彼は、まだ逃亡を図る一人の尻にもう一度蹴りをお見舞いしてやった。
ひえぇ、と情けのない悲鳴が上がった。
聞き苦しかったのか、彼は眉をしかめてそいつの喉を強く蹴り上げる。
ありがたくないおまけまで貰ってしまったそいつは血反吐で床を汚す。
「で。」
くるり、と彼はリーダー格の男に向き直ってわずか、微笑した。
あれほど暴れまわったというのに、息一つ乱していない。
男は呆然としていたが、自分が視界に入っていると知るや、硬直してしまった。
「『おれ』がなんだって?仮病?ふざけてるだったか?」
青い瞳に、睨みつけられるでなく、射抜かれるでなく、ただ見下ろされただけでその男は危うく気絶しかけた。
男のその現実逃避は彼の重すぎる蹴りとともに中断させられたが。
ごぎり、と嫌な音が響いた。
口を真っ赤に染め、鼻を折って転げまわるその男を、もはや蔑視することもせず彼はもう一度、足を振り上げた。
「エリィィィィィック!!!」
反射的に振り返ると、今まで見たこと無いほど息を切らせた隊長が視界に入った。
碧眼がこちらを射抜いている。
「エリック・フォスター二等兵!!」
もう一度、名を呼ばれ彼の動きは完全に停止したが、
「『おちつくんだ。』」
隊長の続く言葉が存外、平凡なのに彼は意外な失望を禁じえなかった。
そのためか、縛めが解かれたかのように彼は短い硬直状態を脱す。
不幸にも、逃げるより呆ける方を選んでいた男の身体は簡単に跳ね飛ぶ。
悲鳴が床を引きずって、男はそのまま動かなくなった。
やっと、望みどおりに気絶できた訳だ。
「エリック!」
「うるせぇよ!てめぇはひっこんで」
ろ。彼は予想外に早く迫ってくる隊長を迎え撃つ為に、語尾を飲み込まざるを得なかった。
即座に、今度は拳を。 隊長が鼻血とともに倒れ伏すイメージが浮かんだ気がしたと思った。
途端、視界が360度回転する。 衝撃が襲ったと思うと、清潔な床とキスをしていた。
衝撃は身体中を打って痛みに変わる。 息が詰まった。
「…って!」
め、の言葉はまたも止まる、隊長のブーツが頭にめり込み、彼はもう一度床と乱暴に接触させられる。
それさえ確認させられずに、後ろ手に固められる。
顔が潰れるかと思う程の圧力にくらくらする。
容赦なくねじられた腕も悲鳴を上げていた。
もはや彼は絶対的強者から単なる惨めな敗者へと成り下がっていた。
それとわかり、彼が屈辱に顔を歪ませた時だった、隊長その人が、大気を盛大に震わせたのは。
「馬鹿共!!」
『ぼく』は、驚いた。
『おれ』の意識は、遠のく。
……
エリック除く四班班員は直ちに隊長の前に引き出された。
もちろん負傷したものも含め、だ。
当然の事、隊内部での私刑等の行為は一切禁止である。
しかも精神病を抱えている隊員に向かって。 おまけに、麻薬所持、
―――馬鹿共ぉぉ…!
隊長の波はもはや幻のビックウェーブ。
それでもポーカーフェイスを保つ隊長は、思わず自分で自分を称賛したくなった。
幸い、彼等の使用した薬は少量の為、大事には至らなかったが神経の衰弱に拍車がかかった事は否めないだろう。
ここまで彼を追い詰めた事をした動機も、馬鹿らしいことこの上ない。
どうも、あからさま過ぎる凶兆を見せて豹変する彼に、単なる演技ではないかと愚考を巡らせたらしいのだ。
実際、彼を押さえつけた時もパニックは伺えたが、豹変はしなかった。
それが彼等には、確たる証拠となった訳だ。
そして…
隊長は今日で何度目かと思われる溜息を吐いた。
それに過敏に反応する班員らに多少の苛つきさえ感じる。
「いかがなさいますか、大尉。」
先刻から動きの無いのに痺れを切らしたのだろう、横に控えている中尉が声をかけてきた。
神経質そうな切れ長の目に色素の薄い短髪、やや睨むような表情を見せているのは、このようなことで呼び出された不満からか、それとも素面か。
喋るのも億劫になっているらしい。
隊長は無言で中尉に紙の束――班員らの反省文なのだが――を渡す。
慇懃にそれを受け取り、近視なのか眼鏡をかける、と、一層神経質さが強調された。
しばらくの黙読の後、何を思ったか、中尉はそれを朗々と読み上げ始めた。
「ワタクシ、シフト・ツァーズは、同胞でありますエリック・フォスター二等兵に集団リンチ、及び暴行を行ったと…」
シフトは奇妙にひん曲がってしまった鼻を押さえたまま、呆気に取られてそれを見ていた。
読み終え、一息つく、と隊長は顎をしゃくって促した。
中尉もわずかに首を傾げ、次の隊員の文を抑揚無く読み上げる。
全て、謙譲語と尊敬語がごっちゃになっているのは仕方ない事だろうか。
たっぷり三分はかかったろうか。 最後の一文字も読み終え、中尉はやっと深く息をついた。
また、たっぷりドット一つ分の間をおいて、隊長はシフトに大儀そうに話しかけた。
「反省はしているわけだ。」
「ふぁい!ひゃいちょう、ひふんは」
聞き苦しい鼻声を手で払い、隊長はさらに続ける。
「貴様等全員謹慎処分にでもしてやりたい所だが、あいにくと今、この隊にそんな余裕はない。」
また一息、ガラスの中の水を飲み干す。
中尉はすかさずきっちり8割弱、それを注ぎ足した。
「じゃあ!?」
期待と安堵が混ざった声が、誰ともなしにあがる。
罰が保留になってうやむやになる事を期待しているのだろう、言わずもがな、だ。
「そうだな。」
許可無しの発言を咎める事もせず、隊長は背もたれに寄りかかり、首のみを曲げて中尉を見やった。
中尉も、もう既に理解していた。 何故関係無いはずの自分がここに呼ばれたのか。
「処分は彼に任せよう。」
指差してもらうまでも無い。 中尉も了解の旨を隊長に伝える。
隊長の目は少々の不安と、事が終わった安堵感を帯び
中尉はサディスティックに、悪戯っぽく笑った。
その後、シフト始め四班隊員は腹筋が壊れたとか何とか。
………
たいちょうが、ぼくをみさげている
わらってるのか、かなしんでるのか、
うまく、くみとれないひょうじょうだ
隊長はしばらく、そのままおれを見下げ
ていた。
おれは動かない。
それを見ると、隊長は動いた。
彼の、端正な顔が近付いてくる。
たいちょうは、ぼくのくびすじ、にかおをうずめた
いきが、みみもとできこえる
あらくて、こうふんしているのがうかがえる
まるで、いぬのようにはなづらをくっつけてくる
けんおはなかった
きみょうなことを、するものだとおもっただけで
そのうち首筋に噛み付いてきた。
何度も何度も。
流石に痛みをうめきで訴えると、
それは止まる。
同時に、今までくっつけていた
顔が離れた。
次に見た顔は、今まで見たこと
無いほど悲しげだった。
それきり、たいちょうはなにもしなかった
かなしそうにみられるとぼくもかなしく、
あぁ、このひとはぼくにだまっててほしかったんだな
ときづいた
こうかいしたけど、ときは、かえるはずなく
たいちょうはきびすをかえして、でていってしまった
ぼくは、また、ひとりになる。
………
それからの彼の生活は更に彼の精神を酷使した。
まず個室、否ほぼ独房に近い部屋にぶちこめられた。
二度と暴れられないよう、手枷足枷をはめられ、食事も満足な量とは程遠かった。
衰弱する精神の所為か、眠れない。 体力と、精神力だけが落ちていく。
勿論、普通なら直ちに帰還できただろう。
しかし戦況真っ只中、隊長が上層部に訴えてみるにはみたが、さして重要でもない一兵士の彼を顧みてくれる者はいなかった。
唯一下された命令が、『二度と問題を起こさぬよう更生させろ』と。
「どういうことだ。」
「聞いたままです、大尉。」
「いつ、私がそんな待遇をしろといった。」
「『隊長殿』は何も。 僕が命じました。」
「…なぜだ。」
「…大尉。 いい加減に固執は御止めになっては如何でしょうか。」
「お前の意見は聞いていない。」
「…では、無礼を承知で言わせて頂きます。
…貴方は彼に執着している。 それは、危険だ。」
「……私のことはっ」
「貴方一人だけの問題ではない。 隊内部でも不満が出ていました。
…このままでは統率が壊れます。」
「だからといって」
「今まで優遇されていた報いと思えば良いではないですか。 それに」
「…っいい加減にしろ!その様な事をした覚えは無い!!」
「……否定するなら、 昨日の深夜、何処へお出かけでしたか?」
「…!ちゅう」
だんっ
「知っています。 貴方は彼に間違いなく執着している。
…これは、貴方を更生する手段でもあるのですよ。」
「…っお前には付き合いきれない。 …妄想は自由だが、それを押し付けるな。」
かっかっかっかっ.....
残された中尉は、どっと虚脱感に襲われた。
壁にもたれかかる。 苛々と煙草をまさぐるが、火を点けた後に禁煙していた事を思い出してしまった。
彼の前では絶対つかないような悪態をつき、乱暴にもみ消す。
残った紫煙をあいつと重ね、思いっきり睨みつけた。
「…一兵士の名前を覚えてるなんて、執着している証拠じゃないか。」
………
敵国の電波は簡単に拾えた。 この分ならハックも軽いだろう。
馬鹿なことをしていると思う。 けれどもう、何もかもぶち壊してしまいたいのだ。
「…敵国の情報が得られた。 詳細な作戦もだ。 手短に伝える、まず…」
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