リレー小説 ファビアン  ACT3前編 担当 wakawa様


――菩提樹の花の香り。
 奇妙な夢は終わり……いや、ちがう。
 まだ、続いているらしい。
 いつの間に移動したのか舞台はシャワールームに移っていて、たちのぼる懐かしい香りに、自分が失神していたことを知った。
「わかるかな?」――七瀬様。「君の故郷のものだよ」
 リンデン ブリューテン。初夏に俯いて咲くクリーム色のかぐわしい花。小さな村の、唯一の自慢だった。「感謝しなさい。苦労したんだ」
 懐かしい匂いは断末魔だった。私を見下ろす七瀬様の手の中で、花が小さく砕かれていく。
「どこから洗って欲しいか、言ってごらん」
(…どうせ好きにするくせに。)
 そう考えている自分に気付いて焦る。これでは本当にバカ犬だ。
 ひどく残忍で、魅力的な笑みが息苦しさを煽る。シルル様の笑い声がなければ、私は窒息していただろう。
「さすがですね、魔王みたいだ」
「タイムオーバーかな、失礼?」
 大物が視界から消えるのは、被虐者に不安を与える常套手段だ。それがわかっていたのに私は七瀬様の姿を追いかけてしまったらしい。
「こら。だれを見ている?」傍らに跪いてシルル様は長い指で私の下顎に触れた。「こっちを向きなさい、いいこだから」
 リンデンにまさる甘い声。甘い瞳。
 喉を滑っていく指が、もどかしいほどゆっくりと肌を這っていく。肩から腕、そして手首へ。その手は永遠とも思える時間をかけて爪の先に到達し、壊れ物のように握られた。「爪の形がキレイだなと以前から思っていたんだよ」
 手の平の窪み、皺の一本一本までも確かめるように掌が洗われる――愛撫される。不気味なほど優しい手が強ばっていた筋肉をほぐしていく。
(ご自分の犬にも、こんな風に触れるのだろうか)
 眠気を誘うほど丁寧に…
「<闇の中で目を閉じて、菩提樹の唄を聞く…>」シルル様が私の好きな一曲を歌っている。「”Hier findest du deine Ruhe!” <”おまえの安らぎはここにある!”>」
 愉しげな歌声に覚えた恐怖がなぜか甘かった。

「髪を洗ってあげよう」
 後ろからビタ様に抱き起こされた。その腕でこめかみを包んで、穏やかに、しかし容赦なく、私の頚を反らせていく。
 シャワーが捻られた。反射的に目を閉じる。濡れた髪と地肌に触れる十指は、私が知っている時よりずいぶん繊細に動いていく。
「ファビアン、目を開けて」打ちつける水が恐くて、夢中で首を振る。「目を、開けなさい、ね?」
 おっとりと、決して無理強いしない声。それが今は最も危険だ。
 流れ落ちる水が目に浸みる。鞭とは違う痛み。湯に再び叫びを上げた花の痛みにも似ている。
「泣いているみたいで、ステキだね」
 唇で睫毛をぬぐわれた。それはただの湯だったか、と、尋ねたくなる。もしかしたら自分は本当に泣いているのかもしれないと考えて、――ちがう!
 知っているだろう、ファビアン・マイスナー、この香りは心を弱くする。洗脳の罠に嵌るんじゃない。
 思い出せ、ヴィラの、そしてCナンバーのマニュアルを。
「足、冷たくなってる」
 G様が片方の足首を握り、勢いを付けて高く上げた。「へぇ、趾が長いんだね」
「ヒ...ッ」
 不安定な姿勢に悲鳴を上げると、さらに足が引かれた。精悍な顔に残虐な笑みが浮かんでいる。
「もっと聞きたいな、何か言って?」
「待…てっ……いたっ」
 まだ痺れる尻が床に擦れる。燃えるようだ。
「いま痛めつけちゃ、だめでしょうが」
 反対の足を捕った ぱすた様が、溜息混じりに諭している。
「…わかってるんだけどねぇ」
 握られたときと同じくらい唐突に、足が床に降ろされた。やがて、マニュアル通りの忠実さで洗われていく。
 そう、マニュアル通り。すべて、ヴィラのガイドに則って。
 だから少なくとも今、苦痛を与えることはありえない。それがヴィラ・カプリのルールだ。
 床に身体を横たえて大きく息を吐く。ふと尻のことが気になった。そう言えば、あれ、あの残骸は、どうなったんだろう?
 発作的に笑いがこみ上げた。
 尻もペニスも綺麗にされたに決まっている。そのままだったら花の匂いがわかったはずもない。
 花を砕く様子を効果的に演出するため、わざと、気絶している間に全て処理をした。なるほど、実に「魔王みたい」でいらっしゃる。犬を精神的に動揺させるヴァリエーションまでお持ちとは。
 だが、まだ甘い。まだ手加減している。その証拠に、鞭の痕は湯にも痛まない程度の代物だ。
 ――イアン・エディングスの場合とは、違う。
 そう考えたら気が楽になった。全身の筋肉が弛緩し、触れてくる手の存在すら忘れられた。
「反応がないとつまらないなぁ」
「眠っているのかな?ファビアン?」
 声を遠くに聞いて、リンデンバウムの歌と香りに体を休めた。
<門の傍ら、泉のほとりの菩提樹の陰で、むかしよく夢を見た…>

 胸の上に柔らかな海綿のスポンジが置かれたときも、私はまだ半分夢のなかだった。
「…に、掛からないよう、気を付けて下さいね」
 遠ざかる ぱすた様の言葉が、耳に飛び込んできた。
「うん、アリガトウ」
 おサル様が私の体を跨いで腹の上に座った。腰骨に触れる薄い尻の感触に東洋人の小柄さを認識した瞬間、上半身が倒れこんできた。飛翔を夢見みる、鳥の羽音がした。
<“おまえの安らぎは、……”>
 落ち着け。
 先走った想像は恐怖を生む。もとより予測の立たない人だ、勝手にさせておけばいい。
<門の傍ら、泉のほとりの菩提樹の…>
 息をついて花の香りを吸い込み、歌に身を包む。自らの意志で心が静まる、その瞬間、
「!?」
 まるで床掃除をするように、力任せに躯を擦られて唖然となった。
(…ちょっと待て…!)
 失礼ながら、アクトーレスとして一言ご忠告申し上げたくなった。ヴィラの警備犬だってもう少しましに洗われる。
「痛ッ!」
 海綿がすさまじい勢いで先刻なぶられた乳首の上を通り過ぎる。感じるも何もあったものじゃない。
「あ、ごめん、ごめん」
 絶対におかしい。拭き掃除でもしているつもりなのか、この方は?
 だいいち、ご主人様が被調教者に謝るとは何事か。
「感激するほど色気ないね」愉快げな さい様の笑い声に、場違いな物思いは中断された。「まぁ、それも面白いけど」
 情欲に濡れた語調。どちらかと言えば淡泊な方と思っていた。
「さい様?もう少し待っててね」
 ドムス・レガリスにはいくつかの不文律がある。例えば“調教担当者は一人であることが望ましい”。その理由が、今、よく理解できる。
 方向性が保てない。だから「犬」に考える時間を与えてしまう。
(バカバカしい…!)
 所詮は金持ちの道楽、ただのお祭り騒ぎだ。専門の知識もルールも知らず、欲望のまま戯れているだけ。今回は迷惑にも、私に白羽の矢が立った。
 なんと、バカバカしい。
「終わりましたよ、どうぞ」
「オッケー。じゃあ背中向けてよ、ファビアン」
 だが当分お手並み拝見させて頂こう。自分が犬役なのこそ気にくわないが、名にしおうパトリキ様方の手腕を見学するのも面白い。
 覚悟を決めるともう逆らうことすら面倒で、言われるままに床を転がった。
「...とか、鍛えられた背筋って、セクシーだよね...」
 腹の下に、砕かれたリンデンの花が散っている。踏みしだくと最後の悲鳴を上げて包葉の爪を立てた。哀れな香花。
 目の前にはまだ形の残る花群がある。片手でそっと引き寄せ、掌に包み込む。おまえの断末魔は私が与えてやる。
<…今なお聞こえる、遠い彼の地の菩提樹の…>
 水に濡れた花は、私の手の中では砕けず、ただ、小さく丸く固まった。

「さてと。シャワーもらえる?」
「ダメです。順番でしょ」
 笑いながら諫める、特徴的な声の主。聞き取りにくい発音が不思議と蠱惑的に響いた、あの方だった。
「ふふ。バレちゃったか」
 海綿が無造作に床へ捨てられ、さい様が立ち上がる。
 私は自ら体を起こした。
「おや。協力的だな」
 声の主は喉の奥で笑って、足下から順にシャワーをあてる。熱めの湯に、倦んだ肉体が目覚めていく。
 躯幹を通り過ぎた水は床を満たし、渦を作って流れ去る。小さな花のかけらは抗いもせず、排水溝に飲まれて消えた。
 流れてしまえ、リンデンブリューテン。儚い花。摘まれた後は甘い匂いも長く続かない。
 風よりも太陽よりも鮮やかに初夏を知らせた故郷の花。秋風に舞い散った葉の足触り。うすい味のハーブティ。ハチミツを入れて飲んだ冬の一日。雪の中、菩提樹は俯いて立っていた。
 そんなものに私は支配されたりしない。
<“おまえの安らぎはここにあったのに…”>

 扉の陰から姿を初めて顕したwakawa様が生成りのタオルと剃刀を持ってきた。上目遣いに伺いながら、決して視線を合わせようとしない。触れ方も、距離の取り方も、この方は隙が多すぎる。ご主人様向きでないと思う。
「顔を拭いておこうと思うんだけど」
 シェービングクリームの爽やかな匂いが、停滞していた心を蘇らせる。遠慮がちに触れるタオルからは微かにオレンジの香りがした。
(嗅覚の凌駕。予想以上に疲れていたようだ…)
 意図せずとも状況を分析できる自分がいる。それは私の中のアクトーレスが生きている証拠だった。だからまだ私は負けていない。
 シャワールームの扉に目をやった。曇りガラスのドアの傍らに、バスタオルを持って家令どのが立っている。そう言えばこの人もいたのだと漸く思い出す。
「随分きれいにしてもらったようですね、アクトーレス、ファビアン」
 まるで待降節の聖母の微笑みで両手を開き、タオルの中へ私を誘う。優しげな顔には必ず裏がある人だ。いかにもな表情を信じてはいけない。
「さぁ、髪も乾かして…」
 バスタオルはやわらかく、あたたかい。体中の力が抜けそうだった。敢えてアクトーレスと呼ぶ わざとらしさが馬鹿らしくて、鼻の奥が痛くなる。
「私たちよりもフミウスさまがいいらしいね。寂しいことだ」
 誰かが吐息と共に洩らした言葉に、家令どのは一層優しく微笑して、
「それはつまり、未だ躾が足りないということです、ご主人様方」
 と、言った。


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