主人とポルタ・アルブスに着くと、ドクターから話があると呼ばれた。
「CTの結果としては脳などに特に異常は認められませんでした。ただ頭の場合、直後の結果は大丈夫でもその後に中でじわじわと出血などがあり、それが血腫となって脳を圧迫し、数ヶ月後になって何らかの症状が引き起こす事がありますので、定期的にCTを受けていただく必要があります」
「わかりました。あの、それでマキシムの記憶は・・」
「今朝の段階でも、まだ戻ってはいませんでした」
「そうですか・・」
主人と2人、大きなため息をついた。
「脳に大きなダメージがある訳ではないので記憶は戻ると思いますが、もしかすると心因性によるもので、思い出す事にブレーキがかかっているのかもしれません」
「心因性・・・ですか?」
「記憶が戻るという事は、事件の事を思い出すという事です。かなり怖い思いをしたのなら、それを思い出したくないと思っても不思議ではありません」
「あーなるほど」
主人とドクターの会話を黙って聞いていたが、どうしても腑に落ちなくて口を挟む。
「でも・・それなら事件直前からとか、事件そのものの記憶だけでいいんじゃないですか?なぜヴィラに入る前まで遡って消えてしまったんでしょうか」
俺の質問にドクターは少し困ったような表情を浮かべた。
「そうだね・・辛い記憶を消したと考えると、ヴィラでの事もマキシムにとって辛い事だったという事かもしれない。まぁ拉致されて調教を受けてだから、マキシムじゃなくても楽しいものじゃないだろう。おそらく事件のショックと混乱で、辛い記憶が心の奥底に封印されてしまったのかもしれない」
「だとすると、このまま思い出さない方があの子の為なんでしょうか?」
主人は小さな声で、何かを諦めたかのようにつぶやいた。
「そんな訳ないじゃないか!! 確かにヴィラに来てすぐの記憶は良いものじゃなかったかもしれない。でも最近は3人で仲良くやってたじゃないか!その記憶が消えてしまっていいはずがないんだ!」
「ヒロ・・」
勢いよく立ち上がった俺の腕を引いて、主人はもう一度座らせる。
「とにかく数日様子を見ましょう。その際に周りから情報を与えすぎないでください。自分で覚えていたものなのか、教えられたものなのか、記憶が混乱して上書きされてしまう可能性があります」
「わかりました」
ドクターとの話が終り、主人は俺を連れ立ってマキシムの病室へと向かった。
「やぁマキシム、調子はどうだい?」
主人は努めて明るく声をかけながら、病室に足を踏み入れた。
「あっ・・えーっと、大丈夫です。すいません。頭を怪我したせいで記憶が少し飛んでしまっていて・・・あなたは私の上官でしょうか・・」
マキシムは目の前の人を忘れてしまっている事に焦っていた。
「上官・・まぁ上に立つって意味では違ってないか」
主人はあえて訂正せず、ベッドの横の椅子に座った。
「あの、これ下着とかガウンを持ってきたんだ・・」
俺は袋をマキシムに見せ、備え付けのクローゼットに入れる。
「どうもすいません。もしかしてわざわざ買ってきてくださったんですか?だったらお金を」
「いや。買ってきたんじゃなくてお前の部屋から取ってきたんだ・・勝手な事して悪い」
「えっ、私の部屋?あーえっと・・私はあなたと一緒に暮らしてる?寮か何かで同室とか?・・えっ、あなたも軍人?」
マキシムは訳が解らないというように眉を顰めて考え込む。
「マキシム、ヒロはこう見えて柔道・空手・剣道の段持ちなんだよ」
主人が自慢げに俺の肩を叩いた。
「そうなのか!? いや・・それはすまない。・・というか、そんな近しい人達を忘れてしまっているなんて私はどうかしてる」
マキシムは頭に巻かれた包帯に手を当て辛そうに顔を歪めた。
「いや・・それは怪我によるものだから、しょうがないだろ」
「そうだよ。そのうち全部思い出すさ」
主人の言葉の後、俺は居た堪れなくなり『また来る』と告げて逃げるように病室を出た。
家に戻ると2階に駆け上がり、ベッドに飛び込んで枕に顔を埋めた。
すると枕にはマキシムの匂いが残っていた。
マキシムはいつも枕にバスタオルを巻いて寝る。それを毎日取り替えるのだが、夕べは事件があったせいでバタバタしていて洗濯し忘れたのだ。
「マキシム・・」
俺はそうつぶやくと、思いっきりマキシムの残り香を吸い込んだ。
まだ一日前の事なのに、随分マキシムに会っていない気がする。
いつでも俺の後をついて回るマキシム。以前『他に友達を作れ』と言って喧嘩になったことがあった。こうなってみると、相手が居なくなってダメになるのは俺の方だったようだ。
母の匂いに安心する赤ん坊のように、俺はマキシムの匂いを噛み締めた。
「ヒロ・・」
しばらくしてポルタ・アルブスから戻った主人が2階へやって来た。
「お帰りなさい」
俺はモソモソと起き上がる。
「これは?」
ベッドサイドのテーブルに置いてあった雑誌を主人が手に取る。
「あぁ・・マキシムが『伯爵が来たら見せるんだ』と・・旅行雑誌です」
ドックイヤーがいっぱいついた雑誌をパラパラと主人がめくりながらベッドに腰掛ける。
「そうか、旅行の約束をしていたね。それで何処がいいって?」
「沖縄です」
「沖縄って日本だよね。それはどっちの意見?」
「俺が海がキレイな所とリクエストして、マキシムが日本がいいと言ったので、日本で海がキレイな沖縄って事に」
「なるほどね。マキシムが日本って言ったんだ」
主人は珍しそうにページを開く。
「そうだね。僕もヒロが生まれた国を見てみたいよ」
マキシムと同じ言葉を言われた事に驚き、主人の笑顔が滲みそうになったので俺は慌てて立ち上がった。
「ちょっと洗濯してきます」
ガバッとシーツとタオルを抱えて部屋を出た。
幸せだった一昔前を思い出しては涙ぐむ年寄りみたいで「嫌だな」と呟きながら階段を降りていると、最後の一段を踏み外して派手に転んでしまった。
「あいたた・・」
「ヒロ!! 大丈夫か?」
ドスンという音に驚いた主人が部屋から飛び出し、階段の上から声をかける。
「平気です。シーツを抱えていて下が見えなかったもので・・」
辺りに散乱したタオル類を集め、再び立ち上がろうとして足首に激痛が走る。
「う゛っ!!」
「ヒロ、そのままジッとして!」
主人が慌てて降りてきて、俺の足を見る。
「捻挫してるようだ。とりあえずシップでも貼って、後でもう一度ポルタ・アルブスに行こう」
2度ある事は3度ある・・
マキシムの事件に記憶喪失、そして俺の怪我・・これで終りであってくれ
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