夕方足の処置をしてもらう為、ポルタ・アルブスに再び来たので、ついでにマキシムに洗濯物を届けた。
「バスタオルここに入れとくから。枕に巻くのに必要だろ」
「あっ・・はい」
マキシムは少し驚いたように俺を見た。
「足・・どうしたんですか?」
「あぁ、ちょっと階段を踏み外したんだ。たいした事ない」
「前にも・・足を怪我した事って・・」
「えっ?」
「いえ・・何でもないです。あの足怪我されてますし、私の事なら大丈夫ですので別に毎日来ていただかなくていいです。洗濯も自分で出来ますし」
マキシムの言葉からは遠慮してるというより、迷惑しているという色が伺えた。でも俺はそれを判っていてあえて気づかぬふりで答える。
「いいんだ。俺が好きでやってる事だから。お前の顔を見ないでいる方が心配だし」
「そうですか・・」
少しウンザリといった感じのため息をマキシムがついた。
それから2日が過ぎたが、マキシムの記憶は戻っていない。
主人が帰る前にマキシムの所に行くというので、一緒にポルタ・アルブスを訪れた。
俺は足を診てもらってから顔を出すからと、先に主人に行ってもらった。
捻挫は思ったほど酷くなく、かなり痛みも腫れも引いて、スムーズに歩けるようになっていた。
『ヒロの事かい?』
ドアを少し開けたら中から主人の声が聞こえ、中に入るのを躊躇った。
『毎日来なくていいと言っていただけませんか?』
『マキシムの事が心配なんだろう。いいじゃないか、本人が好きで来てるんだ、勝手にさせてやれ』
『でも、あの人に見られてるとなんだか責められてるようで、一緒に居ると息が詰まりそうなんです』
『ヒロに何か言われた?』
『いえ、何も。だから余計に辛いんです。早く思い出せって無言のプレッシャーをかけられてる感じがするっていうか、こんなに親切にしてくれてる人達を思い出せない自分がすごく悪いみたいで、正直しんどいんです』
苛立ちを押し殺したようなマキシムの声に、俺は息を呑む。
そしてそのままそっとドアを閉め、回れ右して病室から離れた。
「あの、これマキシムに渡してください」
ナースステーションにバスタオルの入った袋を預け、俺はポルタ・アルブスを出た。
(俺の存在がマキシムのストレスになってたんだ)
リビングのソファーの上で膝を抱え、何もついていないテレビを眺める。
そうだ・・記憶を失くして1番辛いのはマキシムなんだ。
俺は自分の事を忘れられた事がショックで、自分の事しか考えてなかった。
ドクターから必要以上に情報を与えるなと言われて、せめて傍に居て一緒に時間を過ごせば、少しでも思い出してくれるかもしれないと、マキシムが迷惑がっているのを気づきながら押しかけ続けた。
でも俺が居る事はマキシムにとって苦痛でしかなかったのだ。
思い出せない相手。
怪我の後に初めて会った状態の人間に、必要以上に親切にされてどうすればいいか困っていたんだ。
そうだ・・俺が知ってるマキシムはもう居ないんだ。
主人の怒りを買って首輪を外され泣いていたマキシムも
俺にいたずらされながら寿司を注文していたマキシムも
俺以外に友達を作れと言って喧嘩になったマキシムも
主人の帰りに気づかずエッチしていてお仕置きされたマキシムも
俺の手術の後にリハビリに付き合ってくれたマキシムも
俺の生まれた国を見てみたいと言ってくれたマキシムも
すべて消えてしまったマキシムなんだ・・・
今存在しているのは、ヴィラに捕らわれる前の軍人であるマキシム。
誇り高く、日本人の俺とは何ら接点のないロシアの軍人マキシム。
これが現実なのかもしれない。今までが幸せすぎてむしろ夢だったんだ。
そうだきっと夢だったんだ・・
「どうしたんだ?荷物を預けて帰ってしまうなんて」
主人は隣に腰掛けると俺を覗き込む。
「マキシムは俺に会いたくないようなので」
「ヒロ・・」
「俺を・・成犬館に移してください。なんなら地下に戻してくれてもいい」
主人は驚き、言葉が出ないようだった。
「ご主人様もこの後帰ってしまう。あちこちにマキシムの思い出があるこの家に、俺1人で居るのは耐えられない」
「ヒロ・・」
「もうマキシムは居ないのに・・」
俺の言葉に主人は少し考えた後、ギュっと抱きしめて耳元で囁いた。
「わかった。ヒロが淋しいなら気が紛れるように成犬館に移してあげよう。でも地下には戻さない。僕はお前を手放す気はないからね」
「ご主人様・・」
俺は成犬館に入ったが、他の犬と接触せずひたすら部屋に引きこもっていた。
主人の計らいでいつでも好きな時にポルタ・アルブスに行っていい事になっていたが、ここに移って3日、1度もマキシムの所には行かなかった。
マキシムが望んでいない事を知ってしまったからには、向こうから用事で呼び出されない限り、顔を出すつもりはなかった。
「どうした? 随分と塞ぎ込んでるんだって?」
その声に顔を上げると、精神科ドクターのエンリケが立っていた。
「別に・・」
「自分でここに移してもらったんだろう? 散歩でもして気晴らしすればいいじゃねーか」
「気が乗らない」
「せっかく足も治ったのに・・ リハビリ辛かっただろ?」
エンリケがズボンの上から大腿部の傷痕に触れた。
「・・・今の方が辛い」
「そうか・・」
ポツリと洩らした言葉をきっかけに、エンリケによって心の内に止めていた感情が引き出されてしまい、俺は今までの事を全部話してしまった。
「辛いから消したんじゃねーかもな」
「え?」
意外な答えに俺はエンリケを見る。
「その逆の可能性もありかなって」
「逆って?」
「ん〜だから・・大切だから封印した・・・みたいな?」
「意味がわからない」
「まぁ人間の考える事なんてわかんない事だらけなんだけど、マキシムは頭を怪我して大量出血した。おそらく薄れ行く意識の中で、死を覚悟したんじゃねーかな。死ぬ前って、今までの幸せだった事とか、大切な人の事とか考えるってゆーじゃん。そしてそれを失いたくないって思うわけだ」
エンリケの言葉に大きく頷く。
「失いたくないから、それを守る為になかった事として消してしまったり、心の奥底に封印したりするってのが人間の心理かなって。つまりマキシムは嫌だから思い出さないじゃなく、失いたくないほど大切なものだから、思い出せないくらい奥の所に隠しちまったんじゃねーかって事」
「大切なものだから・・・」
「まっ、俺ならそう考えるって話」
エンリケは軽く俺の肩を叩くと「たまには散歩に出ろよ」と部屋を出て行った。
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