明け方近くまで眠れなかった私は、次の日目覚めたのは昼前だった。
「おはよう・・あれヒロは?」
下に降りると、主人がコーヒーを片手に新聞を読んでいた。
「マキシム、ちょっとヒロの事で話があるんだ」
急に主人が改まり新聞をたたんだ。
その態度にふと夕べの2人の会話を思い出し、不安が頭をよぎる。
「なっ、何?ヒロはどこ?トイレ?それともシャワー?」
辺りをキョロキョロ見回し、ヒロの姿を探す。
まさか昨日の今日で、私に何の説明もなく居なくなってるとは思わなかったので、油断してしまった・・・
(すでにヒロはこの家に居ないのか・・?)
「マキシム、とにかく説明するから座って」
「なんで? ヒロはどこ?」
尋ねてはみたものの、主人の口から出で来る言葉が怖くておちつかない。
「ヒロは朝早くに家を出て、びょ」
「家を出た!なぜ事後報告なんだ!ヒロは私へのプレゼントだろう。どうして私に何も言わずに」
主人の言葉の途中で立ち上がり、堪えきれずに握り締めた拳が震えた。
「マキシム」
「もう1人はイヤなんだ!ヒロが来てから私はやっと寂しさを感じずに済むようになったんだ。昨日あなたが戻って来たのに気づかなかったのは謝るよ。私はあなたを愛してる。でもあなたには家庭があって、私とずっと一緒に居てくれないじゃないか!今の私にはあなたもヒロも大切で、3人で居る時間がとても幸せなんだ」
私は怒りに任せて一気に話した。
「そうだね。僕も同じだ。3人で過ごす時間に満足している」
「だったら!」
涙が出そうになって、私はグッと言葉をのんだ。
「ヒロが居なくて淋しいと思うが、1ヶ月もすれば」
「1ヶ月!? 1ヶ月で私がヒロを忘れるとでも!? 」
「ん?忘れる? マキシム、何か誤解してるようだね」
「誤解・・? だってヒロは家を出て行ったんだろう?」
「あぁ、今朝早く病院へ行ったんだ」
病院のキーワードに、夕べの注射の言葉が浮かぶ。
「病院・・って・・」
(まさか本当に「薬殺」?! )
頭に浮かんだ言葉は恐怖の為、震えて言葉に出せなかった。
「今日最終的に検査をして、問題がなければ明日手術だ」
「えっ? 手術・・?」
私は自分が予想していた事と反する言葉を聞き、意味を理解するのに少し時間がかかった。
「あぁ、人工骨頭及び人工関節の置換術の手術を受けるんだよ。手術を受ければ、ヒロはスムーズに歩けるようになるんだよ」
「足の手術・・・なのか?」
一気に力が抜けた私はヘナヘナとその場に座り込んだ。
「びっこを引かずに歩けるようになる可能性があるとドクターに聞かされてね、ヒロに勧めてみたんだ」
「なんだ・・それならそうと早く説明してくれれば・・変な心配したじゃないか」
「説明しようとしたら、お前が1人で誤解したまま怒り出したんだろ」
「だって夕べ、注射がどうとか、居なくなると寂しがるとか」
「あぁ、聞いてたのか。しばらく入院することになるからね、その間お前が寂しがるって話だよ」
「そんなこと、手術だってわかってたら別に・・」
「まぁそうだけど、手術だから万が一って事もあるし、あまり早くから話すと心配するから、お前にはギリギリまで言わないでくれとヒロに言われていたんだ」
「言わずに居なくなられた方が心配するだろう」
「あはは・・確かに」
「笑い事じゃないよ。私は本当に・・本当にもうヒロに会えなくなるのかと」
張り詰めていた糸が切れたのと、安心したのとでまた涙が溢れてきた。
「ほら、食事をしなさい。この後ヒロの様子を見に行くんだから、そんな泣いた顔じゃ、ヒロは安心して手術を受けられないだろう」
私は頷いて席に着いた。
「マキシム、私はずっとここに居られないから、ヒロの事をお願いするよ。手術後のリハビリはかなり辛いものだろうから、お前が支えてあげてくれ」
「わかった」
そうだ泣いてなんかいられない。ヒロは明日手術を受ける。
私がヒロの面倒を見てあげるんだ。
主人が居なくても「1人じゃない」とヒロはいつも私の傍に居てくれた。だから私もヒロの傍に居てリハビリに付き合う。1人で辛いリハビリに耐えさせたりしない。
私の不安はヒロに伝わってしまう。だから私がちゃんとしなければ・・手術を前に不安なのは私じゃなくヒロ自身だ。ヒロが安心して手術をうけられるように、私は笑っていなければいけない。
「ヒロ、大丈夫だ。ここで待ってる。手術は無事に終わるから」
私はそう言って、ヒロを手術室へと送り出した。
30分・・・1時間・・
手術室の前で主人と2人、ヒロが出てくるのを待った。
どうしてこういう時間はとてつもなく長く感じられるのだろう。
「マキシム、大丈夫だよ」
不安に押しつぶされそうな私の頭を、主人が胸に抱き寄せてくれた。
―――ウィーン・・
手術が始まり、3時間ほどが過ぎたあたりで、手術室のドアが開いたと思ったら、中から看護師がバタバタと慌しく出て行った。
「何かあったのか!? 」
私はその緊迫した様子に驚いて立ち上がった。
「マキシム、いいから座って」
主人の落ち着いた感じに、私の不安は爆発する。
「いいからって何がいいんだよ!ヒロに何かあったのかもしれないじゃないか!もしこのまま死ぬなんて事が」
自分の言った言葉に心をえぐられ、私は堪えきれずに泣き出してしまった。
「マキシム、ここで僕達が不安がっていてもしょうがない。ドクターに任せるしかないんだ」
「わかってる・・そんなこと」
「僕達に出来ることは、ただここでヒロの無事を祈る事。違うかい?」
私は主人の膝にすがりつき、涙をこらえて大きく頷いた。
「ほら、ヒロの為に2人で祈ろう」
そのからどれくらいの時間が過ぎたのかわからないが、私達は黙って祈り続けた。
「マキシム・・どうして泣いてるんだ? 手術が成功して、喜んでる顔が見られると思ったのに・・」
まだ完全に麻酔から覚めきらない状態で手術室から出てきたヒロは、そう言って私の頬の涙を拭った。
「ヒロ・・お疲れ様だったね」
「ヒロ・・」
「あぁ、2人並んで散歩に出られる日が楽しみだ」
顔色が戻りきっていないヒロは青白く、でも私と主人を見て幸せそうに微笑んだ。
これでまた3人の生活に戻れる。
漠然とした安心感が突然襲ってきて、私は腰が抜けそうになった。
何も特別な事がなくていい。ただ当たり前に毎日を過ごせる事が、何より幸せなのだとわかった。ヴィラという特殊な世界の中で、変わらぬ日常を送れる幸せ。
大切なものが何であるかという事を失う前に気づけて良かった。
そう、ヒロがいつも言うように、別に多くは望まない。ただ今ある生活を続けたいだけ。今がとても幸せなのだと自分の心が感じている。
主人が居て、ヒロが居て、私が居る。
その当たり前の幸せが、この先も続くことを私は願っている。
あたなを好きになって良かった・・
好きになったのがあなたで良かった・・
―― 了 ――
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