはクリスと同期だ。一時、恋人だった。

 彼はオムレツを食べながら、しばらく言葉を選んでいた。

「ガキだね」

「ふむ」

「シーツを首に巻いて、テーブルから飛び降りてるガキ」

 ……よくわからない評価だ。

「ガキにCIAは務まらないだろ」

「だから辞めた。結局、復帰したみたいだが」

 おれは聞いた。

「CIAの都合で、事件にかかわったのかな」



5月13日 カシミール 〔未出〕

 ラインハルトはまたオムレツを食べて言った。

「おれが知るか」

 まあ、そうだ。
 おれは言った。

「気持ちの折り合いがつかない。彼のせいで泣いている家族がいると思うと」

「……」

 彼はしばらく黙って食事を続けた。

「ロス議員ってのは」

 唐突に言った。

「きなくさい男ではあったのさ。石油一族だ。武装組織を支援して、南米のパイプラインを襲わせたり、国内では孤児院の児童売春事件をもみ消させたり」

「ロシアとは」

「知らん」

 彼は言った。

「要はいいことばかりやってたわけじゃないってこと」



5月14日 カシミール 〔未出〕

 ロス議員が南米の某政府と争っていたなら、首謀者はそちらとも考えられる。

 バトラコトキシンも南米の部族が矢毒に用いるとあった。

(じゃ、クリスはCIAじゃなくてよその政府の刺客? 二重スパイ?)

 おれは思考を打ち切った。スパイの世界など映画でしか知らない。考えるだけムダだ。

(だいたい、なんでおれは考えてんだ)

 相手はレイプしてきた無法者だ。もはや友だちですらない。放っておけばいい。

 しかし、またニュースが入ってきた。クリスが辞表を出した。



5月15日 カシミール 〔未出〕

 イアンは受理していない。だが、クリスは

「違約金も払えるし、これ以上ここにいるわけにいかない。別に皆様の迷惑を慮ったわけではなく、アクトーレスの身分では敵から身を守れないから」

 持ち犬の資料もすべて整理して、いつでも後任者が引き継げるようにしてあった。
 
 アキラは言った。

「外に出れば思う壺だ。適当な罪を着せられるぞ」

「あんな坊やにやられるほどヤワじゃないのよ」

「だったら、ここでなんとかしろ」

「ここじゃ」

 アキラは怒鳴った。

「ひとり休暇中だぞ。せめて帰りを待てよ!」



 
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