悪党クラブ  第16話

 用務員の車は調子が悪かった。
 M4線に出て、しばらくすると車がよたよたと止まった。おれたちは車を捨て、歩いた。

 道が暗く、小雨が降っていた。小雨はやがて本格的に降り出し、服の中まで水が沁み通ってきた。

 寒くて歯が鳴った。うしろで先生の息が震えていた。彼は何度も立ち止まり、路上にうずくまって動かなくなった。
 おれはその手を引き、雨の中を足早に歩いた。

 B&Bの看板があった。
 深夜になっていたが、ドアをたたくと、女主人が眠そうに出てきた。

「あの方は」

 女主人は先生を見て、いぶかった。先生は子どものようにすすり泣いていた。

「兄はちょっと頭が……」

 おれは言った。

「車がダメになって、暗い道を歩かせたので怯えてるんです。休ませていただけませんか」

 彼女は同情して、家族用のシャワー付の部屋を貸してくれた。

「さき、シャワー使っていいよ」

 おれは濡れた服を脱ぎ、そのポケットから武器を出した。
 メイスとテイザー。さらにナイフをベッドの周囲に隠す。

 そうした装備がひどくちゃちに見えた。あの黒いプロフェッショナルたちの前では、おふざけにもならないのではないか。

(ドアを開ける気配がしたら、窓から逃げるしかない)

 ドアの前にチェストを移動し、バリケードを作る。窓をあけ、手すりにネクタイを縛り付けておいた。

(でも、窓から来たら――終わりだな)

 気づくと、先生はまだバスルームにいた。なにかおかしな音をさせている。

「先生?」

 先生はトイレに覆い被さり、吐いていた。便器に赤いものが落ちていた。
 先生はしわがれた声で、

「大丈夫。胃だから」

 と言った。

 ベッドに入っても先生は腹をおさえ、じっと身をかたくしていた。
 おれも眠れなかった。

 やがて追ってくる特殊部隊のことはふしぎと思わない。
 便器に落ちた血痕が胸から消えなかった。便器に覆いかぶさり、ひとりで血を吐いていた姿が脳裏に何度も去来した。

 起き上がり、となりのベッドを見つめた。

「そっちいっていい?」

 先生は身動きしなかった。
 おれは彼の毛布のなかに入り、その細身を抱きしめた。

「なにもしない。眠って」

 やわらかい髪にあごをつけ、おれは目をとじた。自然とその背に手を当てていた。
 腕のなかで、また彼がすすりあげる気配を感じた。眠ってくれ、と祈るように思った。




 リョウに電話して事態を話すと、彼は悲鳴をあげた。

『あ、アホか! なにやってんだ。いったい』

「しかたない。おまえが間に合わなかったんだ。とにかくこれから身を隠すから、母さんたちに心配しないように言ってくれ。それと、新しいパスポートを手に入れたい。だれか職人を紹介してくれないか」

 パスポート? と彼はあえいだ。しばらく言葉が出なかった。

「パスポートが二人分いるんだよ。おまえなら、偽造屋を知っているだろ」

『……』

「名前と電話番号だけ教えてくれ。これから会いにいく。おまえにたのむと遅れるからな」

『コンラッド。待ちなさい。どこへ行くっていうんです』

「おまえなんかに教えるか」

『あの組織から素人が逃げられると思ってるんですか!』

「人間の作った組織だろ。どうってことない。おれも人間だ」

 リョウは少し黙っていた。観念したようだ。

『生まれたての子牛は虎を恐れない』

「日本のことわざ?」

『中国のです――わかりました。書類は手にいれますから、これから指示に従ってください』

「従わないが、アドバイスは傾聴する」

 リョウは書類の受け渡し日時と場所を教えた。また、電話連絡のとり方や、カードの扱い方、宿泊する時の警備などをくどくどと注意した。

 ダイニングに戻ると、先生はテーブルの端でぼんやり窓の外を見ていた。
 皿の上にはベーコンや卵が手付かずのままだ。

「胃にこたえる? スープでももらおうか?」

「いや、食べるよ」

 彼はふりむき、見上げた。

「気づかってくれてありがとう」

 まなざしがやわらかくなっていた。

 おれは一瞬、見とれた。何ヶ月ぶりだろう。先生が泣いていないのは。
 こんなやさしい顔だった。ほんの夏までは、愛想のいい、可愛い先生だった。

「家へ電話してきたのかい」

「ああ」

「ご両親は心配していたろう」

「慣れてるさ。それより飯食ったら移動しよう。車を借りないと」

 ねえきみ、と彼はおれを見つめた。

「これはきみには関係ないことなんだろう?」

 美しいヘイゼルの目がまっすぐ見ていた。

「きみの正義感はありがたく思うけれど、ここまででいい。あとはぼくひとりで行くよ」

 おれは首を振った。

「あなたはわかってない――」

「ぼくはおとなだ。生徒を危険な目にあわせられない」

「関係なくないだろう!」

 おれはたまらず言った。

「おれがはじめたんだ。おれが仲間を呼び集めた。ゴロツキに頼んで、あなたとグリフィス先生を誘拐した。こんな風になるとは思わなかった! ヴィラが出てくるなんて! あなたを一生閉じ込めようだなんて――」

 バカげたことだが、急に耐えがたくなってしまった。おれは顔をそむけた。泣きそうだったからだ。

(なに興奮してんだ。おれは)

 押さえようとしても、感情の塊が胸からあふれでてくる。やりきれなさと憤怒がからだのなかで大蛇のように暴れていた。

「後悔してるんだね」

 変な声が出そうで、答えることもできなかった。子どもみたいにうなずいただけだ。
 先生はおれの手をやさしく叩いた。

「食べよう」



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