「失礼します」
看護師がノックをしてドアを開けると、ドクターとマキシムの会話が聞こえてきた。
「じゃ、なぜ怪我をしたのか覚えてないんだね」
「はい」
看護師は俺だけ中に入れるとドアを閉めて戻ってしまった。
俺は恐る恐るベッドへ近づく。
「ヒロ。問診が終わるまで、少し待ってくれるかい」
ドクターの言葉に頷き、ベッドに横たわるマキシムを見た。
右側の耳の後ろ辺りに大きなガーゼが当てられ包帯で止められていたが、顔色は思ったほど悪くはなく、手や足の怪我もたいした事なさそうでちょっと安心した。
「私はどこで倒れていたんでしょう?」
マキシムは俺を一瞬見ただけで、すぐにドクターへ視線を戻す。
「人目につき難い一角の植え込みの中だそうだ」
「なぜ私はそんな所に居たんでしょう?」
「さぁ、それは君と犯人にしか判らない事だ」
「そうですね」
マキシムはそう言って黙り込んだ。
俺はドクターと会話するマキシムに何か違和感を感じていた。
「あの・・」
マキシムが少し遠慮気味にドクターに声をかけた。
「何だい?」
「怪我をして運ばれたので、おそらく服がボロボロだったんでしょうけど、せめて病衣とか貸していただけませんか?シーツの下で素っ裸じゃ落ち着かないんですが・・」
マキシムの言葉にドクターと俺が固まった。
「えーっとマキシム、ここが何処だかわかってるかな?」
「病院・・ですよね?」
「あぁ、もちろん病院なんだけど、そうじゃなくて・・じゃ国は?ここはどこ?」
「えっ・・」
マキシムは質問に驚いた様子で、アメリカ人のドクターと日本人の俺を見て
「ロシア・・ではないみたいですね。ここは・・えーっと私はどこに居るんですか?」
マキシムの答えに、俺はさっき感じた違和感の意味がわかった気がした。
「どこから覚えてない?」
俺は恐々マキシムに尋ねる。
「どこからって・・だいたいあなたは誰なんです?」
「なっ!! 」
俺はハンマーで殴られたような衝撃を受け、ただ胡散臭そうに俺を見るマキシムに言葉が出なかった。
そのまま足に力が入らなくなった俺は、フラフラと誰かに操られるように廊下に出て、椅子にドサッと崩れ落ちた。
(マキシムが俺を忘れている・・)
いや・・あの感じだとヴィラのこと自体覚えていない様子だった。
何がどうなっているのか理解できないまま、俺は廊下の椅子で呆けていた。
「ヒロ、こっちにおいで」
しばらくしてマキシムの病室から出てきたドクターは、近くのカンファレンスルームに俺を招き入れた。
「驚いただろう?大丈夫か?今日は一日いろんな事があって疲れたんじゃないか?」
ドクターは手近な椅子に腰掛けると、俺にも座るように促す。
自分の検査に行って、マキシムが戻らず、主人に連絡を取って、ひたすら無事を祈って待って・・
そうだ、色んな事がありすぎて時間の感覚がおかしくなっていたが、これら全てが今日一日の出来事だ。
「さっきの会話でわかったと思うが、マキシムは一部記憶を失くしている。ただ完全に自分が誰だかわからなくなる『全生活史健忘』ではなく、マキシムの場合は自分の名前や生年月日などある程度覚えているから、怪我による一過性の『逆行性健忘』だろう」
「『逆行性健忘』・・ですか?」
「怪我の手前から少しの期間の記憶が抜け落ちてるようだ」
「それはどこから? ヴィラの事も?」
「あぁ・・どうやら軍隊に居た辺りまで遡ってる感じだ。まぁ外傷性の場合、怪我のショックで一時的に記憶が混乱してるだけって事も多いから、一晩寝たら治ってたって事もあるし、数日様子を見てみよう」
「はい・・」
「とりあえず今日はもう遅い。ヒロも戻ってゆっくり休みなさい」
意気消沈している俺を、ドクターは優しく気遣ってくれた。
俺は重くなった体を引きずり病院を出たが、家までどうやって帰ったかわからない。気がつくと真っ暗な玄関で立ち尽くしていた。
(記憶は無くなっていたが、とりあえずマキシムが無事だった。その事を喜ばないと・・)
俺は自分に言い聞かせ、なんとか2階に上がるとベッドに倒れ込んだ。
「ヒロ、大丈夫か?」
いつの間にか眠っていた俺は、次の日主人の声で目が覚めた。
「夕べ、ドクターから報告を受けたよ。困った事になったね」
「はい・・」
俺はまだ現実味のない感じで力なく答えた。
「今日にでも記憶が戻ってくれてれば、話は簡単なんだが」
「もし・・もしマキシムの記憶が戻らなかったら、どうなるんですか?」
不安な面持ちで主人の顔を見上げる。
「そうだな〜・・もう一度調教からやり直しかな」
「え゛!! 」
「嘘だよ(笑) ヴィラの事も忘れてるようだし、怪我が治って退院となったら解放奴隷にして帰してやろうかとも考えてる」
「そう・・ですか」
(だったら俺も用無しになるのかな・・)
主人の言葉にふとマキシムの為に買われたプレゼントだった事を思い出す。
「マキシムが居なくなっても、ヒロは僕と居てくれるかい?」
「えっ?」
主人が俺の顎に手をかけ、自分の方へ向かせると軽く唇を合わせてきた。
「それともマキシムが居ないとダメかい?」
俺は目を伏せ首を振った。
主人と俺を繋いでいるのはマキシムだ。そのマキシムが居なくなっても、俺はここに居ていいんだろうか・・もしマキシムが居なくなってしまったら・・
考えたくない「もしも」に捕らわれ、俺は思いを断ち切りたくてギュっと目を瞑る。
「ヒロ?」
「俺は・・・3人がいいです」
「そうだね。僕もだよ」
主人は俺を宥めるように頭を胸に抱え込み、背中を優しく撫でてくれた。
「大丈夫。きっとマキシムは僕達の事を思い出すよ。ここで過ごした生活を・・」
珍しくネガティブになっている俺を、主人は「大丈夫だ」と繰り返し、気持ちが浮上するまで言葉をかけてくれた。
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