秘密の犬―Parentalia(死者のための祭り) vol.4


 すでに私の漏らしたものは流されており、バスルームにはボディソープの香りしかしなかった。
 プラエトルのお達しで、私の排泄物にほとんど臭気はない。もちろん、調教当初は、臭気の強くなる薬を飲まされていたが、今では臭気を和らげるサプリを飲まされている。

「便臭だけでなく、尿臭もなくなりますし、老廃物や毒素も排出します。免疫が高まって感染症も起こしにくくなりますし、スカトロ趣味ではないお客様には良いことばかりなんですが、残念なことに、体臭もなくなってしまいますんでね」
と、医療チームのスタッフは残念そうに言った。
「体臭はフェロモンの一部ですから消してしまうのはまずいんですよ。ですので、少しは臭気を残してあります。ミルクしか飲んでいない赤ん坊程度にはね」
 そうして私は主人たちの赤ん坊になったわけだ。

 霧のようなシャワーが降り注いでいた。
アンリはすみずみまで私を洗うと身体を離し、今日はこれで終わりだ、と言った。
プラエトルは世話係に私を抱くことを禁じてはいなかったが、彼らが私を抱くことは滅多になかった。
 私が彼らに奉仕するのは、食事の前に儀式のように行われるフェラチオくらいだ。おかげで、私の食べる食事にはいつも変わったスパイスの味がした。
 しかしアンリだけは別だ。私の世話を命じられると私を必ず何度も抱いた。
 今日のような中途半端な行為で終わるのは珍しい。私に飽きたのだろうか。悲しみが私を襲う。主人に嫌われては、犬は生きてはいけない。
 私はプラエトルの飼い犬だったが、私の主人はたくさんいた。世話係りの人間、プラエトルの客、レストランや劇場の客、広場を通りかかる主人たち。私はすべての主人に可愛がられなくてはならない。プラエトルはそう言った。
 アンリがバスルームを出て行こうとするのを見て、追いすがろうとして立ち上がれず、私はタイルにうずくまった。顔をあげて叫んだつもりだったが、たいした声にはならなかった。
 ご主人さま、待って。涙が出た。か細いつぶやきはアンリに届いたらしい。
アンリは振り返って、一瞬動きを止めた。情けなく這い蹲っている私をじっと見て、なにかを言った。
 聞き取れず、そして、しばらくして私は気づいた。フランス語だ。
 ヴ ゼット ボゥ。あなたは美しい。
 私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。髪も乱れてみっともないことこの上ない。肌には昨日の責めの後がくっきりと残り、あざや傷跡になっているだろう。その上、阿呆みたいに泣きじゃくっていた。
 美しいどころかクソだ。それなのになんてことだ。馬鹿なアンリ。


 ヴ ゼット ボゥ。その同じ言葉を私は随分昔にアンリから聞いたことがある。
 新しく基金の恩恵を受ける若い学生と、私はパリの一等地に立つアパルトマンの最上階で面談していた。天気の良い日だった。
 会話がひと段落すると、私は窓辺に立って、ぼんやりと外を見ていた。
 ふと視線を感じて振り向いた。天気の良い午後で、日の光になれた目に、ブラウンの巻き毛とスミレ色の瞳はよく見えなかった。
 アンリは私をまっすぐ見ていた。そして言った。
「ヴ ゼット ボゥ」
 私は微笑んだ。
 そんな賛辞は聞き飽きたものだったから、特別何とも思わなかった。アンリは赤くなって、下を向き、そそくさと部屋を後にしたけれど。


 けれども今、私はその言葉に身体が熱く震えた。それは喜びだった。
 主人に認められる犬の喜び。あるいは、孤独な魂を慰撫される救済の喜び。そして、私が奪い、傷つけ捨てた青年への贖罪。
 すでに人間ではない、ただの犬の私を、今でも美しいと言う愚かな青年への。
 

 また意識が飛んでいたらしい。物音で、アンリがバスルームに帰ってきたのを私は知った。
 入り口に立つアンリの顔がしかめられていることに気づいて、私はあせった。何か失敗しただろうか?ぼんやりバスルームでへばっていてはいけなかったのだろうか。
しかし、アンリは叱責することなく私に近づくと、私の後ろに指を添えて命じた。
「ル・べべ、締めてごらん」
 ル・べべ(赤ん坊)。またフランス語だ。別におかしくはない。アンリはフランス人で、ヴィラの公用語は英語とフランス語だ。
 私は力をいれ、そして狼狽した。そこは反応しなかった。
 アンリはやはり叱ることはなかった。
 いい子だ、ル・べべ。力を入れて。そう、頑張って。ダメかい?怖がらないで、お前はいい子だ。さ、もう一度。
 アンリは何度も命じたが、私のそこは間抜けに開いたままだった。洗浄されたそこからは、湯の残りと、腸液が漏れていた。バスルームの床はすでに乾いており、わずかに着色したその流れが、尻から排水溝まで続いていた。
 ペニスまでも私の言うことを聞かなかった。気づけば、じょろじょろと細く小便を垂れ流していた。
 アンリは再び後ろに指を這わすと、挿入し、広げて様子をみてから、ため息をついた。
そして、私に昨夜の責めについて聞いた。私は情けなく、恥ずかしく、けれども少し興奮して、また、甘い気分でアンリに告げた。
 どんなにひどい事をされたか、つらかったかを延々と喋った。幼児語が混ざっているのに気づいたが、どうでもよかった。アンリは、舌足らずな喋り方でぺらぺらと話し続ける私を見て、ますます困惑した顔で告げた。
「ともかく医療スタッフを呼ぼう。ああ、黙って。もうわかったから、黙りなさい」
 私はしゅんとして口をつぐんだ。また、沈黙の命令が下ったのだろうか。

 プラエトルは私に人間の言葉を話すことを禁じることがあった。
 沈黙の命令はいつも気まぐれに告げられ、突然終わった。長く許されなかった時は、沈黙から開放されてもしばらく声が出なかった。
 ショックを受けて、声をあげずにしゃくりあげる私を、プラエトルは優しく抱き、幼児に対するように、ひとつずつ単語を教えた。

 アンリは私を抱き上げようとして、再びその場に下ろした。
このままじゃベッドにはいけないか、と言っていた。汚れるからですか、と声がした。私の声だったが、実感がなかった。
 不意に気が遠くなった。
 意識を失う前に、わずかに残った理性が私に警鐘をならした。私はおかしかった。壊れたのかもしれない。私が私の犬なら、とっくにヴィラに返品だ。

 気づいた時には、ベッドの上だった。あの部屋にはベッドはなかった。
きょろきょろと見回すと、見慣れた家具が目に入った。いつの間に移動したのか、いつも 私が使っている部屋のようだった。
 違和感に気づいて下半身に手をやると、やわらかな感触がした。オムツだった。私はオムツプレイが苦手だった。敏感な肌はかぶれやすいのだ。
 プラエトルも真っ赤になった私の尻を見て、オムツは滅多に使わなくなったというのに、なんということだ。私はうんざりし、はずそうとして手を動かした。
「フレッド。はずしちゃだめだよ」
 アンリの声がした。
 ご主人さま、と言おうとして声を引っ込めた。バスルームで黙れといわれたのだった。私はせめて起き上がろうとして、起き上がれずただからだを蠢かしただけだった。身体が抜けるようにだるかった。
「ああ、いいから寝ていなさい」
 アンリは私の枕元にすわると、優しく髪を撫でながら続けた。
「身体に異常があるわけじゃないんだ。神経が過敏になっているのさ。すぐ治るよ。気にいらないだろうけど、しばらくオムツはつけていなさい。心配はいらない、ちゃんと替えに来てやる」
 声を奪われた私は、微笑んでアンリを見上げた。
 アンリの手は優しく、私は幸せだった。幸せのような気がした。なぜだかおかしくなって身体を揺らして笑った。声を出さずに。
 アンリの顔が焦りを帯びた。
「フレッド。アルフレッド、お前、大丈夫なの。返事をしてごらん、ル・ベベ」
 私は混乱した。私は声を奪われたのではなかったのだろうか?
 頭がはっきりとしない。結局、私は声を出して、アンリに答えた。沈黙の命令は下っていなかったらしい。主人の言葉の機微もわからないようでは、犬としては失格だ。
 アンリは私が寝付くまで側にいた。私は幼子のようにアンリの手を握りしめたまま眠った。

 あなたの主人はプラエトルですが、私はあなたの恋人です。

 突然頭の中で優しい声がした。
 アンリと同じフランス訛りの英語だった。褐色の肌と黒い瞳、ファビアン。私の愛する私の神。もう何ヶ月も会っていない。不意に訪れが途絶え、いつしか渇望し、そして喪失感に絶望した。それでも私に何ができただろう。ただの犬にすぎない私に。
私は私が最初想像していたよりずっと、今の生活に満足していた。多くのものを失い、つらい気持ちはあったが、それでも私は充実していた。いつもどこかにあった空虚さを忘れていた。
 だから、私の心や身体が壊れていくのがなぜなのか、私にはわからなかった。ただ、ファビアンの声が聞きたかった。


 アンリが言ったように、オムツはほどなくはずれた。
 他の使用人たちが遠ざけられ、私の世話はアンリが行った。
 私のために食卓には長椅子が置かれた。プラエトルの食事の間、私はそこに寝そべり、頭を撫でてもらった。食事はプラエトルが少しずつ手のひらにのせて食べさせてくれた。
 プラエトルと一緒に摂らない時は、食事も座って食べた。
 どうしてだかスプーンやフォークがうまく使えず、アンリに食べさせてもらったので、以前とそう変わったとはいえなかったが。
 レストランや劇場で働くこともなくなった。当然広場に行くこともなく、プラエトルの客に与えられることもなくなった。
 プラエトリウムの中庭で毎日のように日光浴をした。また、限られた範囲ではあったが、自由に歩き回ることを許された。立って歩くことも許されたが、私は自分から床に這った。
 時々意味もなく失禁し、アンリの手を煩わせたが、そのたびにへらへらと笑った。

 なにより嬉しいことがあった。私に与えられた部屋はまた大きくなり、広々とした居間にグランドピアノが運び込まれた。
 アンリは時々それを弾いた。私はその足元で、アンリの足の指一本一本に舌を這わせながらうっとりと聞いた。
 興奮したアンリが私にのしかかり、ピアノの下で犯される時が至福の時だった。
 アンリの長いペニスが私の中を出入りする。奥まで突かれると、そのまま口まで貫かれるようで、私は舌を出し、えずいた。尿道にいれられたワンズは小さな突起が無数にあり、抜き差しされると苦痛と快感に私はひいひい泣いた。

 ごめんなさい、とある日私はアンリに言った。
 アンリのピアノは天から光が降るようだった。才能は神から与えられた奇跡だった。アンリに申し訳なくて、私は泣いた。
 もっと良い犬になって、プラエトルに開放してもらえるようお願いします、と言うと、アンリは気分を害したようだった。当然のことだ。すべては遅すぎる。
 そして私は久しぶりに吊るされ、鞭をふるわれ、尿道に刺された金属に電気を通され悶絶した。亀頭を横に貫くピアスを施された。
 アンリは口数が少なくなった。私は少し不安になったが、だからといって私に何ができただろう?

 その日は朝からプラエトルが私の世話をした。
 久しぶりに地下室へ連れて行かれた。仔犬館にあるような調教部屋だ。
 冷たいタイルの上に座り、プラエトルに命じられるまま、亀頭のピアスを抜き、そのまま小便をした。ピアスは尿道を貫通していた。尿はピアスの穴から漏れ、与えられたペットシーツの周囲を汚し、私は掃除を命じられ、床に這いきれいに舐め取った。
 排便はうまくいった。私は仔犬らしく鼻を鳴らし、何度もいきんだ。
 逆さに吊るされてから、洗浄のためにたっぷりと注がれたお湯に私は腹をぱんぱんに張らして嘔吐した。 
 降ろされて、泣きじゃくりながら後ろから汚物と汚水を勢いよく出す私にプラエトルはご満悦だった。同時に精を漏らし、やはりピアス穴から漏れ、私は主人の怒りを恐れて小さくなった。今度は掃除を命じられなかったが、尻を上げるよう命じられ、ひどくぶたれた。私は子供のように声をあげた。
 プラエトルは汚物をきれいにシャワーで流し、私の髪を乱暴に掴むと前をくつろげた股間に押し付けた。イマラチオ。
 顔を両手で掴まれ、乱暴に出し入れされる。奥まで突かれるたびに吐き気が込み上げるが、先ほどの嘔吐で吐くものは残っていない。
 主人は不意にペニスを抜き去ると、私の顔をめがけて精を放った。懸命に舌をのばしてそれを受け取ったが、飲み込めたのはほんの僅かで、残りは私の頬や顎や胸に白く散った。
 プラエトルは仰向けになって足を大きく開いて持ち上げるよう命じた。ゼリーをたっぷりとつけた指が私のアヌスをこじあけた。
 指はすぐに増やされ、そのまま手首までが挿入された。私は快感に声をあげ、あんあん鳴いた。ほどなく私はプラエトルの腕をひじまで受け入れて叫んだ。
 突かれる度にペニスは雄雄しく立ち上がり、蜜をこぼした。私は淫乱な奴隷だった。


 気づいた時は、いつもの部屋だった。私はベッドの上で眠っていた。
 気配を感じ起き上がると、プラエトルがソファに座って本を読んでいた。
 主人を待たせて意地汚く眠りをむさぼっていたのだろうか、私は青くなって重い身体を持ち上げ、転がるように主人の足元へ這っていった。
 プラエトルは私を叱ることはなかった。しばらく私を見つめると、歩けるか、とだけ聞いた。

 四つ足で歩こうとすると止められ、私は立って歩いた。久しぶりの二足歩行だったが、それでもきちんと歩くことができた。私はどこかほっとしていた。犬としては失格だ。
 プラエトルに従って進むうち、私は困惑して何度も足を止めそうになった。いつの間にか、プラエトリウムの表の領域に入っていたからだ。
 私が飼われていたのは、プラエトルの私的なスペースだった。
 ヴィラの運営に関わる表の人間はごく一部を除いて足を踏み入れることはない。
 プラエトルが仕事をする足元で、私はバイブを入れられて呻き、犬のトイレで用をたした。プラエトルの部下や客が私を見て眉をひそめることもあったが、そこはあくまでプラエトリウムの奥であり、私室だった。

 明るい近代的なオフィスで、グレーのスーツに革靴を履き、クリアファイルやパソコンケースを持って行きかう人々の中で、首輪とピアスしか身に纏っていない私は身のおきどころがなかった。
 人々は私に気づくと、一様に驚いた顔をし、そしてヴィラの人間らしく、何事もなかったかのようにプラエトルに会釈すると、前を向いて仕事に戻った。
 私はうつむき、ただプラエトルに従い、歩みを進めた。いったいなんの羞恥プレイだ。私は躾けられた時間をすっかり忘れ、人間のように恥らった。
 やがて唐突にプラエトルは足を止めると、すぐ側のドアを開いた。
「後の事は彼に聞きたまえ。それと面倒だろうが書類的な必要事項はレガテス(補佐官)に言ってある。ごきげんよう、ミスター・ウィンター」
 主人は私をドアの中に押し込むと、後ろを振り返ることなく去っていった。
 私は主人の呼びかけに違和感を覚えたが、それどころではなかった。ドアの中、窓から差し込む光を背に立つ人影に、目を奪われていたから。

 ファビアン。私は呼んだ。すべての感情を込めて。
「帰ってきました。遅くなって申し訳ありません。」
 少しやつれた顔で、私の情人は微笑んだ。

 ファビアンがまず行ったことは、私に洋服を着せ、首輪を取ることだった。
 長くつけられていた首輪は赤黒いあざを残した。
 そのうち消えるでしょう、とファビアンは言った。
 仕立ての良いスーツは私には少し不自由に感じられた。つくづく犬の生活に慣れていたらしい。
 驚いたことに、ファビアンもまた、ヴィラの姦計に陥れられていたという。
「Cナンバーを経験なさった皆様に随分と可愛がられました。良い経験でしたけどね」
ドムス・ロサエのマギステルの中には、自分から進んで調教を受けるものも多いのです、私は初めてでしたけどね、と彼は苦笑し、その艶やかさに私は頬を染めた。
 ファビアンは以前より魅力的だった。ドムス・ロサエの常識は正しかったわけだ。
「それに、充分すぎる臨時ボーナスをもらいましたし、プラスマイナスはゼロかもしれません」
 私は、ファビアンはここを出ていくのかもしれない、と思った。
 まとまった金を手に入れたヴィラのスタッフが職を辞するのは珍しいことではない。最近では複数年契約を強要され、途中解約は膨大な違約金を取られるので、余計だ。
平静を装い、ボーナスの使い道は、と私は問うた。
 私の心は凍てつき、涙を流した。私はプラエトルの飼い犬だった。彼と共に行くことはできない。私はファビアンの別れの言葉を、恐れながら待った。
 しかし、ファビアンの答えは違った。
「あなたですよ。私のボーナスはあなたです」
 私は解放された。





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