リレー小説 ファビアン  ACT7前編 担当 七瀬様


排出したはずの炭酸が、まだ内側に残っているような気がする。
ぴりぴりとした刺激に耐えながら蹲り、一心に床だけを睨み付けた。
四つ這いになって尻を上げなければならないと分かっていても、膝が笑っていて力が入らない。
早く……早く犬の姿勢を取らなければ。どんな難癖をつけられるか分かったのもではない。
だが、焦る俺の意思とは反対に、体は一向に動こうとしない。
そんな俺を見て、ランチ様が楽しそうにからかった。
「おや、腰が抜けてしまったのかい?」
視界の上からよく磨かれた靴先が現れ、手入れされた美しい床でコツリと音を立てた。
俺は顔を上げることが出来なかった。
パトリキ達と、そしてフミウスと目を合わせるのが怖かったのだ。
別の男の、しなやかで骨ばった指が俺の顎を捕らえ、上を向かせる。
決して強くはない力。だが、決して逆らえない手。
柔らかく頬を撫でる手は、火照った俺にはひんやりとしているように感じた。
「まだ、死んでいないね。とても良い目をしている」
酷薄そうな笑みと共に、淡々とつぶやくように発せられる言葉が俺を萎縮させる。
「そろそろお遊びのネタが尽きてきたと思ったんだが……アイディアと言うものは絞れば絞るだけ出てくるものらしい」
くつくつと楽しそうに笑った彼は、俺から手を離すとさっと立ち上がった。
「さあ皆さん。この可愛い子を、逆さまに吊るすんだ」
がしゃん、と聞きなれた鎖の音が耳をついた。
俺が仕事の間、散々聞いていた音だ。
哀れな犬を吊るすために、淡々と、黙々と準備を進めた記憶がよみがえる。
普通の鎖の音じゃない。
音は背後で鳴ったが、振り向かなくとも分かった。
犬の脚を開いて二点吊りにし、逆さまにぶら下げるための特殊な鎖の音だ。
額から嫌な汗が噴き出した。
空調の効いた調教部屋は決して寒くはないのに、歯の根がかみ合わずがちがちと音を立てた。



最初に何をされるのかは分かっていた。
分かってはいたが、俺はなすすべもなくその訪れを待つしかなかった。
俺が思った通り、パトリキ達は俺を後ろ手に拘束した。どうでもいいことだが、今度は縄ではなく、手錠だった。
次に両膝の僅か上辺りに、硬いステンレスの輪が嵌められる。
冷たいそれは、内股の柔らかな肉に控えめに食い込んだ。
脚に嵌められた二つの輪は、絶妙な長さの太い棒でつながっていて、これを嵌められた犬は決して脚を閉じることが出来なくなる。
要するに、つっかえ棒だ。
輪のストッパーが下ろされる音を、俺は絶望的な気分で聞いていた。
逆さに吊るすと言っていたが、逆吊りは通常の吊り方など問題にならないほど難しい。
獣縛りもそうだったが、調教の中には、失敗すれば命を落とすような攻めも沢山ある。
逆吊りもその一つだった。
おまけに膝を開かせたこのリングのタイプを見る限り、パトリキたちは足首から俺を吊るすつもりだ。
逆吊りは膝から吊るすのと、足首から吊るすのでは体にかかる負荷が大きく違う。
足首から吊るすのは、吊り方の中でも最も注意が必要なやり方なのだ。
そもそも俺の調教は、エディングスの時とは違う、“お遊び”だ。
だが、その“お遊び”から手違いが起こって、命を奪われるかもしれない。
最悪の想像に、じわりと心拍数が上がった。
吊るされる前にちらりと周りを見渡すと、小柄なシルル様と、ひょろりと背の高い外科部長が並んで立っているのが見えた。
白いハイネックを着たシルル様と、白衣をはおった外科部長が並ぶと、まるでここが病院であるかのような錯覚を呼んだ。
シルル様が医療関係のお仕事をなさっていることは、俺も知っている。
彼は医者ではないが、彼の観察力の鋭さと注意深さはよく分かっている。
それに、ここには外科部長もいる。性格はともかく、彼の腕は天才の名にふさわしいものだ。
(だが、調教と医療は別物だ……)
頼もしいはずの二人の存在も、俺の不安を完全に取り去ってはくれなかった。
鎖が巻き取られ、足首が引っ張られる。腰が浮き、背中が床から離れ、肩が持ち上がる。最後に床から頭が離れ、短く切った髪も床を擦らなくなった。
下にジェル入りのキューブを敷くのを忘れないでくれ、と心の中ではらはらしたが、フミウスがすかさず、そしてさり気なく俺の真下に半透明のキューブを差し入れてくれた。
あれがないと、万が一にでも鎖が外れて落ちた場合、冗談ではなく本当に死ぬ。
俺は逆さ吊りの不快感の中で、とりあえずほっと息を付いた。
完全に吊るされた俺の体を、Wakawa様が軽く押した。
足首につけられた二本の鎖は、途中で合わさって一本になっているため、重いはずの俺の体は僅かの力でくるくると回転した。
「これは、良い眺めだね」
俺からは見えない背後で、誰かがそう評した。
「視線を落としたり身をかがめなくても、ファビアンのいい所が良く見える」
ぺろり、とアナルを舐められ、俺は思わず尻を引き締めた。
「キウイは酸っぱくて苦手なはずなんだけど……ジュースだからかな、甘くて美味しいよ」
俺は、泣き出したいのをこらえて黙っていた。
犬にとって逆さづりに一つ救いがあるとしたら、調教者から犬の顔が見えにくいことだ。
だが、初めて逆さに吊られたことで自覚した。俺はこの吊り方に弱い。
体力的にではなく、精神的に問題があるようだ。
逆さに吊られると、不安と無力感から、自分を保つことが難しくなるのだ。
いわば、心の弱点だ。どの犬にも存在する。そして、それを突付くのが俺たちアクトーレスの仕事でもあるのだ。
とにかく、この吊り方はまずい。
いつ限界が来た演技をしようか、また、どうやってそれを表現するのかを考えるため、俺は目まぐるしく頭を働かせた。
パトリキ達の調教がある程度の区切りを迎えた頃合を見計らい、しゃくりあげて泣き喚くか。
そう答えをはじき出した時、とーる様が俺の顔をしゃがんで覗き込んだ。
「大人しいね。いったい何を小賢しいことを考えているのやら」
ポーカーフェイスを通そうとして、失敗するのが自分でも良く分かった。
俺の強張った表情が、彼の言葉を裏付けてしまった。
「まあ、この先はそうも言ってられなくなるけどね」
「もちろんだ。あれを使えば、いくら彼でも理性を保つのは無理だろうね」
「楽しみだ。用意はまだ……ああ、さすが敏腕家令殿。準備が早い」
フミウスが運んできたワゴンを見て、俺は気が遠くなった。
正確には、ワゴンに乗せられた物を見てだ。
逆さの視界でも見間違えるはずがない。
ワゴンの上には、ボルドーの赤ワインと大き目のボウル、そしてグリセリン注入用の注射器が、行儀良く並べられていた。




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