独裁者 第10話

  
 気づくと、わたしは無意識にオルセンの胸を指でなぞっていた。
 ワイシャツの下に厚い布のようなものがある。不恰好に巻かれ、中のシルエットを隠している。

 彼はかすかに苦笑した。

「見たいんですね」

「あ――いや」

 わたしは気まずく手をひっこめた。「悪かった」

 彼は体を起こした。ワイシャツのボタンをはずす。アンダーシャツをぬぐと、幅広の包帯で厚く巻いた胸が現れた。

「揺れると痛いんですよ」

 彼は無造作に包帯をほどき、息をついた。「掴まれてもね」

 包帯がはずれると、奇跡のような見事な乳房がこぼれ出た。

 不思議な光景だ。
 陰気な柱のようにしか思えなかったオルセンが、べつの生き物に変わっている。
 翼ある妖婦がそこにいた。静かな男の目が見ていた。男らしさと女の威厳の奇妙な融合。変幻自在の異国の神が顕現したようだ。

 彼はわたしの隣に身をよこたえ、肘をついた。まるい乳房がゆったりとわたしの目の前に浮いた。

「触っていいですよ」

 彼はそっけなく言った。慣れているのだろう。
 わたしは思春期の少年のようにおずおずとその胸に触れた。皮膚が意外にやわらかい。男の皮膚ではない。

「女性ホルモンのせいです」

 彼は先回りしてこたえた。「だいぶ減らしてますが、すぐには止められないんです」

「この胸は、取るの?」

 ええ、と彼は言った。

「まとまった休みが取れたら手術します。こんな体じゃ、息子とキャッチボールもできない」

 彼にはアメリカに別れた妻と息子がいた。サットンに飼われてからずっと会っていないという。

「でも、おかしいんです」

 彼はさびしく微笑った。「自由になって、男に戻れると思ったら、すこし名残りおしくなった。自分でも知らないうちに気に入っていたらしい。狂ってる――」

 彼の目にベッドスタンドの光が映っている。その目はかなしく、いつになくやさしかった。

 わたしはその乳房に唇をつけた。舌先で乳輪をなぞりあげる。舌にふしぎな弾みがつたわった。やわらかい。筋肉ではない。

 乳首が小石のように浮き出ていた。わたしはそれを口にふくみ、吸った。
奇妙な眩暈を感じる。頬にあたるやわらかさがふしぎだ。一瞬、どこにいるのかわからなくなる。

 乳首を唇から離さず、わたしは片手でいまひとつのたわわな果実に触れていた。つかんでも指からとろけ落ちるようなたおやかさを無心にたしかめていた。

「ふ――」

 オルセンがためらいがちな息をつく。
 彼の心臓の鼓動が乳房にも伝わっていた。手にうっすらと汗を感じる。彼の息のこわばりがひどくエロティックだった。
 わたしは音をたてて、その乳首を吸った。

「もう――、勘弁してください」

 彼は息まじりの声でやさしく言った。「もう寝ないと。明日は予定をキャンセルしたくないでしょう」




「マクスウェルさん! カーディフSATをアメリカ企業へ売り渡すというのは本当ですか」

「相手は兵器産業だって言うじゃないですか」

「最先端技術が国外に流出する危険は」

「マクスウェルさん。これは国益に反するのでは」

 警備スタッフが記者たちを押し分け、わずかな隙間をつくる。
槍のように突き出されたマイクを跳ねあげ、わたしは社内に入った。

「まいるな」

 マイクをぶつけられた頬骨が痛む。ハンカチで頬をぬぐい、わたしは鼻息をついた。

「だれのしわざだ?」

 カーディフSATの売却に対し、にわかにマスコミが騒ぎ出した。

 アメリカには次々世代軍事衛星通信ネットワークをつくる計画があり、そこへ優れた技術をもつ企業を輸出するのは危険だ、というのである。

 ――アルテミスのマネーゲームは国を滅ぼす。

 ――携帯電話事業ではなく、ハゲタカ・ファンド。

 おかしなことだ。この国はインフラにいたるまで外国企業を受け入れている。マスコミの加熱ぶりは人工的なにおいがした。

「フランスが動いていますね」

 オルセンはすでに騒動の仕掛けを調べていた。「フランスのピカール社がロビーをやってます」

 フランスの宇宙開発会社、ピカールが騒ぐのは無理もない。ピカール社はカーディフSATとくだんの秘密の共同開発をしていた。
 フランスの軍需とアメリカは犬猿の仲である。研究成果がアメリカに移るとなれば、あわてるのは道理だろう。

(だが、ずいぶん早く嗅ぎつけたな)

 オルセンが言った。

「五日前、マリウス・ベネットがフランスに渡っています。――セッティングしたのは、サットン会長でしょう」

 わたしは目を閉じた。

(――ベネット)

 スマートな彼らしくない。捨てた相手への妨害活動など彼の美学に合わなかった。

「踊らされているんです」

 オルセンは言った。「ベネットは坊や育ちです。老獪なサットンにとっては与しやすい小僧でしかない。――間違えないでください。問題の根はサットンです。彼はEU寄りの人間です。本気でカーディフSATのアメリカへの売却を止める気です。彼を沈黙させなければなりません」

「そうだな」

 わたしは言った。「火の粉を払うとは言わない。サットンを潰してやる」



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